「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 瞬間を実感する 佐峰 存

2015-06-28 00:00:00 | 短歌時評
 地下深く、りんかい線駅の構内を歩く。駅が“移動”という概念を中心に作られた場であるからかも知れないが、駅にいると瞬間毎に自身が生まれ変わっていくように感じる。“一瞬前の自身”と“この瞬間の自身”を結びつける記憶も、目に入るあらゆるものが時間に支配され機能的な構内では薄まっていくように思える。

歩きつつ意識ほのかに眼底にみずひき咲ける階段くだる
(内山晶太「pool」vol.8、2014年)



 身体は次の予定に向かっているが、「意識」は分離されたように漂っている。「ほのか」でありつつ実はとても明瞭で、身体と意識自体、そして外の世界の“ずれ”をじっと見つめている。「眼底」は地底と意識の底が融合した、語り手の視野に広がる“境地”だ。「みず」の表面に花が咲いている。「ひき咲ける」という表現を以て“ひき裂ける”と“咲ける”という言葉が境目なく縫合されている。少々痛々しくも、潔く“捨て切ったような”美の中に、生も死も一緒くたに放り込まれる。しかし、依然足は動いたままだ。繰り返される「階段」の硬さを感じ取りながら、次の瞬間に向かって「くだ」り続ける。
 階段を下ると幾何学的な床の模様と共に視界がひらける。線路が水脈のように傾いている。一帯を覆う暗さの直中で足音のみが痕跡を残す。等間隔で照明が壁を走り、遠くで自動販売機が光っている。

薄闇にちらばっているLEDライトの計算された郷愁
(東郷真波「一角」、2013年)



 不安を感じさせる闇の中で人工物が安堵をもたらす。「郷愁」という意識の深みから来る感情が、意識を持たずただただ光る装置によって呼び起こされる。「LEDライト」は、その光り方から配置まで、作り手の行き渡った配慮のもとで世に現れた。その姿に語り手が郷愁を覚えても何ら不思議ではない。しかし、語り手は同時に“違和感”も感じている。姿の見えない“誰か”の「計算」のもと、スイッチのようにオン・オフされ続ける感情。“感情”とはそのようなものであっただろうか。

自販機の体のなかの見本品(サンプル)が倒れたままのジュースを選ぶ
(谷川電話「角川短歌」12月号、2014年、角川学芸出版)



 私達の意識も身体も装置のようなものかも知れない。語り手は「自販機の体」という言葉で自販機を擬人化し、自身を重ね合わせている。自販機は支障のない程度に稼働はしているものの、丁重には扱われていない。何かが当たったのか、地面が揺れたのか、それとも自然に力が抜けたのか、傾く「見本品」は折れた心のようだ。しかし、語り手はその「ジュース」を選ぶ。見本品が「倒れ」ているから(共感し)選んだ、というよりも、見本品が倒れていようと出てくる缶の中の果汁には“何ら変わりがない”から選んだのだ。そう読ませる勢いがこの歌には感じられた。より本質的なもの―“果汁”―を見据える姿勢が、歌の背骨を成している。
 自販機と身体を何の疑問も感じずに対比出来てしまうこと。ながらくヒトの身体は社会の仕組みや技術と共存してきたのであって、これからも当初は思いもしなかった社会制度や技術革新に合わせながら生きていくのだろう。情報通信技術が生活の姿かたちを変えてしまった現代、身体の位置付けも変わってきている。

鉛筆を舐めつつ励みし学童の日々はや朝よりPCに滅入る
(島田修三「角川短歌」12月号、2014年、角川学芸出版)



 素朴な情景で微笑ましくもある歌だが、読み手である私自身の日々の生活における戸惑いをも言い表しているように感じた。技術が進展し生活が便利になることは肯定すべきことかも知れないが、目を凝らしてみると様々な不安も浮かび上がってくる。語り手は「学童の日々」から今日までの時間を「はや」く感じた。この“速度”は、世界が語り手と擦れる速度だ。生活をする上で今や誰しもが使わざるを得ない「PC」に対し「滅入る」という強い表現が使われている。語り手は文字通り、「」に「」っている。この歌を読み、いつまで経っても世界と“私”というものは根本的には溶け込まないのだと感じた。そして、周知の通り、そのPCも今や随分と古くなりつつある。
 目まぐるさ。意識が追い付く頃には身体も世界も姿を変えてしまっている。焦点が合わない。そんな心持ちの時は、直接的に“意識”を見つめた歌を読みたくなる。

雨沁みて重たいつばさ 感情は尖(さき)がもっとも滅びやすくて
(大森静佳「一角」、2013年)


目に見える疲れはやがてとどこほり桜の幹に膨るる木瘤
(種市友紀子「pool」vol.8、2014年)



 大森氏の歌で語り手は「つばさ」を伸ばす。自由の風を昇ろうとした矢先、「」によって計画は中断する。雨は羽根の隙間を埋め、翼を空気に乗れなくしてしまう。感情が備えていた、硬度のある「」は砕ける。風に対する切れ味と共に、感情そのものが鈍った様子が伝わってくる。この歌は隅々まで“現代的”だと思う。語り手は自身の感情とその「滅び」に、一種の冷徹さと共に向かい合っている。人の心なるものが分析されるようになって久しいが、主観と客観の境界を探る姿に、この歌の鋭さを感じた。
 種市氏の歌も感情そのものの在り方を見つめている。「目に見える疲れ」が登場する時点で“目に見えない疲れ”も影のように現れる。目に見えない疲れの方が深刻だ。自身の外にあったものが自身の内に入り、自身と一体となる。すると脱力が起きる。疲れという根源的な感覚。意識の裏側まで深く沈み込んでいった自身の疲れによって、自身の世界に対する感度が増す。「木瘤」が語り手の疲れを体現するように、外側から語り手に飛び込んでくる。語り手は自身の無意識を目撃する。

大和なる山川草木はぐくみし雨なり街を滅ぼすなかれ
(秋元千惠子「角川短歌」12月号、2014年、角川学芸出版)


みずいろの蛍光ペンで新聞のさんずいの字を塗る雨の朝
(中家菜津子『うずく、まる』、2015年、書肆侃侃房)



 同様の“疲れ”は秋元氏の歌にも見られるのではないだろうか。「」が一斉に降ってくる。日本の豊かな自然と歌を育ててきた雨も、もはや信じ切ることは出来ない。柔らかな雨が堅牢な「」を壊し得る世界に私達は住んでいる。どのような街も最終的には滅ぶか撤去されてしまうのではないか―そんな不安だ。空から降ってきたら防ぎようのない様々なものが既に世に存在している。「山川草木」と繋がった人間の身体は薄々と感付いている。
 中家氏の歌の「みずいろ」は人間の目に映った水の色だ。その色で語り手は新聞の紙面を“水浸し”にしていく。「さんずいの字」は社会の動向を伝える新聞記事のあらゆる箇所に根を張っている。改めて水から生まれた文字の多さを認識する。それらの文字の多くは穏やかな、生命に満ちた文字だ。水は、そして「」は様々な事物と交わりながら、自然と人の世の双方を組み立てていく。いつまでもこうした雨であって欲しい。

息しづか拍動しづか尋常をたまはるひと日ひと日の落葉
(小谷陽子「角川短歌」12月号、2014年、角川学芸出版)



 動きの激しい時代に生きていくこと。小谷氏の歌の中心にある「尋常をたまはる」という言葉に気付かされる。そうだ、決して“尋常”な世界ではないのだ。「」と「拍動」の静けさを“点検”する語り手の口調からは緊張感が感じられる。「」が「」ちていくように、生活からも時間と共に多くが失われていく。短歌の限りある“時間”(文字数)の中で、「ひと日ひと日」(一語一語)を、刹那の瞬間を、丁寧に生きていこうとする意志が見て取れる。

紋の濃き蝶が羽ばたくしずけさにふたつの耳は澄みゆく真昼
(二又千文「pool」vol.8、2014年)



 「紋の濃き」という表現から、引き締まった「」の姿が浮かび上がってくる。華奢な手触り。「羽ばたくしずけさ」は、蝶の芯に宿る呼吸を感じさせる。鼓動のように反復する羽根が「ふたつの耳」の形へと変容する。読み手として、私は耳の直中に入っていく。「澄みゆく真昼」は心地よく、いつまでも聴いていたい無音だ。歌を介すことで、よりはっきりと、私自身の瞬間を実感する。

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