「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌作品評⑨ 小津夜景から加藤治郎へ  ガリガリ君と、夏の思い出。

2017-08-29 22:34:55 | 短歌相互評
 
評者  小津夜景
 
 
 
加藤治郎の新作が出たので感想を、との依頼があった。タイトルは「ヘイヘイ」。一瞬どうして私が?と思ったが、先方の説明によると、今度の彼の新作は短歌×詩のコンポジションである、ついては複数の詩型を融合させて作品をつくるあなたにそれを読み解いてほしいのだ、とのこと。

とはいえ「ヘイヘイ」は「読み解く」といった硬質な響きがこの上なく不似合いな作品である。たしかに加藤は大胆な比喩や措辞をもってして世に知られる歌人ではあるが、「ヘイヘイ」は物語全体が大変分かりやすいイメージで展開されており、またこのことは加藤から読者に向けられた本作の企図が、読解のスリルよりもコーヒーブレイク的快楽に置かれていることをシンプルに物語っている。実際この作品を読んでわたしが感じたのは、クールでこなれた描写からなる、軽いペーパーバックを繰る午後のひとときのような快適さだった。

そう、ペーパーバック的洗練という観点からみて「ヘイヘイ」はきわめて質の高い作品だ。舞台は夏。それも最も夏らしいといえるような日々である。作品は広々とした青空を底なしの背景として据えながら、作中人物の行為を近景としてさりげなく描く。そうしてこの作中人物が、この夏をいつもと同じように過ごしつつ、過ぎ去った(おそらくはただ一度きりの)あの夏を回想するようすを追ってゆく。
 
便箋に青いインクがしみてゆくお元気ですか夏のゆうぐれ

ダウンロードのゆっくり進むファイルにはハイアイアイと歌が聞こえる

雲の下にあるかなしみと雲の上にあるかなしみとどっちが軽い

冒頭の三首。読者を引き込むために、初手から加藤が紋切り型もかくやとばかりのロンサムな物腰を、迷いなくソリッドにキメてきたことに私は感動する。また一見センチメンタルに見えて、一首の中に無駄な情緒が皆無なのもいい。作品のてざわりはフラジャイルでありながら、しかしムードに流されていない。三つの歌の景の切り取り方も、抒情を捌く手つきも、それらが繰り出される順序も、まるでCMのように最適化が効いている。

どこかの夏に降り立って
缶コーヒーを飲んでいる
返事を待っているばかり
生きているのかわからない

ここに間奏詩(インテルメッツォ)を挟むことで、物語の情感は流れに乗ることなく一度クールダウンされ、作品全体の雰囲気が明るく、さわやかで、すっと自立した感傷に留められているのがわかる。ところでこの、CM的洗練からのフィードバックを強く感じさせる四行については、詩というより変則的な詞書であると捉えた方がすっきりするだろう。というのも、本作の詩と短歌との間には互いの形式のあり方を意識させる種類のせめぎあいがなく、むしろ状況の補足・調整のための積極的親しさが感じられるからで、また正味のところ詞書の発展系が歌物語であることを思い返してみても、この四行は進化した詞書そのものだからだ。つまり「ヘイヘイ」における詩的形態の導入は〈形式の混在〉を演出することでテキストの多声化を図りつつ、同時にきわめてプラグマティックに物語のアングルを切り替える意図をもっている、と推測できる。

おもったより、おもったのは、音楽が言葉のなかにあってたのしい

青空のなかにも雲があることのすこしうれしくともだちを呼ぶ

午後からは行き先不明のわたくしでメロンフローズンころころと吸う

「おもったより、おもったのは、」の「、」は思弁と情緒とのあいだの振り子的運動、存在者の存在様式をリズミカルに入れ替えるギアとして機能している。存在者の存在様式にゆさぶりをかけるこのような原始的リズムすなわち「音楽」は、さまざまなヴァリエーションでもって加藤作品のいたるところにその跡ととどめている。私の感じるところ、加藤作品における大胆なエクリチュールは、おしなべて読者の身体に直接訴えかけるてごわい弾力性を孕んでおり、またこの弾力性こそが彼の作品の生命力の核心となる。これを外見上〈記号的遊戯〉に見える部分にこそ、実は加藤の〈肉体的本性〉が生々しく湧き躍っている、と言いかえてもよい。加藤による記号との戯れが書斎派のそれとは違い、荒削りで不統一なカオスを感じさせるのも、つねに肉体を実感でみたそうとするディオニソス的衝動でもって、記号という秩序すなわちアポロン的なものを掴みとる性癖のあらわれなのではないかと思う。

また「青空のなかにも雲があることのすこしうれしくともだちを呼ぶ」の「雲」が、ロンサムなモードに最適な符号であることにも一応触れておく必要があるだろう。雲ひとつない青空は、あまりに果てしなさすぎる。無窮のさびしさを癒す「雲」は自然のなりゆきとして「ともだち」の観念を召喚し、またこう考えると、この歌にはいくぶん漢詩的な伝統が息づいてもいる(もっとも「ヘイヘイ」は、どの語の背後もあっさりとしており、こうした意味づけをこれっぽっちも当てにしていないが)。さらに言えば「午後からは行き先不明のわたくし」と「ころころと」も、漂流感覚をありのまま読者に伝えている。

砂漠の色の夏の午後
ホットケーキを裏がえす
ナイフとフォーク用意して
宅配便を待っている

この四行についても同様に、詩の形態(形式ではなく)をした詞書であると捉えると見晴らしがいい。ここではまず「砂漠」という把握が効いている。やはり「ヘイヘイ」の大地はひろびろと乾いた色をしているのだ。次に「ホットケーキ」の色と質感がよく、さらに「宅配便」といった外の世界と内の世界とを循環するマテリアルが、以下につづく回想を自然に引き込んでいる。

蜂蜜の流れる部屋にきみといるなんに濡れたか分からない髪

水風呂に夏のひかりのみちていてあなたの指がおへそをさわる

つめたい雲がまぶしくて
おなかの上におりてくる
あたっているのあたってる
シャワーの水はくすぐったい

感覚を介して受けとめる光の変化、温度の変化、空気の質感の変化。光や水が肌にふれるときの、言葉にならない幸福感。夏という舞台だけが表現できる性愛の解放。五感をいっぱいに広げて世界を掴むことは、加藤作品における真に基礎的な意味での土台である。この土台を〈幼児性〉という視点の導入によって解き明かそうとする者は多く、その一人に柳本々々がいるが、先日柳本と加藤の歌について語り合っていたとき彼はこの特徴を〈五感の総動員〉と言い直してみせた。

五感の総動員。たしかに「ヘイヘイ」から溢れ出す真のテーマも〈あの感覚を、カラダが今でも覚えている〉といった告白だ。しかもそれは非常にあっけらかんとした告白であり、個人的心情の内部にたてこもったそれではない。あるいは感傷へ深入りしそうなときも、己のアクションでもってそれを阻むのである。

燃えがらのような雲だけういている沈んでいるまた起き上がるから

八月になってもなにも起こらない線路の前に立っている影

はちみつ色の道をゆき
ゼリーの壁を指でおす
ヘイヘイというあんただれ
顔があったら見せてくれ

流浪の象徴である「雲」が「燃えがらのよう」になったという空の把握。もう何も起こらない(あの夏はそうではなかった)「線路」の前にすっと立つ「影」という地の把握。作中人物の記憶している〈あの夏〉は天地のどこにも存在しない。

だが無論「ヘイヘイ」は失われた時間の旧懐がそのストーリーの本意なのではない。むしろ記憶の背後に感慨すべきものなどなにもないといった、クールな認識がこの作品の語っていることだ。「ヘイヘイ」において、記憶とは人生の蜃気楼であり、まるで心を置き去りにするかのように、カラダだけがそれを覚えている。まただからこそ「ヘイヘイというあんただれ/顔があったら見せてくれ」と加藤は書くのだろう。そっと幽霊に、語りかけるように。

どんなあしたがこようが俺は生きてやる ガリガリくんはソーダ味だな

ヘイヘイという、あの夏に立つ蜃気楼。最後の一首で作中人物は、その歌声が喚起する行き場のない感傷をアクションで振り切ってしまう。もちろんそのアクションとはガリガリ君を噛むことだ。この夏のゆうぐれの風景の中で。
 
 

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