サルバトール・だれ?  by 澁澤寅彦

笑いは地球を救う。
妻Rは足下をすくう

1999/9 Part 3

1999-09-30 13:19:24 | Weblog
茶色い靴
at 1999 09/22 08:17 編集

5年間のイタリアのんびり生活の後、イギリス勤務となって、まず驚いたことが3つあった。

一つは、人の歩くスピード。

勤務初日の朝、地下鉄の駅の構内で後ろからぶつかられたのだが、気がついたら、周りの人の半分くらいのスピードで歩いていた。(3月に日本に帰ったときに、新宿駅の構内で通勤客が走っていたので、ロンドンはそれでもゆっくりだと痛感した)
住民票の登録に1年もかかる国から、いきなり日本に帰ったら適合出来なかったであろう。リハビリのためにも、ロンドンに来れたのは正解だ。

二つ目は、エレベーターのドアの閉まる早さ。

着任後一ヶ月は、会社のビルのエレベーターのドアにしょっちゅう挟まれていた。

三つ目は靴の色。

イタリアはその強烈な太陽と赤茶色の街並みに、茶色の靴が良く合う。ロンドンに赴任したときは、持ってきた靴は全部茶色の靴だった。(日本でいう焦げ茶の靴ではなく、むしろ黄色に近い極めて明るい茶色)
ところが、気がつくとシティーではだれも茶色の靴を履いていない。
会社の同僚(イギリス人)とトイレで一緒になったときの会話
「素敵な茶色の靴だね」
「ありがとう、ところでどうして君たちはシティーで茶色の靴を履かないのだい?」
「茶色の靴を履くのは、田舎ものだけだとシティーでは言われているからだよ」
「それを言った上でも、まだ僕の靴は素敵だと言うかい?」
「.....」

周りの人がみんな黒い靴を履いているから茶色の靴が合わないのではない。一人で歩いていても、どこかしら暗い街並みに茶色の明るい靴が合わないのだ。

仕事の関係で東京からのお客様を接待する機会があって、あわてて黒い靴を買いに行った。(白いシャツも買いに行った)

今でも頑固にほとんど毎日茶色い靴を履いている。イタリアではあまり雨が降らないので、靴底が防水加工のされていない皮底。雨の日にはくと駄目になってしまうのが残念。

それでも、天気のいい日は、必ず茶色い靴。ひょっとしてまたシティーが爆弾で狙われて、僕の頭が吹き飛ばされても、きっと家族は茶色い靴で僕を見つけてくれるだろう。




美智子様
at 1999 09/23 07:06 編集

93年だったか、94年だったか、天皇皇后両陛下がイタリアを訪問されたことがあった。たまたま母親と叔母が来ており、妻との3人で、ホテル前で歓迎することとなった。(私は仕事で行けなかった)

ホテル(プリンチペ・ディ・サボイヤだったと思う)に到着され、美智子様が集まった人にお声をかけ始めた。

どういう訳か、うちの母親の前で立ち止まられた。
美智子様「こちらにお住まいですか?」
うちの母「いいえ、昨日来たところです」

さぞや興醒めなさったことだろう。

しばらくして、「最後の晩餐」の壁画を見にお出かけになる時間となった。車の中から、天皇陛下がこちらに手を振っていられる。美智子様はというと、どうしたことか反対側を見ていらっしゃる。なんと、そこにはうちの母親が、自分の顔を指さして
「福井から来ました。福井、福井。」

うちの妻は、恥ずかしくて他人の振りをして人混みに隠れた。

何日かして、その時の写真ができあがった。にこやかに手を振っていらっしゃる天皇・皇后両陛下。ところがそこには、写っているはずの母親の姿が無い。

よーく探してみると、なんと、直角お辞儀をしていたため、母親の背中しか写っていなかった。

ひょっとして美智子様はこのページを見ていらっしゃるでしょうか。(見ていらっしゃらないでしょうね)
皇室関係の方で、見ていらっしゃる方がいらっしゃいましたら、お伝え下さい。

ミラノで「福井、福井」と叫んでいた私の母親は、この3月にクモ膜下出血で倒れましたが、今は元気になりリハビリに励んでおります。






モーニングサービス
at 1999 09/24 08:54 編集

学校の近くの建物に、看板が出ている。
「ウェルカム、モーニングサービス、日曜日10時半」

「へえー、ロンドンでも喫茶店でモーニングサービスやるのか」

ところがどこにも喫茶店らしきものがない。それどころか、その建物は教会だ。

教会での礼拝の集まりを英語で「サービス」と呼ぶことに気づくまでに、30秒かかった。




うりふたつ、うりみっつ
at 1999 09/24 09:06 編集

うちの母親と、僕と、妹は顔が似ているらしい。
少なくとも僕は今までそう思ったことがなかった。

うちの母は、ライザミネリに似ているし、妹はウッピーゴールドバーグ(Sister Actに出た黒人女優)に似ている。僕はどう見ても、トムクルーズだ。(子供の頃は、菅原洋一に似ていた)
うちの妻は、最初にこの3人をまとめて見たときに、笑いをこらえるのが大変だったらしい。

3月に母が倒れたときに、田舎に帰ったが、僕の少年時代しか知らないはずの近所のおばあちゃんに、いきなり氏素性を当てられてしまったのは、やっぱり似ているのだろうか。




仕事は楽しく
at 1999 09/26 01:03 編集

新入社員研修で、人事部の人に言われた。

「君たちは支店に配属されるが、どうしたって最初は、仕事が出来るわけがない。君たちの最初の仕事は、支店の雰囲気を盛り上げることだ。支店を明るくして、みんなが気持ちよく仕事が出来るようにすることだ。」

田舎からぽっと出の僕は、東京での4年間の大学生活を経ても、まだ純粋だった。

「そうか、頑張って支店の雰囲気を盛り上げるぞ!!」

このスタンスは、入社15年目に入った今でも変わっていない。ミラノ支店の時もそうだった。イタリア人と日本人との板挟みになりながら、つたないイタリア語で、ギャグをかましていた。ロンドンでもそうだ。

このスタンスは、今ではすっかり身体の一部となっていることから、周りのみんなは、僕のことをただの「おちゃらけた」やつと思っているようだ。しかし、少年時代から、性格が暗いと言われ続け、未だに初対面の人とは、口が利けない僕は、これは意識して心がけていることである。

仕事が楽しくてしょうがないという恵まれた人は、そんなに多くはいないだろう。どうせやらなきゃ行けない仕事なら、少なくとも明るい職場環境で働きたいものだ。

今の会社で、僕のつまらないギャグにつられて、みんながギャグを言い始めた時期があった。「あのレベルのギャグなら、俺にも言えるぞ」と、安心したようだ。
一部の人からは、「僕のせいで、会社がつまらないギャグの嵐になっている」との苦情もいただいた。

前の社長は、極めてまじめな人だった。みんなの席にパソコンが入り始めたときも、ずっとご自分のワープロに向かって書類づくりをされていた。
日本の会社は未だにA4ではなく、B4、B5サイズの書類を基本としているところがある。前の社長も、かたくなにB4の紙を使って、書類づくりをされていた。
「B4の紙は、こちらではあまり使われていない」という話をみんなで社長の机を囲んで話していた瞬間、社長は「びよーん(B4)」

社長にまでギャグの嵐が及んだ瞬間だった。

ここ最近忙しくて、体力がかなり消耗していた。それでも頭は常に新しいギャグを考えようとしている。風邪で会社を休んだときもそうだった。

「体が弱っているんだからやめなさい」

妻にはあきれられた。





美智子様 その2
at 1999 09/25 21:54 編集

目撃していた妻によると、母親は、天皇皇后両陛下の車の中まで頭を入れて「福井、福井」と言っていたらしい。



無事到着
at 1999 09/25 22:12 編集

全日空202便は、定刻より30分くらい遅れて成田に無事到着。良かった良かった.
全日空が初めて国際線を飛ばした時の話。ロンドンに近づいたとき、管制塔から連絡が入った.ところが、パイロットは、管制塔が何を言っているかわからなかった.しょうがないので、後ろから少し遅れて飛んできていたJALに連絡をとって、通訳をお願いしたと言う事だ。(旅行代理店の人から聞いた昔話)

成田からの道はすごく混んでいて、リムジンバスで新宿まで2時間もかかった.後で分かったが、20分遅れで出発したバスに途中で追い抜かれていたらしい.不思議だ.

新宿西口につくと、「SUBARU」の電光掲示板が目に付く.「21世紀まで、あと464日」世界史でも習ったように、21世紀が始るのは、2001年からだ.日本の2000年問題対応が遅れているのは、21世紀までに対応すれば良いと思っているからか.




美智子様 その3
at 1999 09/26 08:51 編集

(訂正1)集まった人に声をかけ始めたという表現は誤りでした.声をかけていただいたのは、うちの母親だけだったそうです.これは、以下の理由によります.

1. ホテルのドアから、車まで、赤いじゅうたんがひかれており、みんなは、これをはさんで立っていたのですが、うちの母親は、「もうすぐ出ていらっしゃる、向こうのほうが良く見える」と、じゅうたんをどたどた横切って走って行って、一人目立っていた.
2. 他の人は、遠慮して、じゅうたんから3メートル離れて立っていたのですが、うちの母は一人でじゅうたんのすぐ端の所まで乗り出していた事から、美智子様が話かけられる唯一のポジションにいた.

(訂正2)うちの妻は、人ごみの中に隠れたとありますが、実際はホテルの守衛さんに、「あれは君のお母さんだろう.こっちのほうが写真が良く取れるよ」と言われて、また最前列まで引っ張り出されたそうです.




パスポートの話
at 1999 09/26 11:47 編集

去年パスポートを更新したときのことだ。10年間有効のパスポートにしようと思い、パスポート写真に全力を注ぐ事とした.(それまでのパスポートの写真は、シンガポールビジネスマン風の写真だった.)
まずは、美容院に行く.「パスポート写真を撮りますので、よろしく」と言ったものだから、いつものお兄さんも緊張してやってくれる.
美容院が無事に終わると、次に「証明写真すぐできます」のフィルム屋で、写真を取ってもらう.どうもアルバイトらしいお姉さんは、手つきが怪しい.やっぱり出来あがりはピンぼけ.おばさんに取りなおしてもらう.
出来あがりはまずまず.頭が大きいのを気にしているので、小さめに取れていて、満足.
次に隣りのゲームセンターに行くと、3分写真の機械があった。これは最新のタイプで、自分がどのように映っているかを画面で確認でき、満足の行くまで、何度も画面固定をやり直せるものだ.ついでだからと、こちらでも写真を取る.こちらは、ほとんど顔ばかりのように、アップの写真.「最初の写真があるから、まあいいか」
翌日.小さい顔の写真と大きい顔の写真と両方持って、領事館に向かう.髪もセットせず、ひげもそらずに出かける.
「写真をお持ちですか?」
「はい」
自信を持って、小さい顔の写真を出す。受付の女性は、不思議な形の定規を出してくる.
「ちょっと顔の部分が小さすぎますね」
「じゃあ、こちらはどうですか?」
どアップ写真を渡す.
「これは大きすぎますね.この建物の裏に写真屋がありますので、そちらで取ってきて頂けますか?」
とぼとぼと、写真屋に向かう.風が強くて、髪の毛はさらにぼさぼさになる.
結局不本意な犯罪者の写真が出来あがった.こいつとあと10年もつきあうことになるのか.




スネ毛の話
at 1999 09/30 16:56 編集

大学時代に、「ポパイ」だったか、「メンズクラブ」だったかで、夏に「毛深い男は嫌われる」特集をやっていた。
田舎からぽっと出の僕は、毛深くなかったにもかかわらず、「よし、ムダ毛処理してモテモテだ」と決意した.
吉祥寺の西友でエピル脱色クリームをこっそり買って、寮のシャワー室でスネ毛に塗った.
使用方法にしたがって念入りに塗って、3日もするときれいな脱色スネ毛になった。

プールサイドでは、人気者にはなりきれず、飲み会の席では、「外人の足」という隠し芸で笑いを取るしかなかった。

少し脱毛クリームが残ったので、こっそり髪の毛に塗った(茶髪のさきがけ)。わずかに茶色っぽくなって、なかなか良い感じ.それを見たバイト先のH君は、エピルですっかり茶髪にして、人気者になっていた.(橋本君、君の事だよ.)中途半端に終わった僕は、里帰りしたときに母親に気づかれて、「わからないと思ったかもしれないが、あんたの髪の毛の色は、おかあちゃんが一番良く知っている」と説教された.

秋になると、メラニン色素が大逆襲に入り、それまで生えていなかった毛穴からも毛が生えてきたばかりか、色も真っ黒の、硬い毛が生えてきた.
いまだに、上半身の毛は、脇の下も含めて少なく、薄く、スネ毛だけ濃い異様な生え方になっている.




うらら、うらら
at 1999 09/30 21:19 編集

うちの田舎では、自分の事を「うら」と言う事がある。男性が使う言葉で、複数形は「うらら」となる。(「ぼく」が「ぼくら」となるように)

「春のうららの隅田川」
「うらら、うらら、うらうらで、うらら、うらら、うらうらよ」

僕の生まれ育った今立(いまだて)町では、今、福祉バス「うらら」号が走っている。一日に何回も町内を走っており、老人が無料で利用できるようになっている。(このため、普通のバスは、一日に2本しか走っていない。)

うらら号の停留所は、「うららバス乗り場」と呼ばれている。
このうらら号がまた変わっている。全体がピンクで、ウサギの形をしており、しかも音楽を流しながら走っている。
バスの後ろには、次のような、標語(?)が書かれている。

むかしだって、いまだって、
これからも、いまだて

(ここが今立(いまだて)町だということがわかっていないと、この意味はわからない。)

ウサギ以外には無いのかと聞いたところ、「次はカメを予定していたらしいのだが、町長が選挙で代わったから、もうやらないのではないか。」とのことだった。

一生懸命に町おこしをしている福井県今立町。ピンクのウサギのバスを見に観光客が集まればうれしいのだが。

福井では、「花うらら」というお酒も発売されている。




虫が嫌い
at 1999 09/30 22:53 編集

うちの妻は、虫が嫌いだ。だから、僕の実家に行くときはいつも大変だ。
今回は、ハエは見かけなかったが、蚊はいっぱいいた(これが、都会の蚊より大きい)。家の外では、コオロギがうるさく、妻は明け方まで寝つけなかったようだ。(何匹か、家の中でも鳴いていた。)
蛾も何匹か迷い込んできたし、カエルが家の2階にいるのを見つけたときには、妻もすっかりあきれてしまった。
「昔は、家の中にムカデもいたし、ヘビもいたし、テンもいた。それを考えれば、カエルがいても決して驚く事ではない」と説明しても、東京育ちの彼女には、全然説得力がない。

都会と違って、住居と住居の合間に自然があるのではなく、自然の中にぽつんと家があるのであり、家の中に自然が入り込んでくるのを防ぐ事は出来ない。その上、僕の実家は、築後100年から、150年経過しており、福井地震でできたひび割れや、壁の隙間から、自然はどんどん入ってくる。冬には、朝起きると枕元に雪が積もっている事があったし、ストーブをがんがんに焚いても、室温が20度以上には決してならない。隙間のおかげで、灯油ストーブを使っていても、練炭・豆炭を使っていても、一酸化炭素中毒の恐れは、全く無い。

こんな生活をしてきたので、今でも、家に紛れ込んできた虫を見つけると、窓を開けて逃がしてやる。(蚊は殺します。ごめんなさい。)
自然の中に住まわしてもらっている自分には、自然は自分の家への侵入者ではない。われわれが、自然にとっての侵入者である。

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