「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評126回 ちゃんと荒れたい 柳本々々

2017-05-07 00:49:22 | 短歌時評

きょう、「川柳トーク 瀬戸夏子は川柳を荒らすな」というイベントが中野サンプラザであったのですが、いま、帰ってきました。できるだけ私の記憶の限りに書いてみたいと思います。

第一部では、「誘い~現代川柳を知らずに短詩型文芸は語れない」と題して、歌人の瀬戸夏子さんと川柳人の小池正博さんが対談されました。

わたしはほぼいちばん後ろの席でずっと聴いていたのですが、まず瀬戸夏子さんが話されたのが、えらさ/アナーキーのあいだの位置性の〈ゆれ〉でした。これはなにかいろんな発言を重ねるごとに、どうしても「アナーキー」から「えらさ」に揺れ動く場合があると。つまり、位置性がかたまってきてしまうと。

こうした位置性というものに瀬戸夏子さんは非常に敏感だと思うのですが、それは今回の瀬戸さんの現代川柳の見方にもあらわれていたと思います。

瀬戸さんはたとえば

  私のうしろで わたしが鳴った  定金冬二

という句をあげられ、この句のなかにおける「私/わたし」のゆれのようなもの、もうひとりの私、遊離する私、分裂する私、といった川柳独特の主体性を指摘しました。

この川柳独特の〈私の主体性の遊離〉というものが今回の瀬戸さんの提示した川柳を読む枠組みでした。

瀬戸さんが名句と感じ何度も引用している句に、

  キャラクターだから支流も本流も  石田柊馬

という句がありますが、この句も「支流」と「本流」という枝分かれしたものを「キャラクター」で統合しながら、その「キャラクター」という言い回しによって、がっちりした主体性になることを回避しています。どこか仮構された主体性なのです。こうした仮構された主体性のありかたを瀬戸さんは「わたしのかろやかさ」と表現されていました。

わたしはふだんこうした「わたしのかろやかさ」のような川柳における〈任意の主体性=こうであったかもしれないし、ああであったかもしれない私〉をとても興味深く思っているのですが、ふだん瀬戸さんがなされている仕事、〈読みの因習/慣習といったものを意識化し、そうでなかったかもしれない可能性としての読みをたちあげる〉、を思い出すと、瀬戸さんが川柳のなかにそうした任意の主体性を見出されたのはとても興味深いと思いました。

こうした瀬戸さんの読みの枠組みによって川柳の新しい読みがたちあがります。

  おれのひつぎは おれがくぎをうつ  河野春三

小池正博さんがこの句のこれまでなされてきた読みを紹介しました。「おれのひつぎはこのおれがくぎをうつんだ、おまえらはうつんじゃない、おれの人生はおれがかたをつけるんだ」というマッチョな読みです。がっちりした〈おれ〉という主体性に満たされた筋肉言説。これがこれまでなされてきた川柳内の読みです。

ただ瀬戸さんは瀬戸さんの読みの枠組みとして、さきほどの定金冬二の句の横にこの句を配置し、「私/わたし」「おれ/おれ」という主語の位相/遊離をひっぱりだしました。瀬戸さんはマッチョな言説を解体し、解体され遊離した主体の言説をひきだしたのです。

このことによって、「おれのひつぎは」と死んでいる人間が、「おれがくぎうつ」と行動を起こす時間の倒錯した言説になりました。

ただこれは奇異なわけでは決してありません。現代川柳を並べてみると、こうした時間が倒錯している言説も多々あるため、〈そうした読みの可能性〉もひっぱりだすことができます。

なにが、正しいのか。

いいえ。正しいか、間違いかが問題ではなく、今回のタイトルは「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」でした。「川柳をどう読むか」というタイトルではありません。「瀬戸夏子」が「川柳を」どう「荒らす」か。もっと言えば、「川柳」が「瀬戸夏子」においてどう「荒」れることが《できるのか》が問われていたわけです。

そうすると〈荒れる〉ということは、それまで〈そうした読みの可能性がひっぱりだせたはず〉なのに、それをしてこなかった、しかし、ジャンルとジャンルがぶつかりあったときに、それまでジャンルが無意識下においていたものがその衝撃でひきずりだされ、そのひきずりだしてしまったものを自覚するかしないかを〈いちど〉問われることになった、そういうことを〈荒れる〉というふうに言ってもいいのではないでしょうか。

問題は、もし〈荒れる〉機会が訪れたならば、荒れるか荒れないかを選ぶことが大事なのではなく、〈ちゃんと荒れたい〉をどれだけ成立させられるか、ということなのではないか、とおもうのです。

しかし、なかなか、ひとは荒れることができない。まもってしまう。ぎょうぎをよくしてしまう。

川柳は、《断言》の文体であると、小池正博は言いました

第二部で、瀬戸夏子さんから、やぎもとは、荒れる、荒れる、と口にはするが、いったいほんとうになにを荒れているのか、どういうつもりで、荒れると口にしているのですかという質問が出ました。

やぎもとは、ほんとうは荒れていないかもしれない、荒れる、荒れる、と言いながら、またそのことばで覆いながら、荒れるとだけ口にだしながら、ずるいことをしようとしているのかもしれません、とわたしは言いました。

いいえ。荒れる、の反対は、ずるい、なのではないでしょうか。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-05-16 11:36:01
読みました。
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