「詩客」短歌時評

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短歌評 〝短歌〟の外部化について――野口あや子の創作スタイル 添田 馨

2016-11-02 13:32:50 | 短歌時評
 野口あや子の歌集『夏にふれて』(2012年・短歌研究社)を開いて、私は即座に俵万智の歌集『サラダ記念日』(1987年・河出書房新社)を連想した。普段あまり短歌なるものを読まない私は、通りすがりの一門外漢にすぎない。だが、あくまで直感的にではあるが、これら二つの歌集には、互いに共通するものと相反するものとが運命的に混じりあっていると、そんな風に思えたのだ。二つの歌集のあいだには、じつに四半世紀の時間の隔たりがある。にもかかわらず、両者の距離について考えることに私が一定の意義を認めるのは、そこに私たちの‶短歌〟概念が外部化していく現場のすがたを、この二冊のあいだに横たわる距離そのものが象徴的に語っているように感じたからである。
 野口の作品を読むと、いくつかのパターンの存在することが分かる。主にそれは三つに分類できるように思った。一つ目は、喩がことごとく明示的な経験性へとストレートに還元できるような書き方の作品(a群)。二つ目は、喩がなんらかの経験性を隠蔽操作してただ暗示しているだけのような書き方の作品(b群)。そして三つ目は、短歌的な喩がまったく何の像も結ばないか、あるいは像を結ぶとしてもそれが美的な結晶化を果たさず、ただ解体しているかのような書き方の作品である(c群)。
 以下、思いつくままにそうした作品例を拾い上げてみる。

 ああああ会いたいってあくび通学の慣れない電車に揺られていたら(辛口。)

 焼きそばのイカをつついて大学は楽しいからね、とそれしか言われず(辛口。)

 くろぶちのめがねおとこともてあそぶテニスボールのけばけばの昼(学籍番号20109BRU)

 たばこいい?ジッポを出して聞かれたりいいよと答える前に火が付く(後遺症)

 精神を残して全部あげたからわたしのことはさん付けで呼べ(こんな恋などしていない)

 私にも希望はあってバスに乗ったり担々麺を食べたりはする(『希望』に対するanswer―『三十代の潜水生活』in柳ケ瀬 即興朗読―)

 内臓の入る太さじゃないって って うすいスカート持ち上げ笑う(落桃)

 戦っているよ、俺はときみは言い銀の携帯ひらいてばかり(短き木の葉)

 だれそれの妻と呼ばれて暮らすのもまたよしサンダルばかりを履いて(あめの隙間)

 ものさしの三〇センチが落ちていていまここ、の地をはかりていたり(顎のかたち)

 ここに引いた十首は、単独で呼んだ場合でも比較的イメージが捉えやすい作品(a群)ばかりを選んだつもりである。本歌集は野口の第二歌集であり、高校を卒業して大学生活をはじめた時期と、制作年次がほぼ重なっていると見られるもので、そうした背景状況を加味すれば月並みな言い方だが、普通の女子大生なら誰でも抱くような生活意識を、みずみずしい筆致でうまく切り取っている作品群だと言える。つまり、背景野としての型式(フォーマット)が、青春期只中の若い女性の大学生活の時空間にあるというところに視点をおいて読む限り、これらの作品はそれぞれ読後の経験的着地点を、読む者にそれほど違和感なくシェアし得ていると言えるだろう。
 野口あや子のなかに俵万智との類同性を私にもっとも強く感じさせたのは、主にこうした作品群の喚起する印象であった。というのも、私が過去に俵の歌集を読んだときの総体的な記憶残像が、野口のこれらの作品から喚起されたものと非常に近いように思われたからだ。だが意外なことに、いま改めて俵の歌集『サラダ記念日』を読み返してみると、両者には表層的な近親性以上にもっと根本的な違和性ばかりが何故か顕著なのだ。それは一体どこからくるものなのか。
 俵の作品から、これも思いつくままにいくつかの作品例を拾い上げてみる。

 君を待つ土曜日なりき待つという時間を食べて女は生きる(八月の朝)

 初めての口づけの夜と気がつけばばたんと閉じてしまえり日記(野球ゲーム)

 書き終えて切手を貼ればたちまちに返事を待って時流れだす(風になる)

 29になって貰い手ないときは連絡しろよと言わせておりぬ(風になる)

 君の香の残るジャケットそっと着てジェームス・ディーンのポーズしてみる(モーニングコール)

 唐突に君のジョークを思い出しにんまりとする人ごみの中(モーニングコール)

 泣いている我に驚く我もいて恋は静かに終わろうとする(待ち人ごっこ)

 思い出はミックスベジタブルのよう けれど解凍してはいけない(待ち人ごっこ)

 君の愛あきらめているはつなつの麻のスカート、アイスコーヒー(サラダ記念日)

 明日まで一緒にいたい心だけホームに置いて乗る終電車(サラダ記念日)


 あくまで比較論でいうと、作品の背景野をなす型式(フォーマット)は、野口にくらべ俵のほうが画一的な感じがつきまとう。どこからその印象が最もくるかと言えば、作品中に「」という呼称で登場する恋人らしき男性の像からきていると思われる。俵の『サラダ記念日』に収録された作品は、みずからの恋愛体験を題材にしたものが多くの比率を占める。つまり、姿のよく見えない普遍的な彼氏のイメージ(=「君」)が背景世界の中心にいて、抒情の構造はすべからくこの見えない普遍的な「君」をめぐる惚気意識や感情的葛藤に支配され展開する。こうしたことが、この歌集を人気作家による恋愛小説並みのベストセラーにまで押し上げた主な要因でもあったろう。『サラダ記念日』が商業的に成功した最大の要因は、恋愛対象を個別具体的な現実存在から、言語による普遍的な表象類似物(=「君」)に置き換えるというこの意図的な操作が生んだ文学効果にあったと言っていいだろう。本来、現実存在であるべき者のこうした表象類似物化の手法は、同時に、作品中の自己像にも多大な影響をもたらし、「万智ちゃん」というこれも架空の新たな表象類似物を否応なく導き出すことになる。『サラダ記念日』は、こうして歌集でありながら、歌集というものの常識を突き破った恋愛ドキュメントつまり疑似的な小説的効果をもつ新たな表現性を獲得したのだった。
 だが、その一方で短歌的形式(フォーム)は、ほとんど変更を被ることはなかった。五七五七七の基本形は、俵の諸作においてはほぼそのまま踏襲されている。このことは、俵において形式(フォーム)の破壊は、型式(フォーマット)そのものを更新するに際して特に必要とされていなかったことを物語る。短歌的抒情という従来意識の固着性をいわば破壊して、まったく新しい型式(フォーマット)を打ち建てるに際し、なぜに短歌作品の基本骨格たる形式(フォーム)が従来通りのまま無傷でいられたのか。というか、無傷でいることが作品内部で求められたのか。ひとつ考えられるのは、俵の作品世界において、ここに引いたような「八月の朝」「野球ゲーム」「風になる」「モーニングコール」「待ち人ごっこ」「サラダ記念日」等々といった一連の型式(フォーマット)自体が、完全に虚構の産物だった可能性だ。もしそうだったとすれば、作品中に表象される自己像すなわち「」や「」や「万智ちゃん」もそれと同様に、虚構の産物だったということになるだろう。『サラダ記念日』という歌集の総体から受け取る印象の質からして、私はその蓋然性がきわめて高いと思うのだ。つまり、この歌集は、作品の自意識を支える形式(フォーム)と同じくその無意識を支える型式(フォーマット)との相互的な関係構造の全体を、そのままそっくり虚構化するという、ある意味、壮大な試みだったのである。その結果、従来からの短歌の読者層に止まらない幅広い層の読者にまで、その作品価値の交換が一気に可能になったのだ。ただ、その一方で犠牲にされたものがあるとすれば、作品における言語の自己表出性、その個的な側面いがいにはなかったはずである。
 野口の作歌法と俵のそれとが本質において最も異なっているのは、この部分である。野口の作品において、自我の葛藤や情緒的な惑乱といった非言語領域の声が、言語の自己表出性をうまく捉えることで、それを表現にまで定着させた作品はあるのだろうか。

 「先生は思いませんか」と告ぐるとき全集のうえ塵微笑めり(学籍番号20109BRU)

 「太ってる、まだ太ってる」と叫ぶときわたしは刺草のようにさみしい(拒食症だった私へ)

 幸せになれと声 たんぽぽの根まで届けばもう知るだろう(拒食症だった私へ)

 べったりと下向き付け睫毛なるわれ表現は負け組の意ではあらねど(切れ毛)

 差し入れて抜いて気がつく鍵穴としていたものが傷だったことを(なつのなみだ)

 定型から零れてしまうわたくしもそのままとして、夏のなみだは(なつのなみだ)

 自意識というみずがわれを重くしてひたすらドライカレーをつつく(つめたい埃)

 青空に飛行機雲が刺さってるあれを抜いたらわたしこわれる(つめたい埃)

 あなただと決めつけるたび早口にもうとめどない発火であった(めぐすり)

 わたくしのからだの点字を読むきみはおそるおそる一語のみをつぶやく(花を捨てる)

 これらは、野口の作品のなかで、私がb群として主に分類したものである。顕著なのは、a群の作品にはそれほど目立たなかった暗喩構造が、作品の全領域を覆っていることだろう。手法的にそれが成功しているものもあれば、逆に失敗しているように見えるものもある。また、単に私が当該作品の隠れた暗喩構造を捉え損ねている場合だって考えられるわけだが、a群の作品に比べてこれらの作品は、表現意識の底が二重底三重底になっていて、個々の言葉の意味連関を追うだけでは、作品そのものが発信するポエジーの本質に読む側の意識がストレートに届くようなことは起こり得ない。それだけ表現の達成レベルが高度化しているものだと考えられよう。形式(フォーム)と型式(フォーマット)の関係は、無論ここでも重要な要素たるを失わないが、両者の対応性が構造的により複雑化している反面、型式(フォーマット)に対して形式(フォーム)の自立性が相対的に強まっているため、逆に、それほど前後の作品との関係やまとまりなどを意識せずとも、作品単独での読みに十分耐えるだけの弾性をみずからに具備しているということは言い得ると思う。言うなれば、俵の作品に希薄で、野口の作品には濃厚に見出せる表現上の要素が、これである。ここには俵のように虚構に向かう表象化の手法では覆い尽くすことのできない、野口の自我表現への飢餓感が色濃く作用している部分と思われ、時にそれは基本三十一文字の短歌形式をも内側から食い破って、ほとんど基本の形が原型をとどめなくなる程までに、横溢しているさまが窺えるのだ。
 私にはここでひとつ、大きな疑問が浮かび上がる。青春期において、肥大する一方の自我領域を持て余すかのように、表現意識がその全勢力を言語による芸術表現へと差し向ける時、表現形式上の制約は、果たしてどこまで必然的な意義を有するのだろうかと。同じことを短歌の問題に投影すれば、五七五七七の三十一文字の形式(フォーム)は、この問題にどのような結末を用意するのだろうか、というようにである。

 アドレスは、すみませんこのシャッターを、打ち上げにさあ さ、さようなら(卒業式)

 アイスクリーム、アイスクリーム、水滴をカップにつけてアイスクリーム(カーソル)

 Because/まで鳴らして止めたオルゴールの櫛 どこまでが無意識なのか(学籍番号20109BRU)

 らいらっくらいらっくらるるりるりと巻かれるようなかなしみをしる(後遺症)

 ちかてつにのられたことはありますか(がたがたゆれる)がたがたゆれる(はぶらしと桃)

 言いたくないことは言わなくてもいいのだよからからの金物の声で言う(つめたい埃)

 空いたばかりの椅子に残れるあたたかさあたたかさしばし問わずにいよと(椅子)

 青臭いことであろうとメタファーと区切られるならふるえていたい(ちりめんじゃこ)

 どうやって引き受けるべきかわからない 発作のような瞬きをして(ちりめんじゃこ)

 ほそながきものが好きなり折れやすくだれかれかまわず突き刺しやすい(けっかん)

 これらは、私がc群に分類した野口の作品例である。個々の作品の評価はひとまず脇に置くとして、これを短歌だと呼ぶことにどれだけの必然性があるのかないのかという問題を、いま私は考えている。例えばこれらを〝一行詩〟と呼びならわすとしても、さほどの違和感は生じないように思う。しかし、短歌と呼ぼうとすれば、それは基本的な形式(フォーム)からは逸脱した外部を有する拡大された短歌概念として、繋ぎ止められる性格のものだろう。一行の言葉の列に、一行詩としても短歌としてもいずれにも読める両義性を付与したこと――野口あや子の作品が〝短歌〟概念をその本質において外部化しえている部分があるとしたら、恐らくはこの点においてである。形式(フォーム)の、それは型式(フォーマット)からの完全独立を果たした姿でもあろう。俵万智がかつて『サラダ記念日』で行った表象化の手法をもってしては、この外部化は決して到達できなかったものだ。私はこの外部化ということを、一切の価値判断(美的判断)を抜きに提示している。その理由は、現代詩がつねに自らを外部化していくことで自らを更新し続けないかぎりその存立が難しくなっているように、短歌もまた自らを外部化し続けなければならない要請を、おなじ根拠から求められていると愚考するからである。

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