作品 浅野大輝「銀の鳥」へ
評者 濱田友郎
こんにちは、濱田友郎です。浅野大輝さんの連作「銀の鳥」を評します。この連作はこちら(http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-09-02-18723.html)で全文をごらんいただけます。こちらのオリジナルをどうぞ傍に置きながら、拙文も読んでいただけたらとおもいます。
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感情のすがたを町にするときにどうしてここにある精米所
まず目を引いたのはこの歌であった。「どうしてここにある精米所」、のフレーズ感。思わぬ場所に、あそことかそこにあるんじゃなくて、「ここ」にあるのか! しかも「精米所」が! へぇ~……。下のフレーズ感に負けずに、上句に立ち止まって再読してみると、感情にすがたが(すでに)あるのか? そしてそのすがたを町にできてしまうのか? と、驚くわけだが、どうだろうか。ここでわたしはPCソフト「3Dマイホームデザイナー」や、ゲーム「シムシティ」のことに思い当たる。
・3DマイホームデザイナーPRO8 製品紹介
https://youtu.be/UqBu3QbEXAU?t=59s
・Japanese TV Commercials [1704] Sim City シムシティー
https://www.youtube.com/watch?v=r39mhkN8Sm4
「シムシティ」では、プレイヤーは市長としてあらゆるインフラを整え、あらゆる建物をたて、さまざまなパラメーターに気を使いながら、住民の質を高めていく。「マイホームデザイナー」シリーズでは、思い思いの家屋の間取り図を平面に与えると、それがぐぐっと具現化されて、スクリーンにぽんと立体の家が建つ。建てた家の中では、いろいろに家具を置いてみたり、その家を実際に歩いてみたりといったシミュレーションも可能になっている。おもしろいのでぜひ触ってみてください。
さて歌にもどると、この主体は、頭の中にある感情を、上記のようなソフトウェアにモリモリ読み込ませ、あとはエンターキーを押すことでシミュレートできるという感じだろうか。かくしてさわやかな全能感の眺望を得、町を見渡してみると、おや、こんなところに精米所が…… この驚きは、まず精米所がそのシミュレーターにすでにプリインストールされていたことに対する驚きや喜びだろう(精米所まで収録されてるのか! すげ~)し、自分の感情において精米所の対応物が存在していたことに対する驚きでもあるだろう(精米所的な感情の部分……)。精米所って、初手で玄米を買うタイプのひとにしか必要じゃないし、そんなに使うなら精米機だって買えないほどには高価じゃない。だけど必要になるときもある、そんなものたちへの、なんともいえんノスタルジックな部分ということかもしれん。おもしろかった。また、
くちなしの北限をもとめるこころありたりきみの言葉のなかに
も、似たような前提が共有されているとおもう。まず「こころ」に空間的な部分があること、そしてそれを言葉によってシミュレートし把握する、そんな力能が主体のなかにあること。このような認識にはちょっとびっくりしたが、「くちなしの北限」には、(口無し、の連想も手伝って、)「言えることといえないことの境界」や「言葉でどこまでいけるのか」といった感覚がなんとなくあり、しかもそれが「言葉」の「中」にある、ということで、徹底して空間的な把握のなか、きみとわたしの関係性が感ぜられ、興味深い。ただ、この歌に関しては、きみとわたしの間で、感情を言語化する能力のマウントバトルを勝手にやっているかのような滑稽さもなんとなく感ぜられ(きみの言ったことをこちらはさらに巧みに言語化するぜ、というような主体が感ぜられ)、そのあたりで、これまであまりわたしが短歌で読んでこなかった感触を得た。
連作「銀の鳥」はいくつかの概念の縁語的関係が書き手によって周到に用意され、それによって蜘蛛の巣のような連作の空間を作っているように見える。〈花〉〈鳥〉〈落下〉〈町〉〈旅〉〈夏休み〉などがまずパッと目につくが、そういった作者の用意した線を追っていくのも、連作にとってわるいことではないだろう。まず〈花〉について。
消去法なれどしづかに選びだす迂回路すでに花に汚れて
花瑠瑠とよびかけるときやはらかくぼくらのくちにある花の束
水をやりそこねたことも語られて日記に花の飢ゑうるはしき
蕊ふかくふふみて朝顔の中に空ありつねに朝焼けの空
一首目はさきほど取り扱っていた〈町〉とも関連する。あらゆる道があるなかでなにか迂回しなくてはいけないし、消去法のなかでその選択肢は多くない。そんななか選ぶ道は「花に汚れて」しまっているという。この歌は集合的な花のにぎやかな下品さみたいなものを使いながら、精神的なゆきばのなさみたいなものを表現しているのだろう。しかし切迫とした感じではない。「しづかに選び出す」には主体の全能感を感じる。
二首目。これホノルルって読むんですね……。この漢字表記は、なかなかお耽美なイメージが美しく、また、いつかクイズで見たら答えてドヤれてうれしい感じの知識です。「やはらかく」や「ぼくらのくち」といった語の流れから、たしかにホノルル、っていう言葉を発音するときのくちのあの感じ。という身体的な共感を読者の口元に流し込みつつ、それを「花瑠瑠」からひっぱってきた「花の束」という喩にまとめている。なるほどなあ。と納得するその一方で、読者を導いてくれるはずの「やはらかく」や「ぼくらの」が、読むときのテンションによっては、読者を囲い込みに来ているような、あのちょっと不潔な感覚を放っていなくもない。「花の束」は、数本の花が、なんとなく、口にふさふさと揺れているようで、ホノルルのトロピカルなイメージともあいまって、良い。
三、四首目は〈夏休み〉、という補助線を引いていいだろう。朝顔の観察日記に水をやらなかったことも記入してしまう素直な小学生、それを読んでその花の飢えもうるわしく感じてしまう書き手、というような構図がなんとなく浮かぶ。四首目、朝だけにひらく朝顔は、つねに朝焼けの空をその花のなかに反芻する、という、ロマンティックな把握+仮構・加工をバシっと決めているが、なんといってもその中心に大切に「蕊」を「ふふ」ませているのが、どういったらいいか、なんとも……気持ちわるいかんじで、文体のあざやかさもあいまって、独特の存在感をはなちつつ一連を終えている。
こうしてみてみると連作内で花は汚れたり、飢えたり、口にはさまったり、蕊をふくんだりして、なかなか大変そうだが、その概念としてはさまざまに両義的な意味がぶちこまれているようで、このように花のモチーフになんども立ち返る書き手のみぶりは執念深い。
つづいて〈鳥〉や〈落下〉について。
銀紙を小さな銀の鳥にするきみはゆふぐれ祈りのやうに
落鳥といひてしばらくうつくしき鳥の落下をまなうらに見ゆ
想像のなかになんどもたふすため咲かす想像上のくちなし
もういちど、とだれかが告げてもう一度夏にたふれてゆく遊撃手
だとしてもひとの祈りが白鳥を描く晩夏の夜はろばろと
一首目、例えば千羽鶴を折るような情景が一読で思い浮かべられると思うが、鶴を折る行為の〈祈り〉性がすでに共有されている読み手には、「祈りのやうに」は直喩としてはもちろんピンボケにみえるのだけど、それだけ「きみ」の行為や「銀の鳥」がまぶしく、尊く見えてしまったのかもしれない。
二首目、三首目などは、想像のレベルででものを落としたり、倒したりするのを見る、そしておそらくはそれはいくらでもまなうらで上映されるのだが、なぜそんなことを? と、読み手としてはやきもきするのだが、ぽとりと落ちて鳥の死ぬ「落鳥」という語を「うつくし」く仕立て上げなければならないような、強迫的なものに書き手は駆動されているのかもしれなくて、なんどでも繰り返し上映されるイメージの中で、その痛みをなんとか薄めたい、さらにはそれをエイヤッと無化しようとしているのが「うつくしき」だ、というような姿がうっすらと見えてこなくもない。そんなんで咲かされるくちなしの気持ちにもなれば? と思うこともあるが、書き手はそのような水準は問題としていないのだろう。というように、なんとなく不安を感じる歌たちだった。
四首目でもそれらと似たことが厳かに、どこか儀式めいて演じられている(だれかが告げて、のあたりが)。景としてはテレビで甲子園のリプレイを見るようなことを思い浮かべたらよいだろうか。まず「夏にたふれてゆく遊撃手」のイメージの喚起力が高いこと。そして「もういちど」、そして「もういちど」と、アンコールにこたえるようにして継起的にそれが再演されること。そのふたつが先ほど見た二・三首目とのちがいで、二・三首目の自傷の印象にくらべてこの歌になんとなく明るさや救いが感じられるゆえんではないだろうか。
かつて一首目では「祈りのやうに」折られた銀の鳥であったが、五首目ではひとのいのりが白鳥を描くという、この逆転についての自己言及が、その初句の「だとしても」だろうか。うーん、ひとの祈りが白鳥をえがくというのも、難しいが、でも祈りが、なにかの超越的な存在をまるで経由しないかのようにそのまま白鳥を描いてしまう、という祈りのイメージにはなんだか奇妙なデフォルメが効いているようにも思う。以下はかなり直観的なものいいになってしまうが、この連作における〈祈り〉には、超越者がいるようで、でもやっぱりいないんじゃないか、という気もする。超越者へ垂直に接近していくことを、どこか最初からあきらめてしまっているような感じ。ということはこの祈りは儀式することが大切で、けっきょくひとの祈りはひとのものになるのだろう。また、
さうだなあ すべてがきみにもどること 上着のなかに日差しは残り
などをそういった線の上で読むと、主体にとっての超越的な存在は〈きみ〉だったのかもしれないし、その吸引力にはなすすべもないのかもしれない。というような落としどころも発見できるだろう。
連作全体としての感想をざっくりと書く。わかりやすい取っ手としては〈花〉〈鳥〉〈落下〉〈旅〉〈町〉〈夏休み〉などがあり、縁語的な連関にわたしは導かれる。こういったモチーフの連関によって一首一首が細い糸で結ばれて、それらの線はたくさんの軸を渡って、蜘蛛の巣状のネットワークをつくっているように思われる。それは世界の緊密さやしずけさ親密さを思わせる(そしてそれらは連作内で自己言及される)一方、そこには火種がない。縁語が縁語を呼ぶような豊かな類似性の中で、その風穴はとくには空いていない。そういう連作経験だったようにおもう。
ちなみにシムシティというゲームではプレイヤー=市長は理不尽な家事に襲われ、市長はその予想外の出費に悩まされることになる(おれの市民は家事を起こしてしまうほど愚かなのか……!)。そういったことがこの町では起こらないかもしれない。「すべて」は「すでに」起こり、「もういちど」「まなうら」で「想像」され、「語られ」る、そんな空気をこの町に感じるのですね。
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