滂沱の涙・・・涙を流して少しでも楽になりましょう!

基本的には思いを吐き出し滂沱の涙を流すブログ。暗く、悲しく、惨めな思いを歳も体裁も場所も構わず訴える。

太宰治不滅の至言

2013-05-14 15:47:54 | 太宰治


   善蔵を思う 

 私は縁側に腰かけ、煙草を吸って、ひとかたならず満足であった。

神は、在る。きっと在る。人間到るところ青山。見るべし、無抵抗

主義の成果を。私は自分を、幸福な男だと思った。悲しみは、金を

出しても買え、という言葉が在る。青空は牢屋の窓から見た時に最

美しい、とか。感謝である。この薔薇の生きて在る限り、私は心の

王者だと、一瞬思った。

      
 返事
 
 私はいまこの負けた日本の国を愛しています。曾(か)つて無か

ったほど愛しています。早くあの「ポツダム宣言」の約束を全部果

して、そうして小さくても美しい平和の独立国になるように、ああ、

私は命でも何でもみんな捨てて祈っています。


  ろまん燈籠

死なせて下さい、等という言葉は、たいへんいじらしい謙虚な響き

を持って居りますが、なおよく、考えてみると、之(これ)は非常

に自分勝手な、自惚(うぬぼ)れの強い言葉であります。ひとに可

愛がられる事ばかり考えているのです。自分が、まだ、ひとに可愛

がられる資格があると自惚れることの出来る間は、生き甲斐もあり

この世も楽しい。それは当り前の事であります


ヴィヨンの妻

人間の一生は地獄でございまして、寸善尺魔、とは、まったく本当

の事でございますね。一寸(いっすん)の仕合せには一尺の魔物が

必ずくっついてまいります。人間三百六十五日、何の心配も無い日

が、一日、いや半日あったら、それは仕合せな人間です。


   人間失格 

いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて

行きます。自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の

世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけ

でした。ただ、一さいは過ぎて行きます。


  斜陽

私は、お母さまはいま幸福なのではないかしら、とふと思った。

幸福感というのは、悲哀の川の底に沈んで、幽かに光っている

砂金のようなものではなかろうか。悲しみの限りを通り過ぎて、

不思議な薄明かりの気持、あれが幸福感というものならば、陛下

も、お母さまも、それから私も、たしかにいま、幸福なのである。


   父

子供のおやつ、子供のおもちゃ、子供の着物、子供の靴いろいろ

買わなければならぬお金を、一夜のうちに紙屑の如く浪費すべき

場所に向って、さっさと歩く。これがすなわち、私の子わかれの

場なのである。出掛けたらさいご、二日も三日も帰らないことが

ある。父はどこかで、儀のために遊んでいる。地獄の思い出遊ん

でいる。命を賭けて遊んでいる。




  作品ファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)



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