「角川短歌」2013年5月号の「北原白秋『桐の花』×斎藤茂吉『赤光』刊行100周年記念座談会」を読んでいて、ふと奇妙な心地がした。
司会進行の三枝昂之が「まず、白秋と茂吉、友達になるとするとどちらがいいかな。」という問いかけから座談会が始まっていたからだ。
問いかけ自体は誰にでも答えやすく、会話の切り口としてもふさわしい、心和むものだと思う。
それでも、会ったこともない白秋や茂吉を友達にするかどうか考えられるということが不思議だったのだ。白秋や茂吉を知る人物が二人について書いたものを読むことはできる。だがそれは個々の人物にとっての白秋・茂吉像であって、自分にとってどうなのかはわからない。残っているのは白秋・茂吉の作品であって、今を生きる私たちには、彼らがどんな人物なのか直接知ることはできない。
そう考えてみると、この問いかけは、ある前提の下に成り立っていることがわかる。
「短歌から作者像、現実の人間としての歌人の姿を読み取ることができる」という前提だ。
「歌壇」2013年5月号の中沢直人による「時評 それからの情景」からも同様の前提を感じた。家族をめぐる個人的体験から書き出されたこの時評では、中沢と同世代の歌人たちの歌とその日常について読み解かれている。
その中でも家族詠に引き込まれるのは、生の根拠を自らに依存する存在との関わりが作者の心に緊張感を与え、歌を豊かにしているからだろう。
(中略)
後半を彩るこうした作品は、この歌集を穏やかな光に満ちたものにしている。(中略)単身者の寂寥をうたっていた作者も右へハンドルを切ったらしい。それは変節ではなく、幸せな必然だったに違いない。
この読み解きの中では、作品自体の魅力と、それぞれの歌人の生き様とが強く結びついている。
「短歌は、それを詠んだ歌人を投影している」、という強い信頼がそこにはある。
短歌のみに触れていると、こうした前提、信頼は当然のものに思えるかもしれない。だが、小説の批評に作者の現状が触れられることはあまりない。現代詩の批評でも同じだ。
作品と作者像を結び付けて考えるのは、短歌ならではの独特な感覚なのだ。
短歌のこうした特徴は、これまでも「私性」の有り様として論じられてきたことであり、今さらと思う人もいることだろう。
だが、短歌は詩である。作者像に寄り添った短歌の中には、魅力的な作品も多いが、一方で現実の作者像に寄り掛からずに成立する作品は、短歌の詩としての幅をより広げてくれるのではないだろうか。
瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』と中島裕介『oval/untitleds』はそんな新しい短歌を予感させてくれる。
可聴音域のガラスのなかでも 行方不明の目をあけていられるかと
みずからうみを眺めるようなもので 外国の女性の方は下の毛も金色ですし
鞄にETのよだれのような緑色の液体で Merry Christmasと書かれてしまう
夢の中でほんとうに見たけれど 胸に赤・白・灰のつやつやの毛がびっしり
あの世のみんなはやく結婚して… 夕焼けが栞のように電線に絡まって
疲れた帽子をかぶっていくと見えなくなる
みんな人妻だよ きみのきれいなちんぽもね
とてもちいさな墓場からもどってきたときには 選べる?
みずうみは銀の 南のシンバルを何度も重ねて
もっと自信を持てばいいのにとずっと思っていた
冷蔵庫から稲妻が漏れてくる 他人の家でパソコンをつけたままねむるのは気持ちがいい
背中の上に繰り返す船がいるのが見えて 危ない
悪いけど俺の親は本物の医者
まばたきばかりして、きのこみたいだ
まだ入歯じゃないということが恥ずかしくて仕方がないの?
これが一首だ、と言われて驚かない人はいないだろう。不可思議な言葉の羅列に、これは詩かな、と思うのではないだろうか。
よく見ると、あちこちに太字が点在している。それをつなぎ合わせるとこうなる。
みずうみを鞄にしまうあの世の疲れたみずうみ繰り返すまばたき
短歌は解体されて詩となり、同時に解体されながらも短歌として埋め込まれている。マシンガンのように言葉は次々と発射され、そのところどころに短歌が埋まっている。このマシンガンを心地よいと感じるか、理解不能と拒否したくなるかは読者によりけりだろうが、非常に刺激的な、実験的作品ということは言えるだろう。
残念ながら印刷の関係か、太字がやや見えづらく読み取りづらくはあったものの、ペンを片手に、言葉の飛沫を浴びながら短歌を発掘していくのは私としては面白い体験だった。
一方、中島裕介『oval/untitleds』では「予測変換機能によるインプロヴィゼーション」「予測変換機能によるコンタクト・インプロヴィゼーション」として、携帯電話の予測変換機能を使った短歌が展開されている。
携帯電話ではひらがな一文字、または二文字を入力すると、自動的にいくつかの言葉が表示される(これを予測変換という)。この機能を使い、最初の一文字か二文字はランダムに入力し、出てくる一語を選び、さらに提示される予測変換から一語を選択していく。その繰り返しにより、一定の長さになった語句を短歌形式に整えて作ったという作品群だ。
我々も日本そのものなのであるとどうか宜しくお伝え下さい。
改札へ向かうスーツの群れはいつ自慰の最中の精液となる
雨だから家に送るよ。少しだけ素敵なとこが好きになるまで
作り方の説明を読むと、機械が作った歌だと思われるかもしれないが、そうではない。
予測変換には、よく使う言葉が表示される。言い換えれば、作者、または携帯の保有者の日常が醸し出されている。
予測変換機能で並べられた言葉の中から、自分が面白いと思うものを選ぶ。さらに最終的に短歌として整える。その行為に作者の意識は反映される。
作者像に結びつかないにも関わらず、明らかにこの短歌には作者の日常や意識が反映されているのだ。
作者の存在によって生み出されながら、作者像と作中主体を強く結びつけることのない興味深い作品といえるだろう。
瀬戸、中島のこうした手法は誰もが手を出せるものではないし、繰り返し同じ手法で作られることに意味のあるものではない。現状の短歌を解体しようとした、そのことに何よりも価値があるからだ。
これからの彼ら、彼らの作品に刺激を受けたこれからの歌人がどんな作品を提示していくのか、私性や詩としての短歌は今後どうなっていくのか。新しい短歌の流れにつながるものとして、期待とともに注目したい。
司会進行の三枝昂之が「まず、白秋と茂吉、友達になるとするとどちらがいいかな。」という問いかけから座談会が始まっていたからだ。
問いかけ自体は誰にでも答えやすく、会話の切り口としてもふさわしい、心和むものだと思う。
それでも、会ったこともない白秋や茂吉を友達にするかどうか考えられるということが不思議だったのだ。白秋や茂吉を知る人物が二人について書いたものを読むことはできる。だがそれは個々の人物にとっての白秋・茂吉像であって、自分にとってどうなのかはわからない。残っているのは白秋・茂吉の作品であって、今を生きる私たちには、彼らがどんな人物なのか直接知ることはできない。
そう考えてみると、この問いかけは、ある前提の下に成り立っていることがわかる。
「短歌から作者像、現実の人間としての歌人の姿を読み取ることができる」という前提だ。
「歌壇」2013年5月号の中沢直人による「時評 それからの情景」からも同様の前提を感じた。家族をめぐる個人的体験から書き出されたこの時評では、中沢と同世代の歌人たちの歌とその日常について読み解かれている。
その中でも家族詠に引き込まれるのは、生の根拠を自らに依存する存在との関わりが作者の心に緊張感を与え、歌を豊かにしているからだろう。
(中略)
後半を彩るこうした作品は、この歌集を穏やかな光に満ちたものにしている。(中略)単身者の寂寥をうたっていた作者も右へハンドルを切ったらしい。それは変節ではなく、幸せな必然だったに違いない。
この読み解きの中では、作品自体の魅力と、それぞれの歌人の生き様とが強く結びついている。
「短歌は、それを詠んだ歌人を投影している」、という強い信頼がそこにはある。
短歌のみに触れていると、こうした前提、信頼は当然のものに思えるかもしれない。だが、小説の批評に作者の現状が触れられることはあまりない。現代詩の批評でも同じだ。
作品と作者像を結び付けて考えるのは、短歌ならではの独特な感覚なのだ。
短歌のこうした特徴は、これまでも「私性」の有り様として論じられてきたことであり、今さらと思う人もいることだろう。
だが、短歌は詩である。作者像に寄り添った短歌の中には、魅力的な作品も多いが、一方で現実の作者像に寄り掛からずに成立する作品は、短歌の詩としての幅をより広げてくれるのではないだろうか。
瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』と中島裕介『oval/untitleds』はそんな新しい短歌を予感させてくれる。
可聴音域のガラスのなかでも 行方不明の目をあけていられるかと
みずからうみを眺めるようなもので 外国の女性の方は下の毛も金色ですし
鞄にETのよだれのような緑色の液体で Merry Christmasと書かれてしまう
夢の中でほんとうに見たけれど 胸に赤・白・灰のつやつやの毛がびっしり
あの世のみんなはやく結婚して… 夕焼けが栞のように電線に絡まって
疲れた帽子をかぶっていくと見えなくなる
みんな人妻だよ きみのきれいなちんぽもね
とてもちいさな墓場からもどってきたときには 選べる?
みずうみは銀の 南のシンバルを何度も重ねて
もっと自信を持てばいいのにとずっと思っていた
冷蔵庫から稲妻が漏れてくる 他人の家でパソコンをつけたままねむるのは気持ちがいい
背中の上に繰り返す船がいるのが見えて 危ない
悪いけど俺の親は本物の医者
まばたきばかりして、きのこみたいだ
まだ入歯じゃないということが恥ずかしくて仕方がないの?
瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』
これが一首だ、と言われて驚かない人はいないだろう。不可思議な言葉の羅列に、これは詩かな、と思うのではないだろうか。
よく見ると、あちこちに太字が点在している。それをつなぎ合わせるとこうなる。
みずうみを鞄にしまうあの世の疲れたみずうみ繰り返すまばたき
短歌は解体されて詩となり、同時に解体されながらも短歌として埋め込まれている。マシンガンのように言葉は次々と発射され、そのところどころに短歌が埋まっている。このマシンガンを心地よいと感じるか、理解不能と拒否したくなるかは読者によりけりだろうが、非常に刺激的な、実験的作品ということは言えるだろう。
残念ながら印刷の関係か、太字がやや見えづらく読み取りづらくはあったものの、ペンを片手に、言葉の飛沫を浴びながら短歌を発掘していくのは私としては面白い体験だった。
一方、中島裕介『oval/untitleds』では「予測変換機能によるインプロヴィゼーション」「予測変換機能によるコンタクト・インプロヴィゼーション」として、携帯電話の予測変換機能を使った短歌が展開されている。
携帯電話ではひらがな一文字、または二文字を入力すると、自動的にいくつかの言葉が表示される(これを予測変換という)。この機能を使い、最初の一文字か二文字はランダムに入力し、出てくる一語を選び、さらに提示される予測変換から一語を選択していく。その繰り返しにより、一定の長さになった語句を短歌形式に整えて作ったという作品群だ。
我々も日本そのものなのであるとどうか宜しくお伝え下さい。
中島裕介『oval/untitleds』
改札へ向かうスーツの群れはいつ自慰の最中の精液となる
雨だから家に送るよ。少しだけ素敵なとこが好きになるまで
作り方の説明を読むと、機械が作った歌だと思われるかもしれないが、そうではない。
予測変換には、よく使う言葉が表示される。言い換えれば、作者、または携帯の保有者の日常が醸し出されている。
予測変換機能で並べられた言葉の中から、自分が面白いと思うものを選ぶ。さらに最終的に短歌として整える。その行為に作者の意識は反映される。
作者像に結びつかないにも関わらず、明らかにこの短歌には作者の日常や意識が反映されているのだ。
作者の存在によって生み出されながら、作者像と作中主体を強く結びつけることのない興味深い作品といえるだろう。
瀬戸、中島のこうした手法は誰もが手を出せるものではないし、繰り返し同じ手法で作られることに意味のあるものではない。現状の短歌を解体しようとした、そのことに何よりも価値があるからだ。
これからの彼ら、彼らの作品に刺激を受けたこれからの歌人がどんな作品を提示していくのか、私性や詩としての短歌は今後どうなっていくのか。新しい短歌の流れにつながるものとして、期待とともに注目したい。