「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 句集を読む4 小峰慎也

2017年02月25日 | 日記
 石田波郷の句集『雨覆』を読んでいる。
 前回、「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」という句を読んだ。のだが、6句目、「風雲の少しく遊ぶ冬至かな」を読んだら、「」という字が気になりだした。
 「風雲の少しく遊ぶ冬至かな」といったときの、これは、俳句ではよく見かける気のする、いい感じの「」だが、この「」、どう説明されるのが一般的なのだろうか。文法的な説明というか、ここでのはたらきというか。遊んでいるのが、風雲だとして、「風雲」を主格としてあらわしながら、「風雲の少しく遊ぶ」が「冬至」にもかかるという場合の、俳句でなくてもよく使われる、「が」→「の」の変化ということか。例)「本が積んである」→「本の積んである部屋」といった場合の(文法的には、主語述語を含む文が、別の名詞の修飾になるとき、「の」に変わる、というような説明でいいのか)。ただ、この句で、ほんとうにまともに「風雲の少しく遊ぶ」が「冬至」にかかっているととらえていいのかどうか、「遊ぶ」でいったん切れているとした場合、「」を選ぶ理由はなんだろう。これが、「が」であったときを想定してみると、まるで印象が違うように思える。「風雲が少しく遊ぶ冬至かな」であった場合、叙述という面が強く出てしまい、「風雲が少しく遊ぶ」も「冬至かな」もただそれだけで、二つが関係して何かになっている状態ではない。それに対して、「風雲の少しく遊ぶ冬至かな」には、「風雲」が「冬至」のほうにまるめこんでいくようなやわらかい遊びの調子が感じられる。
 そこで、「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」を見なおしてみると、前回書いた、「ニコライの鐘の愉しき」「落葉かな」というふうに切れているとした場合、「鐘の」の「」は、「が」→「の」というパターンの、「」と思っていいのだろうか。もしこれが「が」だとしたら、「愉しき」と「落葉かな」の間で切れるのがよりはっきりし、前回、切れてない場合の可能性をあれこれ想定してみたが、その想定はほぼ無用になる。まあ、切れているととらえることが当たり前のことかもしれないのだが、「の」になっていることで、慣れない読者に「可能性」を与えてしまっている、しまっているといったら、悪いことのようにきこえるが。慣れない読者といったが、ただ、ぼくが頭が悪いだけかもしれない。頭の悪い人間に、「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」は、なんだか違うもののように、はがゆい可能性として「ある」という感じがするのだ。それが、気持ちいいとも思える。
 まるめこんでいく、といういいかたをしたが、この「の」には、主格でありながら所有格であるような、後の語にもぐりこんで消滅したい欲求、といったら、変だろうか。切れ、かつつながっているということなのかもしれない。ただ、少し気になるのは、もし、このような「の」を使うことが、常態化していたとしたらどうなのか、ということ。たしかに、この場合、(もし「が」の可能性があるとして)「の」のほうがあきらかに面白いとは思う。しかし、常にそのことがよしとされるようなことであれば、ちょっとなあとも思う。そうではなくて、俳句は短い、というようなことが呼びよせる書き癖のようなものなのかもしれないけど。

 7句目に。
 「餓師走花八つ手などちつてなし」。「餓師走」というのは、「うえしわす」という読みかたでいいのだろうか。この語はひとつの語? それとも、「」「師走」、二つくっつけてしまったものか、または、一般的に季語としてあるものなのか。こんなやりかたあるのだな、という感じである。これも、さっきの「俳句は短い」ということに関連して出てくる、産物、ある意味での「無理の成立」だ。これがもっとことば数の多いフィールドに出たら、もちろん書くことはかまわないのだが、それを成立させるのはむずかしいのでは、と想像される。俳句の制限が、自然なかたちで無理を成立させているのだ。「餓師走」、無理やりに押し込めた、そこで屈折が出て、句の中の力点が作られる。
 「餓師走」で、時期、状況などを端的に示したあと、切れて、「花八つ手などちつてなし」と見えているもの、景色のほうに視点が切りかえられる。しかも、というのも変なつなぎだが、実際に見ている目を想定した場合、「花八つ手など」のない植物(?)を見ていることが想像されるが、いまそこで起こっているわけではないが当然そうであるところの、「ちつて」という動きを含ませている。余計な動きをさせているのだ。これは、動きでもあるし、「」るということばの含み、あるいは、いま見えているものに過去を与えることにもなっている。
 さらにいえば、「」「師走」「花八つ手など」とつながる、名詞列挙の気持ちよさは何なのだろう。それぞれに、同じくくりにできない、ことなるはたらきをする語であるが、かけはなれすぎてもいない。そして、「など」がきいている。「など」は「花八つ手」にかかって、ほかの植物を含む広がりを与えているのはそうとしても、「」「師走」「花八つ手」という連続にかかる「など」としてもはたらいている、と錯覚するようなききっぷりである。
 なにか、石田波郷という人、よく知らないが、ことばのどこで力を置いて、どこで動きをつければいいのか、いちいち、やってくれる、という感じだ。

 8句目。
 「桑括る女をみる目ながしけり」。
 これは途中で切れていないのだろうか。切れている切れてないを確定させることに執着するというのも違う気がしてきたが、意識しないというのもやはり違う気がする。この句の場合、「みる目」を「ながしけり」だととらえるとした場合、まあ普通につながっているとしていいのだろうか。流し目ということばがあるが、それを「目(を)ながす」というふうにいいかえているということか。こういいかえてみると、なにか変な感じ、「流し目」とは別の感じをあたえてくる。「流し目」といういいかただと、一つの動作を慣用的・静止的にとらえている感があるのに対し、「みる目ながしけり」では、みている目を「動かしている」、それも、普通に動作主が目を動かしているというよりは、「みる目」を一度「もの」にした上で動かしている、と感じられる。
 と、しても。これは、どうも、ことばいじりの小ざかしさも感じさせている。これ、普通のいいかたをしたら、「桑を括る女を流し目で見た」ということになるだろうか(まあそもそも解釈が間違っていて、流したのは全然違うものなのかもしれず、また、俳句の習慣で、目を流すとかいういいかたが普通にあるのかもしれないのだが)。こういうある程度普通にいった場合を想定してみると、そうとうテクニカルにやって、俳句化しているなという感じである。それ自体は別に悪いことでもないだろう。「流し目で見た」ということを「みる目を流した」として普通でない感触をつくったことに感心しもする。ただ、「みる目ながしけり」といういいかたには、ある材料を組み替えているだけ感、組み替えてこうなったからすごいだろう感、のようなものが感じられ、少し鼻につくような気がしてしまっているのだ。さっき勝手に想定した「桑を括る女を流し目で見た」というような散文的ないいかたからすると、「を」の省略(助詞の省略)がたくみであることも手伝っているかもしれない。ようするに、正解に向かいすぎている面があるということである。

 次の9句目、「冬の日を飛越す鷺の薔薇色に」も、「」が気になる句だ。
 俳句を読みなれていない人にとっては、いろいろな可能性が思い浮かぶ。普通に意味を考えたら、どういうことなんだろう。全体が、散文的につながっているとすれば、冬の日を飛び越した鷺の色が薔薇色ということになり、冬の日を「飛越す」ということをやった鷺の色「」どうしたという部分が省略されている、ということになる。が、たぶん、これは不正解なのだろう(わからないのだが)。
 それでは、やっぱり「鷺の」の「」を主格を示すものと考え、その主格が冬の日を飛び越している、「冬の日を飛越す」と「鷺の」が倒置関係になっていて、鷺が冬の日を飛び越している、それを薔薇色と表現してみた、というのはどうだろう。この場合、「」は、「飛越す」にかかる、ここの部分も変則的に倒置関係だ。しかし、これもなんとなく釈然としない。「」っていうのをなんでわざわざこう使うのか、「俳句のステージに上げるための行為」と邪推したくなる。
 もう倒置とかどこにかかっているとかほとんど考えない、読み取ろうとする力を低下させて読むことを指示されている、のだろうか。読解力を低下させたまま読めば、任意のところで、あいまいに、切れているように、思うことができる。「冬の日を飛び越す」で切ってしまえば、これは別に、鷺にかぎらない、何ものかが冬の日を飛び越した、ということが思われてくる。そうした場合、「鷺の薔薇色に」とつなげて考えることがかなりむずかしくなる。「鷺の薔薇色に」「冬の日を飛び越す」というような文として意味をとろうとするのは、文法的な説明はよくわからないが、「飛び越す」ということばにとって、なになに「」というものは組み合わせられず、組み合わせてもいいが、そのときには、文が、感じられなくなる段階にまで踏み出すことになる。このようなところまで踏み出したなら、文はほとんど生きていないといっていいが、ものすごくはがゆい気持ちを持つことができる。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

俳句評 最終回/季語どうすんねん/一行VS全行 橘上

2017年02月01日 | 日記
最終回だ、ワッショイ! ワッショイ!
最終回だ、ワッショイ! ワッショイ!

 しかし、今になって書いてないトピックがわんさか出てくる。
 いつもは書くことがなくて締め切り間際に原稿をデッチあげてたのに。
 どーして最終回になって出てくるかねぇ。
と、最終回を書いたものにしかわからない「最終回あるある」が登場したところで話を進める。
 書きたいトピックがあるんならすべて書いちゃえばいいじゃん。
 だってここはインターネット、紙幅が尽きるなんてことはない。
(やっぱメディアの特性を生かさなくちゃね)

 つーわけで章ごとのテーマを以下に羅列しますんで好きなところから読め(下さい)

Ⅰ..季語どうすんねん
Ⅱ.一行VS全行




Ⅰ.季語どうすんねん

   スプリング・イズ・デッド

「今年ってさ、春って十日ぐらいしかなかったよね」
 
 これは2016年の6月に僕が発した言葉である。
 今年の春は寒かった。ほとんど冬。いうなれば残冬。そしていきなり暑くなる。
 そして秋は暑かった。ほとんど秋。いうなれば残夏。そしていきなり寒くなる。

つーかずっと寒い。春は。ここ十年。もっと前からか?
つーかずっと暑い。秋は。ここ十年。もっと前からか?

 何が言いたいかっていうと、日本の四季ってのはここ十年で崩壊してないか?

 僕の肌感覚で、日本の季節を12月から言うと、  
 冬→真冬→晩冬→残冬→(春。飛び飛びで十日)→初夏→夏→真夏→晩夏→残夏→(秋。飛び飛びで15日ぐらい)→初冬→冬…

といった感じで一年のほとんどは夏か冬で、春と秋はあわせて一か月ぐらいしかないんじゃないのか?
 「日本の四季」はフィクションになりつつある。
 そんななかで今まで通り季語を使うと、現実と乖離した句が生まれないか? ということ。

 例えば、まだ寒さの残るというか、冬と同じぐらい寒い4月の頭に、ダウンジャケットを着て鼻水たらしながら花見をしたのに、できた俳句は春の季語を使った春の句。
 寒いとはいえ、桜が咲いてるんだから「春」だとも言えるが、季語の春があらわすものと現実の春はズレが生じてくるではないか?

 僕はお気に入りのスプリングコートを持っているのだが、年間で二十日も来ていないし、そのうちのほとんどはインナーダウンを中に着ている。
 「四季崩壊前」の時代のスプリングコートは、春を快適に過ごすためのものだったが、「四季崩壊後」の時代のスプリングコートは、「春」を演出するためのものになりつつある。

 同様に、
「四季崩壊前」の時代の春の季語は、目の前の春を「写生」するためのものだったが、「四季崩壊後」の時代の春の季語は、「春」を「演出」するためのものになりつつあるのではないか。
 
 そしてそれは、LPレコードの世代でもないのに、LPがあまり流通していない2017年現在、LPという物体やそれに取り巻くカルチャーへの憧れから、CDとは別にLPレコードを発売する若手ミュージシャンの姿に似ている。
 リアリティを追及する人というよりは、「憧れ」をキーワードに文化継承をする人/あるいはヴィンテージ志向の粋の人といった感じだ。
 
 あっ別にコレ批判とかじゃないですよ。すべての芸術がリアリティを追及しなきゃいけないわけじゃないし。古き良きヴィンテージの継承素晴らしいじゃないですか。
 僕のバンド「うるせぇよ。」が今年の一月にCDを出したんですが、「LPも出してやるよ」って言われたら出しますもんね。2017年の音楽ですけど。
もちろんまだ四季はなくなったわけじゃないし、今後気候も変容して「四季復活!」ってこともありえるんですが、「季語のヴィンテージ化」は今後のトピックになるんじゃないかと。

 え? タチバナお前はウソを言ってる。キレイゴトじゃなくて本音で語れって?
 そんなに俺が疑わしいんなら、アンタの持ってるヴィンテージ時計くれよ。
 喜んでもらってやるからさ。
 別にヴィンテージのワインでもいいぞ。 


   四季を知らない子供たち

で四季が崩壊しつつある現状で作られるであろう俳句のパターンを幾つか考えてみた。
 現状は知らない。

 橘上の未来予想図

A.俳句をあくまで「暦の上でのリアリティ」と捉え、春が冬と同じぐらい寒くても気にしない「ヴィンテージ季語俳句」

B.季節感の変容そのもの/季語の意味づけの再設定をテーマに句を作る「メタ季語俳句」

C.従来の季節感と乖離していない日(年に数えるほどしかない「春らしい春」の日・「秋らしい秋」の日)にフォーカスをあてることで季語と現実の乖離を起こさせない「ズレるなら合うまで待とう季語俳句」

D.無季俳句派

E.それ以外

F.A~E全部やる 


 「つーかそんなに季語を実際の季節と照らし合わせて使ってるのって、ホトトギスの人たちぐらいじゃない?」
 「季語が実際の季節にそぐわないってのはとっくの前からみんな、わかってるよ」
 「そうなの? だったらゴメンね」
 「分類して終わりだったら面白くない」
 「じゃあどうすれば?」
 「これから先の展望も書けよ」
 「でも俳句そんなに詳しくないし…」
 「妄想でもいいぞ」
 「じゃあやります」


A.ヴィンテージ季語俳句派
 これについては特にいうことがない。要するに気にしない人ってこと。その人の句はこれまでもこれからも変わらない。でもそれはそれでいいんじゃん?
 また「わかりやすい俳句っぽさ」を求める他ジャンルの「粋な人たち」からありがたがられる存在。 

B.メタ季語俳句派
 この人たちは、「春なのに寒い」とか「秋なんてほとんどない」とかをテーマに作句する。
 手法としては「桜」と「ダウンジャケット」が一句のなかに並ぶ、春の季語と冬の季語の季重なりとかも積極的に多用する。
キャッチフレーズは「俳句で季節を再定義」。
 「季重なり」とか「あまりよろしくない」とされてきた行為を「あえて」ではなく「普通」に「スタンダード」な行為として捉える。
当初は①の一部の人からの激しい批判にさらされていたが、「俳句甲子園」通らなかったオルタネイティヴ十代・二十代から支持を集め2030年代以降の俳句シーンを塗り替える。
 しかし「四季を知らない子供たち」があまりに「自らの感覚」に重きを置きすぎたために「歳時記」の継承は危機的な状況に。トランプ大統領以降顕在化した「ポピュリズムの台頭による文化破壊」と歩みを共にし始めたことにより、「メタ季語俳句派」内の議論が活発化、後に過激化し、ともすれば内ゲバも起こりうる危機的状況の中、紀貫之の子孫の友人のまたいとこと同じ町内に住む中村草田男と一字違いのデイトレーダーで俳人の中村草男が「新約歳時記」を書き下ろし事態は沈静化。
以後の俳人は歳時記の「旧約」か「新約」のどちらかを選択、あるいは両方とも学ぶ、あるいは全て無視するかのどれかに分かれていく。


 「いきなり2030年の話しするなよ。なんだよ『新約歳時記』って」
 「妄想でもいいって言ったじゃないか」
 「ならば続けなさい」


C.ズレるなら合うまで待とう季語俳句派
 賢い生き方。
 Aのヴィンテージ季語俳句派ともBのメタ季語俳句派とも仲良くできる。
 現実のリアリティと従来の俳句作法が矛盾なく同居できるため、読むものを選ばない。
 しかし、従来の季節感と乖離していない、春らしい春の日や秋らしい秋の日は少ないので、その日が来るまで待ち続け、その日が来たら是が非でも吟行をせねばならない厳しさがある。一方で夏と冬の句は作りやすい状況にいる。
 「待つのが俳人の仕事だよ」と映画俳優のようなことを言う。
 この派に分類される人たちは、Bのメタ季語俳句派とは違い、自分がこの派に入ることに無自覚であることが多い。そのため、周りからこの派に分類されることを嫌う人もチラホラ。

D.無季俳句派
 根本的にこの人たちのやることは変わらないが、「季節感の変革」に伴い俳句界でのこの人たちの存在感や発言力が増していく。この派の人口も増えていくだろう。
 「同じことをやっていたのになぜか急に脚光を浴びる」という「2007年以降のサンドウィッチマン」のような状況になる。
 主に彼らが影響を与えるのはBのメタ季語俳句派で、彼らの実践を再評価することで、季語の再解釈の一助となる。


 「妄想にもいい妄想と悪い妄想があることはご存知かな?」
 「これはどっちかな?」
 「時間がいつか審判を下すのさ」


E.その他
 いつの時代でも好事家たちの予想を裏切る独創的な才能に期待したいものですね。

F.A~E全てやる人
 ヤツは正しい。
 「ヴィンテージ季語俳句」の歴史性、「メタ季語俳句」の革新/現在性、「ズレるなら合うまで待とう季語俳句」の持久力と集中力、「無季俳句」の表現の幅、「その他」の独創性全てに理解を示し、良し悪しを吟味したうえで、その時の状況、自身のテンションに応じた作句をする。
 「オリジナリティ至上主義」にも「歴史をわかった上でちょこっとアップデート主義」にも陥らない柔軟性がある。
 視野が広く現状をよく把握しているのに、「節操がない」などと揶揄されがち。
 だが、何でも手を出すヤツを批判するのなら、そのスタンスではなく、仕事一つ一つの成果やクオリティで批判すべきだろう。失敗した句があってもヤツならそれを糧にすることができる。
 さらにネット社会の到来後、世界は加速度的にジャンル/コミュニティ/クラスタ/派閥の細分化が進み、匿名では過剰に感情的な誹謗中傷合戦、記名では無難な意見が飛び交う昨今、複数のコミュニティを又にかけるヤツの行為それ自体が批評的かつ根本的である。
 どこにも属さないからどこにでもいけるのだ。
 で、ヤツって誰だよ。
知らねぇよ。俺はヤツなど待ってない。
 けれどヤツは必ず現れる。
 
 「こんだけ好き勝手言って、予想外れたらどうするんだ?」
 「プロ野球の順位予想が外れた野球解説者が謝罪しますか?」

 なんかこの章、占いみたいな文体になったね。
 なんでだろね。
 じゃあ占いみたいになったついでに、この章をよんでくれた皆さんを占ってあげますね。

 この章を読んでくれた皆さんのラッキー俳句は、

 自動車の止まりしところ冬の山(高野素十)

です
          (第一部「季語どうすんねん」完)



 こっからは評でもなく、論でもなく、妄想でもなく、
 思ったことをただ書きますね。
 いいんですかね?
 いーんじゃない、最終回だし。
 最終回特需ですね。
 そんな言葉あるの?
 さあ。
 そう。
 

  Ⅱ.全行VS一行
 

 確か「どうして書くの?―穂村弘対談集」(筑摩書房)だったと思う。
 そこで、長島有と穂村弘が奥田民生の曲「イージュー★ライダー」について語る。
 話の要旨は、
 「『イージュー★ライダー』の歌詞は、「僕らは自由を」「僕らは青春を」といった青春を無条件に肯定するような言葉の後に「うまくやりぬく賢さを」といったハッとさせるような言葉が続く」
といった内容だった。うろ覚えの記憶なんで細かいところは違うかも知れない。
(『イージュー★ライダー』は何かのCMのタイアップとして使われたが、そこで使われたのは、「僕らは自由を」「僕らは青春を」の部分だったと思う)

 これに似たようなことをかつて谷川俊太郎が新聞のインタビューで言っていた。
 「私はクライアントの依頼を受けて書くことが数多くありますが、そんな作品の中にも一行は、自分のリアリティーを持った言葉を入れています」
といった内容だったと思う。

 うろ覚えだし、「自分のリアリティー」の部分はもっと違う言葉だった気がする。
 とにかく、奥田も谷川も「能天気な、ともすればコマーシャリズム的な言葉の中に、作家性の強い言葉を混ぜる」ということをやっていて、自らの言葉を幅広い人に届けている。
 そしてそれは、当初はカルト芸人だったタモリやビートたけしが自らの猛毒を「小出し」にすることによってポピュラリティーを獲得した経緯にも通ずる。
 その流れは深夜番組や単独ライヴでは自らの作家性を純粋に突き詰めた作品を発表しながらも、クイズ番組や情報番組では作家性を薄めたコメントをする一部の芸人にも伝わっている。

「状況に合わせつつも作家性の強い一行を残す」という仕事を「一行の仕事」、
「自らの作家性を徹頭徹尾追及する」仕事を「全行の仕事」と仮に名付けた時
前述した人々はその両方を実践している。
(作家性という言葉が気になるんなら、「自分がやりたいこと」「自分がやるべきこと」という言葉に変えてもいい)
そのスタンスは現代詩を書く人にも見習うべきところが多いと思う。

 何度も言って申し訳ないが、今はポピュリズムの台頭とコミュニティの細分化の時代である。
こんな時代に自分の作家性のみを追求し、「わかる人にはわかる」と言って「わかってくれるコミュニティ」にのみ安住するのは、自らの作品を回覧板化することにもなり得る。
 だってどこにもかしこにも小さなコミュニティは乱立してるわけで、「先鋭」の名のもとに新たなコミュニティーを作ってもそれは先鋭と言えるのだろうか?
 小さなコミュニティという意味では「茅ヶ崎ゴルフ同好会」も「先鋭現代詩の会」もハタから見れば同じなのだ。

そもそも自分と全く同じ人間は存在しないので、「わかる人にはわかる」を突き進めれば「誰にもわからない」になるはずで、「わかる人にはわかる」コミュニティーに安住する人は、「わかる人にはわかる」をそれほど深めていないのではないか

「わかる人にはわかるよ」といった相手に届ける気がない態度がトランプ大統領を生んでしまったのではないだろうか?
 しかし毒にも薬にもならない言葉を吐きつ続けても意味はない。
 トランプ大統領の登場は、リベラルと言われる人々の言葉が多くの人に届いてないことを明らかにした。

 「わかる人にはわかるよ」をよくわからない人にも届ける「一行」の努力と「わかる人にはわかる」を深め孤立化していく「全行」の実験を、二つ同時に突き進め、その二つの裂け目に自分を置くことでしか、トランプ以降の現実に対抗することはできないのではないだろうか?
 それこそが「うまくやりぬく賢さ」なのではないだろうか。

 で、ここから俳句につなげます。
 
 詩や小説やコマーシャルや映像作品は「一行にのみ作家性を込める」か「全行に作家性を込める」かの選択ができる。
 しかし短歌と俳句は「一行=全行」のメディアである。
 であれば、作家性の追求はできても、クライアントの以降に寄せるということはできないのだろうか
 クライアントに寄せつつも作家性を小出しにするという作品は作られたことはないのだろうか?
 散文の中に俳句や短歌を挿入するという文章はよく見かけるので、
 散文を大衆的なわかりやすい文章にして、短歌や俳句でエッジを利かすということになるんだろうか?
 それとも僕の知らないやり方があるのだろうか?

 自分なりの結論も妄想も追いつかない疑問を置いて
 先の見えない2017年2月の現状を自分なりに示して
 この時評を絞めようと思う

 「つーか」
 「最終回なのになんでこんな投げかけるようなことばかり言うんだよ」
 「実は俳句のシンポジウムに誘われていてね」
 「続きはシンポジウムで」
 「教えるというより教わるつもりなんでよろしくどうぞ」
 「詳細は下記」


船団フォーラム
日時:2017年4月29日(土) 14:00~
会場:神楽坂・日本出版クラブ
第一部シンポジウム「口語の可能性」
 秋月祐一、神野紗希、橘上、久留島元(司会)

第二部 対談 池田澄子×坪内稔典

その他詳細は後日船団のHP
(http://sendan.kaisya.co.jp/)
にて告知される予定

「こんな終わり方『パ★テ★オ』以来だ!」


      橘上の俳句時評~完~
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

俳句評〈フォト俳句〉の構図と鑑賞 ~中谷吉隆・森村誠一の作品から~ 物部鳥奈(玲はる名)・歌人

2017年01月30日 | 日記
 この頃、注目しているジャンルがあります。近年、愛好者を増やし、メディアで話題になることも多くなってきた〈フォト俳句〉です。

 〈フォト俳句〉は文字通り写真と俳句がひとつとなった作品で、多くは写真1枚に対して俳句が1句(2句の例も)添えられています。
 写真はカラーも白黒もありですが、作品群を見ていると、加工などはせず、撮影したものがそのまま使われていることがほとんど。撮影者は現場性や現実を重視し、場面を切り取る力で勝負しています。
 俳句は活字・筆書きなどフォーマットは自由ですが、基本的に写真の画像内を荒らすようなことはせず、脇に配置されています。(それが規定ということではないようですが)

 この〈フォト俳句〉が注目されはじめた背景には、スマートフォンや携帯電話といった写真撮影ができる携帯端末の増加・普及、元気な中高年世代の人口増加などがあげられます。
SNSで完成品をすぐに友人・知人に見せることができ、反応を得ることができる利便性がウケているのでしょう。そして、活字だけがtwitterなどに流れてくるよりも、写真に強いアイキャッチ力があることは皆さまご存じの通りです。

 メディア系のデータベースや販売されている書籍などいくつか参考にさせて頂きましたが、作品と解説という意味では2015年に森村誠一名誉顧問を迎えて発足した「写真俳句連絡協議会」と「信濃毎日新聞」が2008年頃(未確認)から運営をしている「フォト×俳句」の両サイトは資料的価値が高いと思いました。(文末に参考リンク)

 ■〈フォト俳句〉での写真と俳句の関係

 ふたつの例から〈フォト俳句〉の構図を読みます。

 ひとつめは「フォト×俳句」の「選者作品」欄にある2017年1月19日更新の作品です。

  熱燗(あつかん)に身を委ねたる夕かな 龍子

 〈フォト俳句〉の選者で写真家・中谷吉隆先生の俳号「龍子」です。(虚子系の「花鳥」にご所属だそうなので、ホトトギス・川端龍子を意識されていらっしゃるのかもというのは想像です)
 この俳句が添えられているのが、雪化粧をした宿の写真です。背景には雪化粧をした高い杉の木が立っています。まだ明るい時間帯ですが、雪たちの影がカラー写真であるのにも関わらず墨絵のような風合いを与えています。雪国独特の美しさです。
 また、屋根の下にひとつだけ灯る燈火が、大自然のなかでの文化的情緒を醸し出しており、慕郷の情など幻想と現実のはざ間を感じさせる一枚です。

 俳句は雪景色については一切触れられておらず、冬の季語である「熱燗」だけで作中主体である作者(と一応断定する)の夕餉の安堵感や至福感を伝えています。

 この作品では写真が場所を表す遠景となり、俳句が〈私(わたくし)性〉を語る近景となって、作品全体の広がりを確保しています。

 例えば、これを何かしらの文章で表現するのだとすれば、

  雪深き山奥のちいさな古宿に着いた私は、
  年代物の灯の燈る小窓から
  高い杉の木々が吹雪に靡く一面の白い世界、
  そしてその先にはさらに高い山景色を眺めながめながら、
  熱燗をひと口含む・・・

 云々ということになるでしょう。
 こうした世界観をほんの数秒で伝え切る力が〈フォト俳句〉にはありますね。

     *

 ふたつめは「写真俳句連絡協議会」の「森村誠一の写真俳句館」にある作品です。2005年の3月から始まり、2017年1月25日現在で第614週まで更新されており、森村先生の〈フォト俳句〉のキャリアとその日々が想われ、ひとつずつ見ているとついつい時間が経ってしまいます。

 例えば2015年1月24日第510週の作品

  家猫とノラの差別や天高し  森村誠一

 小説・ノンフィクションと多方面にご活躍ですが、ご自身のホームページにそれらの偉業と同等のサイズで「ねこ特集」という猫のグラビアページがあります。(私的好感度最高潮です)猫へ並々ならぬ情を注がれているからこそでしょうか、極自然に猫のいる場面に奥深い世界観が広がります。

 写真は家の窓を隔て、外側には仰向けに気だるく寝ている〈ノラ猫〉の姿と、内側で撮影者を見つめている〈家猫〉の姿が写されています。
外は明るく、内は影と対照的です。ありそうでない風景、いわゆるシャッターチャンスを狙った写真で親しみがありながらも、凛と哲学的な写真です。

 俳句はまず〈ノラ猫〉と〈家猫〉の比較をしています。〈衣食住〉の安定した〈家猫〉の幸せと、そうではない〈ノラ猫〉の対比に読者の思考は傾くかもしれません。
但し、そこへ「天高し」があることによって、読者へ想像と選択の広がりを与えています。「天高し」は秋の季語で晴れた日の澄んだ空です。

  天高し雲行く方に我も行く  高浜虚子 ※表記に媒体の差あり

 虚子の有名な句ですが、風来坊のように、生き様がポジティブに捉えられていて、心が軽くなります。〈ノラ猫〉についても、自由であることの素晴らしさが強調され、全体を読み終えてから、後追いで「ではどちらが幸せか」という問いを読者に投げかけてきます。
ここで「差別」という言葉が響いてきます。「区別」など同義語は幾つかありますが、「差別」であることに、作者の批判性が押し出されているのです。
 〈家猫〉への愛情がありながらも、〈ノラ猫〉を自由に想うこと。ここで詠まれている「差別」というものは、世間一般の猫に対する偏見というよりは、自由を奪う者=〈猫を飼う私(わたくし)〉へも向けられているのかもしれません。

 写真に向き返ってみると、「空高し」が深く写真に反映され、ノラ猫の半生や人生観までも彷彿とさせます。写真と俳句の双方に意味的な強度を与えている作品と言えるでしょう。

 森村先生の俳句写真を辿ってゆくと、当初は描写的であったところから、最近では哲学・教訓的な作品を多作なさっているようです。こうした、作歌のテーマ性の変遷というのも、ポイントとして押さえておきたいところです。

     *

 写真家の中谷吉隆先生、小説家の森村誠一先生の作品の構図は、前出の通り、中谷先生は遠景と近景で場面の広がりを担保する作り方、森村先生はひとつの場面の奥底に物語や哲学・教訓の手掛かりを俳句に託す作り方と、そのように読みました。皆さまは如何でしょうか。

 ■〈フォト俳句〉いざ、作るとなると?

 では、勇気をだしてひとつ作ってみようと思うとき、幾つかの疑問点が湧いてきます。
 まずは季語に関してです。仮に「寒梅」の写真があって、もしタイトルをつけるだけなのであれば「寒梅」でもよいのでしょうが、俳句の厳格なセオリーを守るのであれば、俳句側に「寒梅」を入れると、写真と意味が重複してしまうことになります。作中での〈つきすぎ〉も発生してきます。

 そういった意味では「熱燗」×「雪景色」も季語重複ということになるのでしょうけれども、それがどこらへんの〈塩梅〉まで許されるのかを感覚的に捉えてゆくのにはある程度の経験値が必要そうです。

 それから陥りやすい過ちとして、俳句がただのキャプション(写真説明)になってしまうこと、また、俳句が独りよがり過ぎて、写真と意味の接続がかけ離れてしまうこと。写真に多くのものが写り込み過ぎて、世界観を壊してしまうこと。などなど、技術的にはかなり注意が必要そうです。入口は広く、奥が深いとも言えますね。

「信濃毎日新聞」の「フォト×俳句」に「実践講座ワイド」という投稿作品の解説が載っていて、タイトル通り実践的でとても有用です。こちらを読んでいると、写真の空の色ひとつで、物語が大きく転換することや、加工しないまでも、狙って場面や色彩を選び、撮ってゆくことも必要なのだということが分かってきます。
例えば短歌を書くときに、現実をただ書くのではなく、選ばれた現実を魅せるという写実的表現が技術なのであれば、また〈フォト俳句〉の写真もそうしたものなのだろうと考えさせられます。

     *

 最近まで子規・漱石生誕150年記念と冠して「国際写真俳句コンテスト」の募集がされていたようです。それ以外にもコンテストの類は多くあり盛り上がりをみせています。今後、益々作家の層は厚くなるのではないかと予想しています。
 詩歌に限りませんが、ジャンルは新旧に関わらず、追求し昇華する人がいれば、長く愛されてゆくものだと思うところです。


  ○参考にさせて頂いたサイト
   「フォト×俳句」サイト(信濃毎日新聞)
   http://www.shinmai.co.jp/photohaiku/
   「写真俳句連絡協議会」サイト
   http://shashin-haiku.org/
   「森村誠一公式」サイト
   http://morimuraseiichi.com/
   「中谷吉隆 極楽のアート フォト俳句の世界」サイト
   http://nakatani-photohaiku.com/
   「国際写真俳句コンテスト」
   http://matsuyamahaiku.jp/contest/
  ※著作権・許可等の関係で作品への直リンクは貼っておりません。

※引用中、丸括弧はルビ。 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

俳句評 ミニトマトの中の肺の月 カニエ・ナハ

2017年01月08日 | 日記
 北大路翼さんの『天使の涎』を読んでいて、作風は違うけれども、俳優の渥美清さんやおなじく俳優の成田三樹夫さんの俳句のことを思いだして、私は以前この詩客の俳句時評に渥美さんと成田さんの俳句について書いたのですが、それを読み返してみると、俳人と俳優がおなじ「俳」の字であるのにはなにかワケがありそうだ、みたいなことが書かれていて、そのときはそれ以上つっこんでみていなかったのだけど、いまあらためて、「俳」という漢字を、私のしごと机に常備されている白川静漢字辞典でしらべてみると、まず、「非に排(おす)・徘(さまよう)の音がある。」とあり、「排」の「(おす)」は「押す」か「圧す」かな、でも『天使の涎』のあとがきをいまさっき読んだ私には「押忍」と変換されて、徘(さまよう)は、新宿歌舞伎町界隈を夜ごと徘徊されているらしい北大路さんにふさわしい、ああそうか、俳諧は徘徊なんですね、白川静漢字辞典のつづきを読んでいくと、「(…)それで二人並んで戯れ演じることを俳といい、「たわむれる、たわむれ、おどけ」の意味に用いる。滑稽な動作をして舞い歌うわざおぎ(役者)を俳優という。滑稽を主とする俳諧連歌の第一句(発句)が独立し、五・七・五の十七音節からなる短詩が俳句である。」とあり、さいごのところで俳句が短詩であることにもいまさらながらあらためてそうか、とかおもってしまったのだけど、そうか、もともとの「俳」の字の語源をたどっていくと、笑わせることができてこその俳優で、言葉とたわむれ、おどけるひとが俳人なのかもしれません、そう思うと、北大路さんのこの句集は一見異端のように見せてじつはとても句集らしい句集、ど真ん中の句集なのかもしれなくて、この文章の冒頭で私は渥美清さんや成田三樹夫さんの俳句を思い出したと書きましたけれど、映画「男はつらいよ」とか「仁義なき戦い」シリーズって、私のもっとも好きな日本映画ですけれど、アウトロー、Wikipediaを見ると、北大路さんが俳句をはじめたきっかけが山頭火と書いてありますけれど、渥美さんは山頭火や放哉に憧れて俳句をされていた、山頭火を演じる話もあったらしい、山頭火や放哉もまさにアウトローですよね、寅さんも仁義なき戦いのやくざたちも、そんなアウトローたちのための詩型としての俳句、という言葉ないし系譜が浮かび上がりました、なぜ短歌じゃなくて俳句なのか、ひとつには俳優は後姿で語るとかいいますけれど、短歌だと背中でなくて言葉で語りすぎてしまうのかもしれません、また俳優は短命じゃこまる、映画にしろ舞台にしろロングランしてもらわないと、にしても、北大路さんの句集の、一頁のうちにぎっしりと句のつまったレイアウトは、いまの句集の常識にけんかを売るみたいのもあるとおもうけれど、この情報量の多さ、深作欣二監督「仁義なき戦い」シリーズの、画面いっぱいに顔顔顔がひしめき、せりふとせりふとせりふが飛び交い、それらがめくるめく速度で流れていく、あの圧倒的な情報量の多さを思い出しました、この量・密度でなければ出すことのできないグルーヴがありますよね、この句集を読む人それぞれが好きな句なり刺さった句なりを十句なり三十句なり挙げていったとして、それらはなかなかかぶらないのではないか、おなじひとが選んでも、その日の気分とか体調で、ずいぶん変わってきそう、そういった意味でも、「男はつらいよ」や「仁義なき戦い」シリーズがそうであるように、これは何回もリピートをうながすタイプの句集、くりかえし読んでやっとその真価が見えてきそうな句集で、句集のなかのもうひとつの歌舞伎町のようなマチを夜ごとめくるめく徘徊すればいい、とりあえず、今回私が読んで気に入った句を、本のまんなかへんから(付箋を貼ることを途中からはじめた、というのもあって)、てきとうにピックアップしてみます、「失神をするとき白い曼珠沙華」これは性交のときのことをいってるのかな、そうおもってよむとマンジュシャゲにしろヒガンバナにしろ、妙にエロティックな花に見えて(聞こえて)きます、「満月は丸ではないと告げ眠る」そのあとどんな夢をみるのか、「日本の最後の景色として芒」この国がやがて亡びて芒だけがのこっているというこのリアリティ、「ストローのとんがつてゐる方が冬」つららみたいなストローですね、「枯れ芝に人敷き詰めて待つ来世」やっぱり亡んでしまったんだ日本、「シチュー煮る雪を還つてゆく人に」このひとは来世へと還るのか、「正月は人がクラゲに近づく日」水母なのか海月なのか、ちなみに私の祖父母の家は海の近くにありました、「瞬間を重ねて時間雪しんしん」雪は砂時計の砂のように時間そのもののように降り注ぐようにみえますね、「春の日を背中に受けてカプチーノ」春の日がカプチーノそのものみたいに見えますね、「悩むよりサボらう風が気持ちいい」これ座右の銘にしたいです、「死んだひとと一緒に暮らす金魚鉢」崖の上のポニョって映画、ひと言でいうとこういう話だった気がします、「かたちあるものかも知れず噴水は」このさだまりそうでさだまらない感じがまさに噴水のかたちをいいあててるとおもいます、「ミニトマトの小さくあらうとする力」そうか、だからミニトマトって大きいトマトよりもエネルギーが充満しているように見えて、北大路さんの句集も、ちいさな本のなかに2000句もの俳句をぎゅっと凝縮した、外側からおしこめる力(おす=排)と内側からおしだす力がぶつかりあって、ものすごいエネルギーをたたえているのだと思いました、はい、押忍。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

俳句評 句集を読む3 小峰慎也

2016年11月22日 | 日記
 石田波郷の句集『雨覆』を読んでいる。
 5句目。
 「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」。これには、「戦終りければ」と前書き(というのでいいの?)がついている。切れる場所ということについて。「ニコライの鐘の愉しき」で切れて、「落葉かな」と考えるとする。とする、というよりたぶんそこで切れる。それは、これが俳句であるということがわかっているから、なのだろうか。というか、「切れる」ということがある、というルールの把握があって、はじめて、ここで切れるのかな?と思うことができ、切れている、ということがわかってはじめて、二つのものが並べおかれて、何らかの力関係が期待されている、ということがわかるのでは、と、いまあらためて思った。
 この句集を読むのに先立って、俳句入門書を読んだときに、「切れ」ということを、しつこいくらいに強調されてはじめて、切れていることを意識することが自分の読み方の中にふくまれた、と、いまあらためて感じた。というのも、俳句というのは、見た目切れていないし、教科書や何かで、「切れ字」だとかなんとかいっても、その当時ではただの知識で、少なくともぼくには、読むときに「わかった」ということをともなって把握されるものではなかったので、はっきりいえば、切れているものをつながっているように意味をとろうとして「?」になっていたわけである。短歌にもそれがある。短歌の場合には、特に、平安時代とかなんでもいいが、ともかく昔のやつには、掛詞があり、一つのことばがそのままで、上の部分の文の一部になり、かつ下の部分の文の一部になるというか、どこで切れるかをわからなくさせる技術が使われているのが普通なのだ。短歌に対しては、切れとかそういうことばを使わないのだろうが、掛詞、縁語、枕詞といった、教科書的には決まり文句として、くりかえしおぼえさせられる「術語」が、短歌の意味を把握するときに、どのように短歌の構造を決めているのか、どう「わかった」に結びつくのか、ということを、わかるように誰もいってくれなかった。いまでもわかっていない。
 「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」。これ、ほんとうに「愉しき」のあとで切れている、と思っていいのかどうか。「愉し」なら切れているといっていいが、「愉しき」だと、連体形ですか?「落葉」にかかっているとしてもおかしくはない。たぶん常識的にはすでに決まっているのだろうけど、つながっているとして読んだ場合、「鐘の」「落葉」ということになり、一般的な意味としては、「」に「」はないので、「おぎなう」か、そのまま読むしかない。おぎなったものを読解として出すには、それらしさ、ある程度の一般的な了解をえられる、たしからしさが必要になる。思いつきでいってみると、鐘に葉っぱがはりついていてそれが落ちていっている状態。とか。鐘の音を「落葉」という比喩でいったもの。とか。想像すればいろいろあるのだろうけど、その幅を放置するのがいいのか、ある程度、こうだといってしまうのがいいのか、わからない。そもそも前提としている、ここで切れていないということが「違って」いたらその幅も成りたたないということになる。それに、ここで「おぎなう」といっているものが、現実世界にありうること的なものを前提としてしまっていることに、ぼく自身窮屈なものを感じるし、無理な設定のようにも感じる。これは、こういうことなのだ、と、そのようにはっきりたしからしくいえるところについては、いったほうがいいと思うのだが、そうでない不確定な部分にまで、現実との照合みたいなものを解答にする読み方は変だろう。
 「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」を、切れておらず、かつそのまま読むという場合、「ニコライの鐘の愉しき落葉」ということを認める、ということになる。思考はほぼ停止していて、それを「あり」とする読み方だ。意味がわかる、という「レベル」を変更することになる。「理解」はしていないが、「そこ」でいい。「ニコライの鐘の愉しき落葉」を、ただ、そのままの意味としてとらえる。これ以上敷衍したら「変わって」しまうので、それをやらないという読み方だ。これを認めるかどうかでいろいろ変わってくる。何が何でも「理解」しないと気がすまないという人にとっては、気持ちの悪いことだろう。思考停止のそのまま読みだ。
 この、そのまま読みは、別の角度からもう少しいうことができるようなものなのだろうか。いまこの句が、そのまま読みを求めるものである確率は低い(先にいったように、「切れ」がある確率のほうが高い気がする)ので、その方向での押し切り説明も、言を弄していることになるかもしれないが、一応考えると、1)この作品がどのようなものなのか、いいかたをかえると、どのような意図で書かれたものなのか(というと誤解をまねきそうなのだが)、を、ある程度のたしからしさのなかで推理、説明する、ということが一つ考えられる。ここでいうのは、あくまでも、そのまま読みのための、発信者のやっていることの推理であり、作者が思っていることとは違うものだ。と、仮にその可能性を設定してみたが、この句にそのようなメタ説明のようなものがふさわしいだろうか。そちらに踏みきるには、あきらかなサインがなくてはならない。
 2)では、そのまま受け取ったときの「感じ」を、もう少しだけいいかえることはできるのだろうか。というか意味はあるのだろうか。ほぼ同語反復的に、「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」を浮き立たせるということである。「ニコライの鐘の愉しき落葉」ということは、「」の連続でつながれていながら、「ニコライ」から「落葉」にいたったときに、一つの静止した何かを示しているような感じがしない。展開、というのとは違うが、「ニコライ」→「」→「愉しき」→「落葉」というように、移動するのが認められ、その動きそのものが、了解ではなく、「愉し」いのだ、と一応、いっておく。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加