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竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

三木松平家

2019年10月10日 | 十八松平家
令和元年10月10日(木)
お早うございます。

今日は、 十八松平家の「三木松平家」を紹介いたします。

<今までの投稿>
十八松平家・・・平成25年10月16日
竹谷松平家・・・平成25年10月26日
安祥松平家・・・平成25年11月16日
形原松平家・・・平成26年 1月 2日
大草松平家・・・平成26年 2月25日
五井松平家・・・平成26年 4月16日
深溝松平家・・・平成26年 9月30日
能見松平家・・・平成27年 7月 8日
長沢松平家・・・平成27年10月 2日
大給松平家・・・平成28年 3月29日
滝脇松平家・・・平成28年11月12日
福釜松平家・・・平成29年 4月12日
桜井松平家・・・平成29年 6月30日
東条松平家・・・平成29年10月17日
藤井松平家・・・平成30年 1月22日
岩津松平家・・・平成30年 8月17日・・・家系が断絶
西福釜松平家・・平成31年 1月10日・・・家系が断絶
鵜殿松平家・・・平成31年 6月11日・・・家系が断絶

三木松平家(みつぎまつだいらけ)は、三河国発祥の松平氏の庶流。十八松平の一つとされるが、鵜殿松平家と同様に不明な点が多く、その出自・存在事実は詳らかではない。

徳川家康の大叔父である、松平康孝が作った家柄であるとされるが、康孝ではなく、兄の信孝を三木松平家初代として扱う文献も多い。

松平 信孝(まつだいら のぶたか)は、戦国時代の武将。
三河国松平氏6代当主・松平信忠の子。
通称は与十郎。
械(合歓木)松平家初代当主。
三木松平家初代として扱う文献も多い。

兄・清康が家臣に殺害された(森山崩れ)後にその子松平広忠が家督を継ぐも、大叔父(信孝にとっては叔父)の松平信定によって岡崎城から追放された。
信孝は広忠を援助して帰城させ後見役となったが、次第に弟・康孝の旧領・三木を横領するなど権勢を振るうようになり、広忠や家臣達と対立して失脚。
その後、広忠の代理で駿府の今川義元に年賀の祝い述べに行っている間に、広忠の軍勢に居城・三木城を攻め取られた。
この事に不満を持ち今川義元に直訴したが退けられている。

信孝は尾張国の織田氏に寝返って山崎城に拠り、同じく織田方に寝返っていた上和田城の松平忠倫や上野城の酒井忠尚らと共に広忠と対峙した。
小豆坂の戦いの後、岡崎城を攻撃しようと出陣したが、耳取縄手で広忠軍の射た矢に当たって討ち死した。

破却前の岡崎城天守の古写真


岡崎城

以上が、三河松平氏とされ、庶家の十八家をさすといわれる(『国史大辞典』)。
また「三河十八松平」ともいう。
『改正三河後風土記』では「三州十八松平」と記載される。
具体的に三河松平氏のどの庶家が十八松平を指すかは書物によって異なる。
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鵜殿松平家

2019年06月11日 | 十八松平家
令和元年6月11日(火)
お早うございます。

今日は、鵜殿釜松平家を紹介いたします。
鵜殿釜松平家は、岩津松平家、西福釜松平家と同じく家系が断絶いたしました。
<今までの投稿>
十八松平家・・・平成25年10月16日
竹谷松平家・・・平成25年10月26日
安祥松平家・・・平成25年11月16日
形原松平家・・・平成26年 1月 2日
大草松平家・・・平成26年 2月25日
五井松平家・・・平成26年 4月16日
深溝松平家・・・平成26年 9月30日
能見松平家・・・平成27年 7月 8日
長沢松平家・・・平成27年10月 2日
大給松平家・・・平成28年 3月29日
滝脇松平家・・・平成28年11月12日
福釜松平家・・・平成29年 4月12日
桜井松平家・・・平成29年 6月30日
東条松平家・・・平成29年10月17日
藤井松平家・・・平成30年 1月22日
岩津松平家・・・平成30年 8月17日
西福釜松平家・・平成31年 1月10日

鵜殿松平家(うどのまつだいらけ)は、三河国発祥の松平氏の庶流。
十八松平の一つとされるが不明な点が多く、その出自・存在事実は詳らかではない。

松平氏宗家の第6代・松平信忠の子にして清康の弟にあたる松平康孝(十郎三郎)を鵜殿松平であるとする説が代表的であるが、別に五井松平家の第4代松平忠次(弥九郎・外記)の弟・信次の子孫が鵜殿氏を称したとする説がある。


<松平康孝>
天文12年正月(1543年2月)に三木松平家の松平信孝(蔵人佐)が岡崎松平家の画策によって追放処分を受けたが、その理由として岩津松平家遺領の押領にならび、信孝の弟でもある松平康孝の遺領を押領したことが挙げられている。
このことから康孝に継嗣が無く、康孝の跡式を兄・信孝が併合したと推測されている。
しかし、この康孝の遺領は三木の地であったとされ、兄・信孝の三木領所有はこの併合の時からとされている。
しかし、康孝は信孝以前に三木郷の領主ではあったが、彼の居城は同国浅井村(現・西尾市)にあったとされ、鵜殿を称する根拠は特に資料的に示された形跡が無いため、鵜殿松平家の存在には疑問があるとされる。
追放策により三木郷(当時・額田郡、現・岡崎市域)は宗家に没収され、天文17年4月(1548年5月)明大寺合戦(耳取縄手合戦)に前三木領主・信孝が戦死したため三木松平家も断絶し、康孝系の鵜殿松平家に関しては詳細が不明になっている。



<松平信次>
ところが上記と別に、五井松平家四代目の松平忠次(外記)の弟・信次(長左衛門)の子孫が外戚である鵜殿氏を称したとする説が存在する。
信次は反宗家の松平信孝と宗家広忠側の戦いとなった、天文16年9月28日(1547年11月10日)の渡理河原合戦に宗家側として兄の忠次が戦死したので、忠次の遺児・景忠を後見したと云う。
この子孫が鵜殿氏を称して五井家の家臣になったとする。
また五井松平家五代目の景忠は弟・正幸(新兵衛)にも五井家の家臣として鵜殿氏を名乗らせている。

<鵜殿氏との関係>
なお、五井松平家の第2代・松平元心の次男・忠定は深溝松平家初代となったが、五井家も深溝家もその根拠地はともに現在の蒲郡市域およびその近隣の地に所在しており、三河国宝飯郡西郡(にしごおり、蒲郡市に含まれる旧地名)一帯の国人領主にして、今川氏の家臣でもあった鵜殿氏(上郷・下郷・柏原等)支配地の近隣でもあった。
その鵜殿氏と松平氏には姻戚関係等の関連性が認められる(下記の略系図2 を参照のこと)。
すなわち、深溝松平忠定の孫・伊忠は上郷(神郷)城主・鵜殿長持の次女を室に迎えた。
また、下郷鵜殿氏(蒲形城主)の鵜殿長存の孫(または曾孫)にあたる鵜殿康孝(長信)は八郎三郎と称し、深溝の伊忠の次女を室に迎えている。
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西福釜松平家

2019年01月10日 | 十八松平家
平成31年1月10日(木)

今日は、西福釜松平家を紹介いたします。
<今までの投稿>
十八松平家・・・平成25年10月16日
竹谷松平家・・・平成25年10月26日
安祥松平家・・・平成25年11月16日
形原松平家・・・平成26年 1月 2日
大草松平家・・・平成26年 2月25日
五井松平家・・・平成26年 4月16日
深溝松平家・・・平成26年 9月30日
能見松平家・・・平成27年 7月 8日
長沢松平家・・・平成27年10月 2日
大給松平家・・・平成28年 3月29日
滝脇松平家・・・平成28年11月12日
福釜松平家・・・平成29年 4月12日
桜井松平家・・・平成29年 6月30日
東条松平家・・・平成29年10月17日
藤井松平家・・・平成30年1月22日
岩津松平家・・・平成30年 8月17日

西福釜松平家(にしふかままつだいらけ)は、松平親忠の子・親光を始祖とする松平氏の庶流。鴛鴨城主(現在の愛知県豊田市)だったことから、鴛鴨松平家(おしかもまつだいらけ)とも称される。

親光は親忠の子とされるが、一説に信光の子ともされる。
親光、親康、親久と続き、4代目の忠久の時に徳川家康の命令で西尾城主・酒井正親に属し、子孫は酒井氏の家老となる。

永禄6年(1563年)の三河一向一揆では親久・忠久父子は徳川軍の一員として奮戦し勝利に貢献する。
だがその2年後に親久が死去し、鴛鴨城は廃城となった。




 鴛鴨(おしかも)城址は近くに高速道路が通り、周り一体が畑や水田に囲まれた所にあります。
東名高速の側道沿いの田んぼの真ん中にある城跡は全国を探しても鴛鴨城址だけだそうです。
場所は愛知県豊田市鴛鴨町にあり、城跡の近くには東名高速と東名上郷サービスエリア、他に愛知環状鉄道の永覚駅(無人駅です)とトヨタ自動車上郷工場がある工業と交通の盛んな所です。
愛知環状鉄道、永覚駅から10~15分くらい東名高速の側道に向かっていくと、近くに「鴛鴨城址」と言う看板が目に入ります。

 鴛鴨の歴史は古く、縄文時代から集落がある地区です。
鴛鴨町の周辺には縄文から弥生時代にかけての遺跡や古墳が集中的に分布しています。
鴛鴨(当時は押鴨)の地が公文書に出たのは奈良時代であったそうです。
地名の由来は諸説様々ありまして、「持統天皇が鴛鴨の地を訪れた際に2羽の鴨を見て感動して名づけた」と言う説、「鴛や鴨が多く生息していた」とする説、「鴨部の居住」説などがあり、詳しくは判らないそうです。

 この地に城を築城した人は松平家3代目当主の松平信光で、築城年代は応仁二年頃(1468年)と言われています。
城域は1500坪位で、丘陵地にあって水田や堀に囲まれた造りになっている、室町期によくある城郭であったそうです。
信光がこの地に城を築城した背景には、挙母(衣)一体に対する防衛拠点と補給中継点を築く目的があったと思われます。

信光は鴛鴨城を息子の親光に与えて守備させました。
ここで松平親光を祖とする鴛鴨松平家が分派しました。
鴛鴨城は、初代親光→二代親康→三代親久→四代忠久と続きました。

忠久の時代に起きた三河一向一揆の騒乱の時には、一揆側の上野上村城の酒井将監忠尚に対して、徳川家康は鴛鴨城、隣松寺を拠点に一揆勢と戦闘し、勝利を得ています。
その時には鴛鴨城はとても重要な拠点として機能し、鴛鴨松平家の奮戦が勝利を導いたと言っても過言ではありません。

一揆平定後は鴛鴨城は西尾城配下となり廃城となりました。
鴛鴨松平家の子孫は大名にならず、姫路藩の重臣や西尾藩の重臣になったそうです。

 その後、碧海郡鴛鴨村は岡崎藩(愛知県岡崎市)、重原藩(愛知県知立市、刈谷市)、大多喜藩(千葉県)、菊間藩(千葉県)、沼津藩(静岡県沼津市)、幕府領などの給地となりました。
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岩津松平家

2018年08月17日 | 十八松平家
平成30年8月17日(金)
お早うございます。

今日は、岩津松平家 (いわつまつだいらけ)を紹介いたします。
<今までの投稿>
十八松平家・・・平成25年10月16日
竹谷松平家・・・平成25年10月26日
安祥松平家・・・平成25年11月16日
形原松平家・・・平成26年 1月 2日
大草松平家・・・平成26年 2月25日
五井松平家・・・平成26年 4月16日
深溝松平家・・・平成26年 9月30日
能見松平家・・・平成27年 7月 8日
長沢松平家・・・平成27年10月 2日
大給松平家・・・平成28年 3月29日
滝脇松平家・・・平成28年11月12日
福釜松平家・・・平成29年 4月12日
桜井松平家・・・平成29年 6月30日
東条松平家・・・平成29年10月17日
藤井松平家・・・平成30年1月22日

岩津松平家 - 安祥松平親忠の長男松平親長の流れ。三河額田郡岩津(愛知県岡崎市岩津町)を領した。

岩津松平家 (いわつまつだいらけ)とは、室町時代(15世紀)に西三河地方に分出した松平氏の一流。
古文書における関係人物の表記で、岩津は岩戸とも表記されている。
三河松平氏の宗家2代目当主とされる松平泰親が岩津城(岡崎市岩津町東山(城山))を本拠にしたのに始まる。
その後、信光・親長と継承されたが、今川氏の岩津城攻撃を受けて衰退し、松平氏庶流の安城松平家が岩津家に代わって惣領家化した。
その後、岡崎の宗家第八代(安城家の五代目)・広忠の代には岩津家の跡が絶え、三木松平家とされる信孝によって遺領が押領されたという。



岩津城は岡崎市北部、平針街道と足助街道が合流する岩津の町の東、 標高74mの小高い山にあります。
この小高い山のすぐ西側を矢作川が流れ、 要所に築かれた山城です。


岩津城縄張図
愛知県中世城館跡調査報告書Ⅱ(西三河地区)より 原図:奥田 敏春 氏
この縄張りからは戦国時代後期とも推測され、1585年(天正13年)頃に家康と秀吉の間で緊張が高まった際に整備された可能性もあるそうです。
(岡崎市史より)
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藤井松平家

2018年01月22日 | 十八松平家
平成30年1月22日(月)
お早うございます。
今朝は急に寒さが戻ってきました。寒暖の差が激しい今日この頃体調を崩さないようにご自愛ください。

今日は、藤井松平家(ふじいまつだいらけ)を紹介いたします。
<今までの投稿>
十八松平家・・・平成25年10月16日
竹谷松平家・・・平成25年10月26日
安祥松平家・・・平成25年11月16日
形原松平家・・・平成26年 1月 2日
大草松平家・・・平成26年 2月25日
五井松平家・・・平成26年 4月16日
深溝松平家・・・平成26年 9月30日
能見松平家・・・平成27年 7月 8日
長沢松平家・・・平成27年10月 2日
大給松平家・・・平成28年 3月29日
滝脇松平家・・・平成28年11月12日
福釜松平家・・・平成29年 4月12日
桜井松平家・・・平成29年 6月30日
東条松平家・・・平成29年10月17日

藤井松平家(ふじいまつだいらけ)は、松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。十八松平のひとつ。

三河国碧海郡藤井(現在の愛知県安城市藤井町)を領したことから藤井松平家と称する。2代・松平信一は小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いなどで活躍した。徳川家康からの信頼も厚く、慶長6年(1601年)には大名に列し、常陸国新治郡土浦藩3万5千石を領した。


<松平山城守家>
3代・松平信吉は安房守(のちに伊豆守)だったが、4代・忠国から山城守を世襲した。忠国と子・信之の2代で、上野国高崎藩5万石、丹波国篠山藩5万石、播磨国明石藩7万石、大和国郡山藩12万石、下総国古河藩9万石と各地を移封された。
しかし、6代目の松平忠之が乱心して改易される。その後、忠之の同母弟で大和国興留藩主だった松平信通に家督相続が認められた。備中国庭瀬藩3万石を経て出羽国上山藩3万石に移封となり、改めて山城守に叙任された。
子孫は、上山藩に定着し、幕末まで存続するが、奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍に抵抗、のちに恭順した。

<松平伊賀守家>
松平信吉の次男・忠晴を初代とする傍系。こちらは伊賀守を世襲し、駿河国田中藩2万5千石、遠江国掛川藩2万5千石、丹波国亀山藩3万8千石、武蔵国岩槻藩4万8千石、但馬国出石藩4万8千石を経て信濃国上田藩5万8千石で定着し、幕末まで存続した。老中を輩出している。
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