「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 短歌を見ました 鈴木 一平

2017-09-19 13:34:57 | 短歌時評

 『穀物』が見つかったので、続きを読んでいきます。

 詩のなかで短歌や俳句といったジャンルの作品が使われていると、初めと終わりの流れを読む時間に亀裂ができるというか、短歌や俳句らしい部分を飛び石伝いに読んでしまいます。詩は後景に退き、読む目を包み込む空間になることで、作品に生じる奥行き。それは、読み飛ばされる行のいくつかにも俳句や短歌が埋め込まれているのではないか、という期待のために波打ち、観測のたびに詩が立ち上がるかのようです。とはいえ、たいていは前後に行が空けられ、それとわかるような体裁になっているので、いわゆる詩型を持った作品は、形式を可視化する余白を含めて作品であるといえます。もちろん、余白は恣意的な空白として強調されることなく並列される行同士の間にも、ごく薄く張り渡されています。
 飛び石伝いに作品を読むとは、目の前に広げられた紙面の限定を弱め、紙面と読みのあいだに余白を立ち上げることを意味します。私たちはこの余白を通して作品を読んでいます。余白は複数の配置に埋め込まれた作品同士を重ね合わせ、形式から価値のある意味を引きずり出す。目の前の言葉同士の配置関係に依存し、作品として自律しているかのように思えたイメージが移動を始めるとき、言葉が文字通り動いて見えるようです。

(1)

  十指のみ動かしできる予言かな剣を手にするKかざせば

  忘年のために覚えし手品あり幾度か晒す年跨いでも

(2)

  大飛出、蛙、山姥 追憶にあなた方の顔が見えない

  分数を蛙に何故か教えたることが残りし記憶のひとつ

 廣野翔一『虹を出す手品』は、作品同士の近接性によって生起する象が特徴的です。(1)「十指のみ」では手に持つトランプのキングの剣を握る手と、それをかざす指が示され、入れ子状の関係が作品の自律性を強調しつつも、その構図は「手品」によって受け止められ、忘年会の余興として次作品に埋め込まれます。「幾度か晒す年跨いでも」と示される反復性の提示は、前掲の作品が提示する「予言」と呼応し、予言としてかざされる身振りが繰り返し行われるという鈍い再起性を生み出しています。
 (2)「大飛出」でははじめにいくつかの能面が提示されたその下で、「あなた方」と呼ばれている顔が配置されています。「あなた方」は能面とともに能面ではないだれかの顔の存在を暗示させつつ、それが見えないことを「仮面によって隠された顔」のイメージをとおして強めているようです。そして提示される「分数を」では、「蛙」と示される対象がカエルを想起させることでユーモラスな情景を匂わせつつも、前掲「大飛出」によって能面の蛙が被される。

(3)

  野良犬が骸避けたり後続車我に続いて避けたるを見ゆ

  前門の客、後門の大飛出いずれにも負け街を追われき

「野良犬・我・後続車」と「客・街を追われたもの・大飛出」の組み合わせから、前者の作品において異質な「」と後者において明文化されず、従って作中主体に帰着される「街を追われたもの」が呼応し、その結果として明文化される作中主体「我」に折り返される「骸→街を追われたもの→我」という構図が見られます。
 作中主体と書きましたが、この連作は作品同士の換喩的な言葉の組み合わせをとおして、作品内部に固有の位置をもたない人間、普段は作品の外で生活をしているだれかの姿を、わりあい具体的なプロフィールといっしょに浮かび上らせる点が特徴的です。

(4)

  片方の腕で成し得ることなれば鳥居のごときクレーン動く

  点検の前に残水を吐かせおりうつ伏せの後逆立ちをさせ

  父に叔父そして祖父みな泥を掘る職を選べり業のごとくに

 上記(4)に挙げた作品のほかにも、おそらく土木仕事に関係する語彙があちこちに見られ、傾向的な同一性がわりあい強く結ばれます。これが、いわゆる作中主体や、語り手と呼ばれる枠組みに言い換えられます。語り手は言葉の配置が生み出す意味が結実し、できる限り矛盾の少ないかたちでつくりだされるイメージとして、言葉を操作する視点ですが、語り手自体は配置によって操作可能で、これは署名によって示される書き手自身の存在や、書き手による言葉の配置が持つ傾向性と合わせて、作品がどのように意味づけられているのかを知るための手がかりとして機能しています。
 作中主体は作品がつくられると同時に生まれるのではなく、作品が読まれ、そこで描かれているものがどのようなものなのかを評価するにあたって設定されます。作中主体という要素を概念として意図的に使用しない限りは、作品ごと、または作品間の言葉の並べ方をもとにあらわれる語りの影から、よりふさわしい輪郭を組み立てていくのが基本だとおもいます。(4)の作品をそれぞれ単体で読むのか、連作による一連の流れのなかで読むのか、それぞれの見方で「クレーン」や「点検」の意味は異なりますし、後者をつよく念頭に入れるのであれば、これらの語は作品が作中主体のプロフィールに関わりうるものとして与えられています。「鳥居」の意味も「風俗の話題があがる 遠き日にかじった宗教学を思うね」といった作品をとおして、かつて宗教学を学んだ私と土木業に従事する私から、物語のようなものも組み立てられます。そのまま、「声殺し夜の鳥居の前を過ぐ墓の前ではなけれど怖し」や「仮説材使いて髪に近づける人間聞かず 春の建築」にも接続します。個人的には、次に引用する作品同士の組み合わせが面白いとおもいました。「潜める」「沈黙」をとおして、「鹿」(もしくは「」)と「上司」の重なりを媒介する山。

(5)

  雨降りの街の光は眩しいか山に潜める鹿を思いて

  裏山に入りてしばしの沈黙ののち、筍を抱いて上司は

 こうしてある言葉を別の視点や時系列で使用することで、作中主体はそれぞれの私が属していた作品を飛び越えて、言葉が持つ価値を計算し、その意味を深めていくとともに、意味が抱えうる領域を広げていきます。書き手と作中主体が出会うのは、こうして言葉が並べられ、作品が並べられていく、余白を背にした配置関係を通してですが、それらは作品ごとに異なる意味を組織するので、作中主体はバラバラな視点を持っているからこそ、より強固に立ち上がるのかもしれません。
 ところで短歌や俳句は、数ある表現ジャンルのなかでも作品に題名が付されない点で特異性を持ち、作品と書き手の関係は題名を媒介せずに結ばれることが多く、分かちがたいつながりを感じます。連作にはかろうじてタイトルがつけられます。連作は作品自体の固有性をゆるく包み込む枠として、収録作間に余白を呼び込むことで、連続的な順序を離れて収録作のあいだに動き出す言葉の配置をつくります。とはいえ、歌集に収められたときに連作は章題へと繰り上げられるので、やはり題名とは異なる、不思議な立ち位置のような気がします。 

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