「詩客」短歌時評

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短歌時評第130回 文語と口語はどちらがはずかしいか 吉岡太朗

2017-10-04 04:44:39 | 短歌時評

 

吉岡太朗

 1

 文語体で書くか口語体で書くかという問題は、私個人にとって割とどうでもいい。けれど世間様はどうもそうは思わないようだ。

 十年くらい前に文語を使ったり口語を使ったりしていたら、「吉岡くんは、どっちでやるの?」と言われた。そんな風に言われたことを別の人に言って「そんなんどっちでもいいですよね?」と訊いたら「どっちでもよくないと思う」と返ってきた。あれから十年経って最近、旧かなの歌を発表したら「あれ? 旧かなに変えたんですか?」と訊かれた。

 私は自分の作風とか自分の文体みたいなものには関心がなくて、そういうことを決めるのは書く自分ではなく書かれる内容の方だと思っているから、その都度内容に合う文体が選択できたらいい、という風にしか考えてないのだけど、何とはなしに他を見渡すとそういう人はあまり多くなさそうで、自分の作品自分の文体を持ったり持とうとしたりして書いているように思う。

 競争戦略上はそっちの方が得なのかも知れないが、私は勝手に窮屈に思ってしまうので、このまえ「別の作風で作りたくないんですか?」とある人に訊いてみたところ、「しない。だって短歌はそういうものだから」という答えが返ってきて、ハッとなった。あ、そっか、短歌ってそういうものなんだ。

 

 2

 そうなのだ。短歌は差異の文学なのである。五七五七七という定型があるが、この定型は単にそれを守って作れというルールではない。個々の短歌を鑑賞する際、基準になるものなのだ。

 分かりやすいところで言うと韻律で、定型を完全に順守していても全く同じ短歌でない限り全く同じ音ということはありえない。リズムがよいとかもたつくとか、明るいとかさみしいとか、音だけでも色々あるのである。基準が決まっているから比較が可能で、明確に違いを示すことができる以上、微差でも内容と結びつけば(明るい内容+明るい韻律など)大きな差になる。

 また千年以上の歴史があるので、新しく短歌を作る場合、過去の有名な短歌が基準のようなものになる。具体的にこの作品みたいな場合もあるだろうし、なんとなく漠然と思い描く「これが短歌だ」みたいなもの――言うなら原短歌みたいなものと比べられることもあるだろう。

 だからどういうことが起こるかというと、「Aである」ということが「Bでない」ということを意味してしまうようなことが起こる。つまり「このような文体で書く」が「別の文体で書かない」を意味し、「口語体を用いる」が「文語体を用いない」になるのである。書き手がどう意図しようが、読者は勝手にそのように意味づけをする。

 だから短歌において文語体を用いる、口語体を用いる、ということはただそれを使う以上の意味を持ちかねないわけであり、その選択が拡大解釈されて、使う人の人間性とかそういう部分にも関わるようなものにもなる。

 思えば小学生の頃に、自分のことを「俺」と言うか「僕」と言うかが、決定的なことのように思えて、どちらにするか迷ったことがあるが多分そういう感じなのだろう。

 

 3

 では文語体と口語体ではどのような差異があるか。ここでは単なる技術的な有効性の違いではなく、「はずかしさ」という観点から、ごく簡単にだが比べてみたいと思う。「はずかしさ」というのは人間性にかかわるような部分だからである。

まず文語体と口語体の関係について、確認しておきたい。以下は橋本治『失われた近代を求めてⅠ 言文一致体の誕生』からの引用である。

「文語体」は「文章に使われる書き言葉による文体」なんかではない。「口語体の文章」が一般的になってしまえば、「文章=書き言葉」なのだから、「文語体=口語体」になってしまい、「文語体」という概念を立てる意味がなくなる。「文語体」が「口語体」に対する概念であるのは、「文語体=古典の文体」と理解されているからである。現実には「書き言葉と話し言葉の対立」があると思われているが、実はそうではなくて、あるのは「古い言葉と新しい言葉の対立」なのである。

つまり文語体とは、相対的に過去の文体であるということである。橋本はこうも言っている。「文語=書き言葉」を前提とする「文語体=書き言葉の文章」とは、本来的には漢文のことであると。つまり今文語体とされる言葉は、かつては今の口語体のように扱われていたということだ。

これは短歌ではなく日本語一般に関する文章だが、短歌にもそのまま当てはめて考えることができると思う。文語体で書くということは、過去の文体で書くということなのだ。

 

 4

衛藤ヒロユキのファンタジー漫画『魔法陣グルグル』の16巻にこんなシーンがある。

主人公の少年ニケが魔物と戦う際に、「勇者の剣」という必殺技を使おうとするのだが、その際にこんな呪文を唱える。

 

火よ

大地よ

水よ

風よ

自然界の王たちよ!

その力――

われに託さん!!

 

しかし呪文は発動しない。次のコマでは、ニケが手をかざしている絵に「しーん」という効果音が付いている。

その二コマ先にジュジュという少女がこんな台詞を言う。

 

プーッ

「われ」だって

13歳の

子供が急に

「われ」

 

強力な魔法や技を使う際に大仰な呪文を唱えるというのは、ファンタジー作品のお約束のようなものである。この漫画ではそのお約束を逆手に取り、日常の感覚を持ち込むことによってギャグにしている。これは非常に示唆的なギャグではないだろうか。

文語体で語ることは、日常の文脈では不自然なことではないだろうか。現在の時制を生きている人間が、急に過去の文体で語り出すのである。しかもわざわざそのように語るのだ。それはおかしなことであり、場合によってははずかしいことではないだろうか。

もちろん「短歌だから」と言い張ればよい。「短歌だから」は文語体で書く者を、不自然さ、おかしさ、はずかしさから守る盾のようなものである。つまり短歌は過去の文体で書かれた言葉が収まるべき過去の文脈なのである。

けれどそこに日常の感覚――つまり現代の文脈が持ち込まれたらどうだろう。「気取ってやんの」「古くさっ」短歌を書く人間に面と向かってそんなことを言う人間はそうそういないだと思うが、そのような視点を書き手自身が内在化した時、はずかしさが生じてくるのではないか。

では口語体ではどうだろう。口語体は現在の文体である。先ほど短歌は過去の文脈であると書いたが、だからといって現在の文体を排斥するかといったらそんなことはなさそうだ。短歌は過去の文体だろうが、現在の文体だろうが、何でも受け入れてくれるように思う。けれどやはり過去の文脈であることに変わりはなくて、現在の文脈とは厳然と区別される。

つまり現在の文脈が海だとしたら、短歌という文脈はそこに浮かぶ船のようなものである。船に乗せられることで、文脈に合わない言葉(文語体)も溺れずに済むことができるが、けれど「船に乗っている」ということにより、海を泳ぐ言葉たちとは厳密に区別される。

口語体の短歌の言葉とは、本当なら船に乗らなくても海を泳ぐことのできるのに船に乗っている言葉である。船は受け入れてくれているが、海を泳ぐ言葉たちからすると「あいつらは俺たちとは違うから」と言って馬鹿にされかねない。

 

 

 5

そもそも「はずかしさ」とは何か。それはズレの自覚であろう。周りからズレていると思った時、人ははずかしくなるように思える。

そういう意味で、ズレがより大きいのは文語体の方である。けれど「短歌である」と言い張ることで、そのズレに鈍感になることができる。ズレを相対化したり、「歴史的に正統なのは俺たちであって、ズレているのはお前らだ」と言い張ることも、やろうと思えば可能である。前章の比喩で言えば、「船は海より広い」という理論を展開することができる、ということである。

それに対し、口語体はズレが少ない。それを限りなくゼロにすることもできるかも知れない。けれど、「短歌である」以上、やはり完全なゼロにはならないのである。どんな自然な短歌であっても、日常会話の中で断りもなく突然引用したら、大概の人はびっくりしてしまうだろう。そして口語体で書くということは、おのずとこのズレにゼロに敏感になってしまうことのように思える。

ざっくり言うなら「文語体ははじしらずの文体」「口語体ははずかしがり屋の文体」ということになる。さて、どっちがましだろう。

 

引用

橋本治『失われた近代を求めてⅠ 言文一致体の誕生』2010,朝日新聞出版.

衛藤ヒロユキ『魔法陣グルグル(16)』2003,スクウェア・エニックス.

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1 コメント

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はずかしいのは悪? (むらじ)
2017-10-04 11:24:41
前提としてはずかしさが悪、マイナスのように扱われているのに違和感。
はずかしさを感じたりズレていたりすること自体はなにも問題ではないと思う。
むしろ「はずかしさ」を糾弾することの方に問題が多いのではないか。

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