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言葉や行為の解釈権をめぐる闘争が政治であり、裁判であるならば<君が代伴奏命令、上告棄却判決(前編)

2007-03-01 21:12:50 | Weblog

 柳沢問題もそうであったが、政治問題のほとんどは、ある言葉や行為の「意味」に関する権力闘争であるという側面を持っている。

 例えば、柳沢問題であれば、「産む機械と言っちゃなんだけど」という発言が、審議拒否をした3バカ野党+共産党にとっては「女性を機械に例えるのは、『女性差別』である」という「意味づけ」だったわけだし、首相の靖国神社参拝や、教育基本法改正問題は、サヨク連中にとっては「軍国主義の復活」という「意味づけ」だった。教科書問題が政治問題の一つとして扱われてきたのも、教科書がさまざまな現象の「意味」を規定し、「教科書にも載っているから」という論理でその意味を強制的に確定できるからである。まさに学校の教科書とは、恐るべき「権力装置」なのである。このことに、もっともっと多くの人に気づいてほしい。

 だから、意識的にせよ無意識的にせよ、問題が「ある言葉や行為の意味の解釈権」であると直感している人は、意味の問題を「えらい人がこう言っているから正しい」という論法で処理しようとする。例えば靖国問題も、「東大教授である高橋哲哉氏は首相の靖国参拝をこう批判しており、私は彼の考えが正しいと思うから、私は首相の靖国参拝には反対である」という論法で首相の靖国参拝を批判する。こういう発想の前提には、「意味の解釈のエキスパートは大学教授であり、日本の大学のトップは東大である。ゆえに、東大教授の発言は意味解釈の点では最も正しいはずだ」という、まぁおめでたいくらい単純なヒエラルキー的発想がある。

 そして、このような「意味の解釈の自動化プロセス」を最も頻繁に使ってきたのは、国旗・国歌問題に関してはとにかく「自由」を優先させてきたにもかかわらず、例えば靖国問題などではことあるごとに高橋哲哉に「識者の意見」とやらをうかがってきた朝日新聞なのである。「識者の意見」という名目で、「東大教授の意見は最も正しい」という学歴ヒエラルキー的思想をしつこく刷り込んできた朝日新聞には、少なくとも学歴社会や企業におけるヒエラルキー(上司の命令は守れという発想)を批判する資格はどこにもないと言うべきだろう。例えば以前、私がこういう記事を書いたのも、東大教授という肩書きにひるまずに、自分の頭で筋道立てて考えることの重要性を訴えたかったからである。

 

 

 さて、入学式・卒業式などにおける日の丸の掲揚や君が代の斉唱は、これまたサヨク的には「これを教職員に強制することは、思想・良心の自由を脅かすもの」と位置づけられており、全国で何と1000人レベルの教員が、現場での国旗・国歌の「強制」とやらに反抗する「自由」を求めて裁判を起こしている。昨年9月の東京地裁での「国旗・国歌で起立・斉唱強制は違憲」という判決が出たのも、こういう動きの結果の一つである(当ブログではここで記事にした。あらまあ、この都立高校教員による訴訟だけでも、原告は401人もいるのね…)。そして、この問題に関する初めての最高裁判決が、27日に出た。

 

君が代伴奏命令は合憲、教諭の上告棄却…最高裁初判断(読売新聞) - goo ニュース

 東京都日野市の市立小学校の入学式で、「君が代」のピアノ伴奏を拒否したことを理由に懲戒処分を受けた音楽科の女性教諭(53)が、「伴奏を指示した校長の職務命令は、思想・良心の自由を保障した憲法に違反する」として、都教育委員会に処分の取り消しを求めた訴訟の上告審判決が27日、最高裁第3小法廷であった。

 那須弘平裁判長は、職務命令を合憲と判断した上で、教諭の上告を棄却した。教諭の敗訴が確定した。

 入学式や卒業式の国旗掲揚や国歌斉唱を巡っては、起立や斉唱、ピアノ伴奏を拒否して処分された教職員ら延べ950人以上が、各地の教育委員会を相手取り、訴訟を起こしているが、一連の訴訟で、最高裁が判断を示したのは初めて。

 

判決要旨がなかなかネットに載っていなかったが、ここに発見(時事通信出版局 教育関連ニュースより)。

 【多数意見】上告人の教諭は「君が代がアジア侵略で果たした役割等の正確な歴史的事実を教えず、子どもの思想・良心の自由を実質的に保障する措置を取らずに歌わせるという人権侵害に加担することはできない」などの思想と良心を有すると主張する。しかし、ピアノ伴奏を求める職務命令が直ちに上告人の歴史観や世界観を否定すると認めることはできない。

 本件職務命令は、公立小学校の儀式的行事で広く行われ、上告人の小学校でも従前から入学式等で行われていた国歌斉唱でピアノ伴奏を命ずるもので、上告人に特定の思想を強制したり、禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白を強要するものでもなく、児童に一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない。

 憲法15条2項は「公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定めており、地方公務員も地方公共団体の住民全体の奉仕者としての地位を有する。上告人は法令等や職務上の命令に従わなければならない立場にある。

 小学校学習指導要領は「入学式や卒業式などでは国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導する」と定めている。ピアノ伴奏で国歌斉唱を行うことは規定の趣旨にかない、上告人の小学校では従来入学式等でピアノ伴奏で君が代斉唱が行われてきたことに照らしても職務命令は不合理といえず、上告人の思想・良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえない。

 【那須弘平裁判官の補足意見】上告人が心理的矛盾や精神的苦痛にさいなまれる事態が生じる可能性があることを前提に、これをなぜ甘受しなければならないのか述べる必要がある。

 入学式のピアノ伴奏は演奏者の内心の自由たる「思想および良心」に深くかかわる内面性を持つと同時に、入学式で参列者の国歌斉唱を補助し誘導する外部性を有する。このような両面性を持った行為が、思想・良心の自由を理由に学校行事という重要な教育活動の場から事実上排除されれば、学校教育の均質性や学校の秩序維持に深刻な問題を引き起こし、良質な教育活動の実現に影響を与えかねない。

 入学式の君が代斉唱について、学校は消極的な意見を有する人々の立場にも相応の配慮を怠るべきではないが、斉唱に積極的な意義を見いだす人々の立場も十分に尊重する必要がある。職務命令の拒否を許せば、子どもたちが国歌斉唱を通じ新たに始まる学年に向けて気持ちを引き締め、学習意欲を高める格好の機会を奪うことにもなり、結果的に集団活動を通じ修得すべき教育上の諸利益を害する。

 国家斉唱が組織として決定された後は、協力する義務を負うべきだ。職務命令はこの義務を明確に表明した措置で、違憲、違法とする理由は見いだし難い。

(後略)

 

 この判決に関する一般的なコメントは他のブログなどにゆずるとして(笑)、ここでは上告者にとって、この、

入学式において、国歌である君が代のピアノ伴奏を行うことを職務命令として命じられる

ことが、どのような意味を持っていたかに焦点を合わせると、こう書いてある。

>「君が代がアジア侵略で果たした役割等の正確な歴史的事実を教えず、子どもの思想・良心の自由を実質的に保障する措置を取らずに歌わせるという人権侵害に加担することはできない」などの思想と良心を有する

 あれ?「自分が音楽教師として君が代のピアノ伴奏を行うことが人権侵害である」という主張ではなく、「子どもに歌わせることが人権侵害である」という主張なのか。

 …君が代がアジア侵略で果たした役割などの正確な「歴史的事実」とやらを、音楽教師である自分が教えたければ、自分の担当時間にでも教えれば済む話であって、これが伴奏を拒否する理由になるとはどうしても思えない。この論点はにわかには理解不能である。

 …もしや、この命令が違憲であるという判決を強引に引き出すために、「私は学校の全クラスを担当しているわけではないから、私だけの努力では全クラスの生徒に君が代の『歴史的真実』とやらを教えることはできない。したがって、私は君が代の伴奏を引き受けることはできないことは『不可抗力』なのだ」などという論理を作ろうとしたのだろうか。だとしたら、この教師(まぁ上告サイドの弁護士だろうが)は頭が悪いことこの下ないな。自分が理想とする教育内容を物理的に実現できないからといって、それが命令に反対することの正当な根拠になると思っているのだから。

 (もしも私の邪推が正しいならば)この論理って、

私は英語をこういう教え方で教えたい。しかし、私は全クラスを担当できないから、私の理想とする英語教育法を全クラスで実践できない。だから、私は全クラスの生徒を対象とした定期テストの問題を作りたくない。これは「不可抗力」である。

と全く同じなのだがなぁ…。話を「英語のテスト」に置き換えるだけで、「こいつただのバカ?」としか思えないような論理を、上告側が振りかざしていることがわかる。

 

 しかし、話が「国旗・国歌の問題」となると、焦点がたちまち「思想・良心の自由」となり、多くの国民も、その「焦点の合わせ方」には疑問を持たなくなる。まったく、国旗・国歌問題、そしてそれをめぐる「解釈の慣例」は恐ろしいほどの「特別扱い」を受けてきたものである。

 

 この問題を、思想・良心の自由とからめるのは、いい加減にやめるべきだろう。重要なことは、この国旗・国歌が問題となるのは、国旗が掲揚されたり、国歌が斉唱されたりするのは、入学式・卒業式などの「儀式」においてであるという点だ。なんと、あの学習指導要領にも書かれている。

 

文部科学省 学習指導要領 中学校 社会 (学習指導要領における国旗、国歌の取扱い より)

〔公民的分野〕 3  内容の取扱い(4) ウ

(ウ) 「国家間の相互の主権の尊重と協力」との関連で、国旗及び国歌の意義並びにそれらを相互に尊重することが国際的な儀礼であることを理解させ、それらを尊重する態度を育てるよう配慮すること。

 

 しかも、「相互に」とまで書かれている。つまり、学習指導要領において、国旗や国歌を尊重せよと指導しているのは、

・各国に国旗や国歌があり、

・それらを相互に尊重することが国際的な儀礼として重要であり、

・日本の場合、それが君が代と日の丸であるから、儀礼の中では尊重せよ。

という範囲にすぎないのだ。同じく、学習指導要領には、「特別活動」のコーナーにもこう書かれている。

小学校 中学校 高等学校 特別活動(すべて同じ文言)

3   入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。 

 

 この項は独立している。したがって国語的には「その前の文」というものがないわけで、ゆえに「その意義」という言葉の意味は、直前部の「入学式や卒業式の意義」としか解釈できない。入学式や卒業式の意義については学習指導要領に説明がないが、「第4章 特別活動-第2 内容-C 学校行事」の中に

 学校行事においては,全校又は学年を単位として,学校生活に秩序と変化を与え,集団への所属感を深め,学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うこと。(小・中学)

 学校行事においては,全校若しくは学年又はそれらに準ずる集団を単位として,学校生活に秩序と変化を与え,集団への所属感を深め,学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うこと。 (高校) (1)  儀式的行事   学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。  

とある。ここから推測してみよう。

 儀式的行事に、学校生活に有意義な変化や折り目をつけることが重要で、なおかつ、入学式や卒業式が儀式的行事であるならば、儀礼において変化や折り目をつける行事の一つとして、国旗を掲揚し、国歌を斉唱することは「儀礼的に重要だ」ということになる。内心として日の丸や君が代に対してクソクラエと思っているのは自由である。まさにそれこそ「思想と良心の自由」であり、あくまでも儀式として全員で君が代を歌う。全員で歌うことが「儀式として」重要なのだ。学習指導要領をできるだけ冷静に解釈すると、このような結論にならざるを得ないのだが、このような解釈を、日本人のほとんどができていないというのは、知的水準が実に低いと言わざるを得ない。いや、言い過ぎたか。この問題があまりにも「思想と良心の自由を脅かすもの」という角度から、主に日教組系のバカ教師たちと朝日新聞を始めとする偏向マスゴミたちによって手あかで汚されてきたかということの証拠かもしれない。

  このような主張に対する定番の反論は「しかし、儀礼に国旗や国歌を入れなければならないという義務はどこにもない」というものである。一瞬でもそう思ったあなたに考えてほしいことは、「では、儀式に、どうしても入れなければならないものなどあるのか?」ということである。

 そもそも、入学式や卒業式自体が不要である。入学式があるからその学校に入学ができるというわけでもなければ、卒業式があるからその学校から卒業するわけでもない。入学式や卒業式に生徒が臨席する必要もなければ父母席を作る必要もない。生徒が整然と並んで座る必要もない。しゃべりたいヤツはしゃべればいいし、ケータイの電源を切る必要もない。みんな好きなように入学式や卒業式の中で過ごしていればよかろう。

 ところが、入学式・卒業式で日の丸・君が代をかたくなに拒絶する教師やバカサヨクどもは、

・入学式や卒業式は儀式なのだから必要。儀式なのだから全員に出席してほしい。

・入学式や卒業式は儀式なのだから整然と並んで座り、儀式なのだから静粛にしてほしい。儀式なのだからケータイも電源を切るべきである。

などの論法を平気でかざしながら、国旗掲揚・国歌斉唱については

・儀式だからと言って必要というわけではない。

という論法で平気で反対する。「少なくとも国歌を歌わないことを認めろ」と言う。それを「自由」という言葉で表現する。

 …ある事柄については「儀式だから必要だ」と言い、ある事柄については「儀式だからと言って必要というわけではない」と言う。こういう連中にとって、「儀式にこれは必要で、これは不要だ」という線引きはどこにあるのかね?       (苦笑)ぜひ、納得できるように説明してもらいたいものだ。

 

後編に続く-



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