「詩客」短歌時評

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短歌時評199回 「当事者性」と<私性>の深いかかわり 桑原 憂太郎

2024-05-08 22:11:47 | 短歌時評

 短歌の世界には「当事者性」なるワードがある。
「当事者」だけであれば、事件の当事者、震災の当事者、とか一般的な用語として普通に使われて、コトやモノに直接かかわった者、としての意味になろう。
 しかしながら、この普通一般的な用語である「当事者」に「性」をつけることによって、短歌の世界では、批評の用語となる。
 すなわち、「当事者性」とは、コトやモノに直接かかわった「当事者」の性質、要は「当事者」の概念をさしている。この概念を用いて、コトやモノにかかわった者とは、いかなる性質の者なのか、ということについてあれこれ議論をする。そして、提出された短歌作品を、その議論された「当事者性」というワードで批評をする、ということだ。
 この「当事者性」、端的にいえば、「当事者」って誰? という、人探しみたいなものだ。これが短歌の世界の「当事者性」の議論だ。
 この、「当事者性」なるワード、2011年に東日本大震災があってから後、さかんに議論された。
 つまり、震災の「当事者」って誰? という人探しがなされたのである。
 そこでの議論は、こんな感じだった。
 東日本大震災時、実際に震災に見舞われた人々は、「震災当事者」といえるが、ほぼ被害を受けることのなかった地域に住んでいた人は、「震災当事者」とはいえない。ならば、「震災当事者」ではない人が軽々しく震災を詠っていいのか、ということが問われたのだった。
 しかし、この議論、令和の現在となって振り返れば、ずいぶんと倫理的情緒的な議論であった、と思う。
 この「当事者性」を突き詰めるとどうなるか。
 実は「震災当事者」といいながら、震災に見舞われた人というのも、結局は、生き残った生の側にいる人々であり、地震や津波によって犠牲になった二万の人がホントウの「震災当事者」ということになるまいか。そうなると、生き残った人が「当事者」然として震災の歌を作っていいのか、という議論へと向かうだろうし、実際に、当時、そういう議論へと進んだ。
 けれど、そこまで議論が振り切ってしまうと、生の側に残った者はだれも震災の歌を詠えなくなってしまう。なので、結局のところは、震災を逃れて生の側に残った者だれもが、「震災当事者」にほかならない、というあたりに議論の落としどころをみつけて、この「当事者性」の議論は、立ち消えになったのだった。
 これが、2011年の東日本大震災以降の短歌の世界での「震災当事者性」をめぐる議論である。
 当時、筆者は、この「震災当事者性」の議論をリアルタイムで傍観していたのだが、議論があまりに禁欲的すぎて、とても奇異に感じたものだった。そんなに、短歌の世界は不自由なのだろうか、という思いだった。
 そして、先にみたとおり、結局は、誰もが震災を題材にして歌を詠ってよろしい、という帰結へと議論が収束していくのを、そりゃそうだろうな、という思いでみていた。
 短歌は、何を題材にしても、どのように詠ってもいいはずなのに、こと、社会的な題材、なかでも震災というような、人の生き死ににかかわる強い倫理観をともなうようなコトやモノになると、とたんに、そうしたコトやモノを「当事者」でない者が軽々しく歌にしていいのか、なんていう倫理性が頭をもたげだす。そして、歌人は、そうしたコトやモノの「当事者性」について、実に禁欲的にとらえてしまう。
 では、なぜ短歌の世界では、こうした、倫理性に縛られてしまうのか。
 あるいは、歌人は、そうした人の生き死ににかかわる題材について、禁欲的にとらえるのか。
 というと、それは、短歌が、<私性>からどうしたって切り離せない文芸だから、ということに尽きるだろう。

 そういうわけで、ここから先は、「当事者性」と<私性>の関係性について考えていこう。

 短歌は、本来、何を詠ってもいいはずなのだが、いまから約120年前の近代短歌のはじまりの頃に、短歌というのは、<作者>の見たこと、感じたこと、考えたこと、を作品にするべきだ、といったように短歌をとらえようとする考え方が主流となった。この短歌に対する考え方、これが短歌作品の<私性>を形成するおおもとになった。
 そんな近代短歌であったが、はじまりからしばらくしてまでは、作品のなかの<主体>は<作者>そのもの、といった素朴な<私性>でわりとうまくやっていけた。
 けれど、だんだんと、そんな素朴な<私性>では、作品を理解するのに無理が生まれるでしょう、ということになり、現在では、作品の中の<主体>は、作品によって、100%<作者>と言える場合もあれば、そうとは言えない場合もあるよね。そうとは言えない場合ってのは、<作者>の分身みたいなものだよね、という感じの理解になっている。そして、この「分身みたいなもの」は、ほとんど<作者>といっていい作品から、<作者>から離れた作品の主人公としての<主体>とする作品まで、実にいろいろな<私性>が存在している、というのが実状であろう。
 他方、短歌の読者は、器用なことに、作品によって、ある作品の<主体>は、100%<作者>として読んだり、別の作品では、<作者>が創作した主人公としての<主体>として読んだり、と、実に器用に<私性>を読み分けて、鑑賞しているのだ。
 たまに、読み違えっちゃって、フツウに読んだら<主体>は30%くらい<作者>の分身だったのに、うっかり100%<作者>そのものとして読んだりして、そうなると、作品の虚構性が問われたりして、ちょっとした議論になったりする、というのが、短歌の世界の<私性>の議論だ。
 こうしたわりと柔軟に思える短歌の<私性>なのだけど、ただし、120年前にあった、短歌というのは、<作者>の見たこと、感じたこと、考えたこと、を作品にするべきだ、といった考え方は現在でもそっと息づいている、ということはいえる。
 さて、そんな牧歌的な短歌の世界も、震災といった人の生き死にに関わるようなコトやモノとなると、状況は一転する。
 人の生き死にといったコトやモノになると、途端に歌人は禁欲的なる。軽々しく歌を詠むのをためらう。一方の、読者側も、強い倫理性を発揮して、作品を読むということになる。
 ここでいう倫理性というのは、人の生き死に関わるような題材の作品の<主体>は「当事者」であるべきだ、という倫理性だ。牧歌的な<私性>の議論はふっとんで、120年前から脈々と受け継がれている、短歌というのは、<作者>の見たこと、感じたこと、考えたこと、を作品にするべきだ、という100%<作者>以外の<私性>は認めない、という実に不寛容な倫理性が発揮されてしまうのだ。
じゃあ、その「震災当事者」とは、いったい誰なのだろう。
 当時、斉藤斎藤が次のような作品を提出した。
 
三階を流されてゆく足首をつかみそこねてわたしを責める
撮ってたらそこまで来てあっという間で死ぬかと思ってほんとうに死ぬ

『人の道、死ぬと町』(初出は「短歌研究」2011年7月号)

 この作品の<主体>は「震災当事者」だ。「震災当事者」とは震災で命を落とした死者であるから、死者を<主体>としたのだ。
 けれど、読者は、この作品について、否定的な評を下すしかなかった。
 なぜなら、この<主体>が<作者>であることは0%だったからだ。こうなると、短歌の素朴な<私性>では読めない。
 つまり、この作品は、生き死にを題材にしている以上、死者を「当事者」とすることは、短歌の世界ではありえない、という理由で倫理的に断罪されてしまったのだった。
 倫理性から離れて、作品をテクストとして分析する批評をされずに、この作品は断罪されてしまったのである。
 こうした倫理的な不寛容な<私性>から、短歌が少しでも自由なものへとなるにはどうしたらいいか。といえば、短歌の批評空間の成熟を待つしかないのだろう。具体的には、倫理性を一切排除して、短歌作品をひたすらテクストとして批評をするという形式主義的な作品分析の手法を、人の生き死にといったコトやモノを題材にした作品であっても、批評空間に醸成していくことなんだと思う。

 さて、令和の現在。
 今年、令和6年1月1日、能登半島に大きな地震が襲った。
 「短歌研究」3月号には、黒瀬珂瀾の次の作品が掲載された。

投稿歌の葉書ばさばさ床に散る掻き集め鞄に詰めて立ちたり
天井の材はするどく崩落す新春福袋の山頂いただきへ  
地震なゐに、はた、をさなごの号泣に、揺るるショッピングモールを急ぐ 

(「短歌研究」2024年3月号)

 連作「令和六年一月一日、およびそののち」のなかの三首。タイトルのとおり、能登半島を地震が襲った午後四時十分の状況を叙述している。連作から、<主体>は、富山県内のショッピングモール内のカフェにいて、天井が崩落した状況を目の当たりにしたことがわかる。
 臨場感あふれる、優れた作品だ。けど、これは、「当事者」である<作者>の実体験だから優れているのでなく、臨場感のある叙述だから優れている、ということを確認したい。
 だから、<作者>が、ホントに正月にショッピングモールにいたのかどうかなんて、どうでもいい。そうではなくて、作品の<主体>の、地震に遭ったその臨場感のある叙述を批評するのが重要なのだ。
 これらの作品でいえば、<主体>の情感にはふれず、<主体>のおかれた状況を客観的に叙述しているところに臨場感が生まれている。この客観的叙述によって、リアリティが担保されている。つまり、作品には、地震に遭遇した瞬間、といったものにリアリティがあればよい。その作品の内容が、ホントかどうかは議論の対象にする必要性はない。

 同じく「短歌研究」2024年3月号には、こういう作品も掲載されている。

散乱の破片の下に見つけたり発災時刻を指す掛け時計    平谷郁代
いつせいに千余の白鳥空につ大地揺るがす大地震なゐの瞬   浅野真智子
入浴なし今日で二十日目 私の身体拭く娘が「外は雪だよ」 山崎国枝子

 こうした作品も、震災の「当事者」だからという視点で批評するべきではない。べつに、能登半島に住んでいなくても、こうした作品を詠んでも構わない。<主体>が100%<作者>である必然性はない。
 今回の能登半島の地震による震災詠で、東日本大震災で議論された不寛容な倫理観が果たして払しょくできているのかどうか。そこに、短歌の世界での批評空間の成熟度が問われている、といえるだろう。


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1 コメント

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Unknown (寺阪誠記)
2024-05-14 22:51:53
臨場【感】があればいいんでしょうか。
これは私はよく分からないのですね。震災の非・当事者が震災を詠むことがあってもいいと思いますし、戦争を経験していない人が戦争を詠むことがあっていいと思います。いとうせいこうの『想像ラジオ』には感動しました。
しかし、たとえば震災の非当事者が「震災後に動物園からライオンが逃げ出した」とか「震災後に略奪や暴行が多発してる」といった歌を臨場感たっぷりに詠んだ場合、その表現がリアルかどうかだけが問題になるんでしょうか。これらは極端な例ですが、作歌動機に悪意がなくても結果として震災について虚偽の内容をありありとした臨場感でもって歌にしてしまった場合はどうでしょう。
読者のほうだって大方が非・当事者なので、筆力のある著名歌人の作品なら事実を確かめることなく「リアルだ、リアルだ、これが震災の真実だ」ともてはやすかもしれない。ここで置いてけぼりになるのは現実の被災者です。
ここまで来るとさすがに倫理の問題になってくるように思いますし、テキストだけでなくコンテキスト(文脈)も問題になってくるのではないでしょうか。フィクションであることを明らかにしているか、作者が非当事者であることを明らかにしているか、作歌の意図は何だったのか、取材はどれくらい重ねたのか、発表する媒体の選択は…etc
もっともこれはやはり短歌の外部にある倫理なのかも知れません。短歌に内在する倫理は歌としてよく出来てるかどうかだけ、なのかもしれません。

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