「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 職業詠ルネッサンス 〜矢野玲奈句集『森を離れて』を中心に〜 田村 元

2016年01月31日 | 日記
 2015年の夏に刊行された矢野玲奈の第一句集『森を離れて』(角川書店)には、職業詠が少なからず登場する。

 辞令待つ人の背中や夏の雲
 短夜の送別会は焼肉屋


 一句目は、辞令の交付を待つ人の背中と、その向こうの窓から見える夏の雲を切り取っている。「夏の雲」は、異動後の新たな職場や仕事への期待や不安の象徴だろうか。二句目は「焼肉屋」が効いている。送別会に集まったメンバーの親しい距離感が伝わってくるし、「短夜の送別会」という言葉が伝える別れのさみしさを、くるっと反転させる面白さがある。

 営業の汗ひくまでの立話
 得意先回りいつしか探梅に


 営業の現場を詠んだこんな句もある。真夏の営業先での立話、得意先回りのあちこちで見つけた梅の花。仕事の上でのささいな出会いや出来事を、衒いなく句に詠み込んでいる。

 ガンダムの並ぶ夜業の机かな
 百歩ほど移る辞令や花の雨


 残業をする同僚の机に、ガンダムが並んでいる。職場という〈公〉の空間に顔を出した、働く人の〈私〉の側面をつかんだ句だ。「百歩ほど移る辞令」とは、同じビルの同じフロア内での異動を言っているのだろう。周囲の環境に大きな変化をもたらさない辞令と、「花の雨」が暗示している窓の外の季節の移り変わりとの対比が鮮やかである。

 『森を離れて』の職業詠は、会社勤めの折々を読んだものだが、労働の悲壮感のようなものはなく、総じて明るい。「短夜の送別会」、「立話」、「ガンダム」などの句からは、他者への信頼感のようなものも伝わってくる。

 春の海渡るものみな映しをり
 亀鳴くや雨美しき交差点
 江ノ電の一駅分の時雨かな
 増上寺裏で十年氷売
 離れれば膨らむソファー梅雨曇


 職業詠以外から引いた。渡るもの全てを映す春の海、雨の交差点の幻想的な美しさ、江ノ電の線路をさっと通り過ぎる雨、増上寺の裏で営む氷屋の十年間、そして、凹んでもやがてもとに戻っていくソファー。矢野の句の背景にあるのは、世界への違和感ではなく、肯定感なのではないだろうか。そういう意味では、先に引いた職業詠は、矢野の特徴をよく表していると言える。『森を離れて』は優れた職業詠の句集として記憶されるべきだろう。

 一方の短歌の世界でも、2015年は職業詠が注目を集めた年であった。

 オフィスのデスクの島の突堤で海に背を向け課長のおれは ユキノ進「中本さん」
 ストラップの色で身分が分けられて中本さんは派遣のみどり 同

 「短歌」2015年11月号に、角川短歌賞の佳作として掲載されたユキノ進の作品は、矢野と同じく会社勤めを詠んだ職業詠である。管理職として荒波に背を向ける「おれ」、正社員と派遣社員との立場の違いなど、矢野とは対称的に、職場に潜む矛盾や違和感をベースにした歌だ。矢野の俳句と比べて読んでみると、作者の個性だけでなく、俳句と短歌というジャンルの違いが、現実へのアプローチの仕方の違いに影響しているようにも思えてくる。

 櫛つかふ腕が痛めり圧(お)しつづけし心臓すでになきこの夜を 小原奈実「みぞれ」
 血を運ぶエレベーターに血を握る一人のようで二人のようで 北山あさひ「秋とALIVE」
 プロポーズ一日五回いただいた診察室にこぼす目薬 田丸まひる「かなしみは咀嚼できるのとか、知らない」
 さっきから泣き続けている母親がもう曼珠沙華にしか見えない 龍翔「ひかりの庭」

 2015年11月発行の「短歌ホスピタル」から引いた。医療系出版社の編集者である山崎聡子、鯨井可菜子の二人が編集した雑誌で、医療の現場に身をおく歌人7人が寄稿している。医学生の小原奈実のように、学生の歌人もいるが、大学病院勤務の北山あさひ、精神科医の田丸まひる、臨床心理士の龍翔などが、職業詠に取り組んでいる。

 かつては短歌のジャンルの一つだった職業詠だが、近年の若手歌人は、あまり自らの職業を詠わない傾向にあった。そんな中で、ユキノの作品や「短歌ホスピタル」の発行は、ある種のルネッサンスを志向したものだと言える。俳句の世界の現状はよく知らないが、矢野玲奈句集『森を離れて』が、同じ2015年に刊行されたのも、単なる偶然とは思えない。

 守秘義務やら個人情報やら、職業を作品化する過程でのハードルは、どんどん高くなっている。しかしながら、兼業作歌がほとんどを占める俳人、歌人にとって、職業は生活を支えるためののっぴきならない現実でもある。この時代に、敢えて職業を詠むことを選択した作者たちに、静かなエールを送りたい。

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