サルバトール・だれ?  by 澁澤寅彦

笑いは地球を救う。
妻Rは足下をすくう

1999/9 Part 3

1999-09-30 13:19:24 | Weblog
茶色い靴
at 1999 09/22 08:17 編集

5年間のイタリアのんびり生活の後、イギリス勤務となって、まず驚いたことが3つあった。

一つは、人の歩くスピード。

勤務初日の朝、地下鉄の駅の構内で後ろからぶつかられたのだが、気がついたら、周りの人の半分くらいのスピードで歩いていた。(3月に日本に帰ったときに、新宿駅の構内で通勤客が走っていたので、ロンドンはそれでもゆっくりだと痛感した)
住民票の登録に1年もかかる国から、いきなり日本に帰ったら適合出来なかったであろう。リハビリのためにも、ロンドンに来れたのは正解だ。

二つ目は、エレベーターのドアの閉まる早さ。

着任後一ヶ月は、会社のビルのエレベーターのドアにしょっちゅう挟まれていた。

三つ目は靴の色。

イタリアはその強烈な太陽と赤茶色の街並みに、茶色の靴が良く合う。ロンドンに赴任したときは、持ってきた靴は全部茶色の靴だった。(日本でいう焦げ茶の靴ではなく、むしろ黄色に近い極めて明るい茶色)
ところが、気がつくとシティーではだれも茶色の靴を履いていない。
会社の同僚(イギリス人)とトイレで一緒になったときの会話
「素敵な茶色の靴だね」
「ありがとう、ところでどうして君たちはシティーで茶色の靴を履かないのだい?」
「茶色の靴を履くのは、田舎ものだけだとシティーでは言われているからだよ」
「それを言った上でも、まだ僕の靴は素敵だと言うかい?」
「.....」

周りの人がみんな黒い靴を履いているから茶色の靴が合わないのではない。一人で歩いていても、どこかしら暗い街並みに茶色の明るい靴が合わないのだ。

仕事の関係で東京からのお客様を接待する機会があって、あわてて黒い靴を買いに行った。(白いシャツも買いに行った)

今でも頑固にほとんど毎日茶色い靴を履いている。イタリアではあまり雨が降らないので、靴底が防水加工のされていない皮底。雨の日にはくと駄目になってしまうのが残念。

それでも、天気のいい日は、必ず茶色い靴。ひょっとしてまたシティーが爆弾で狙われて、僕の頭が吹き飛ばされても、きっと家族は茶色い靴で僕を見つけてくれるだろう。




美智子様
at 1999 09/23 07:06 編集

93年だったか、94年だったか、天皇皇后両陛下がイタリアを訪問されたことがあった。たまたま母親と叔母が来ており、妻との3人で、ホテル前で歓迎することとなった。(私は仕事で行けなかった)

ホテル(プリンチペ・ディ・サボイヤだったと思う)に到着され、美智子様が集まった人にお声をかけ始めた。

どういう訳か、うちの母親の前で立ち止まられた。
美智子様「こちらにお住まいですか?」
うちの母「いいえ、昨日来たところです」

さぞや興醒めなさったことだろう。

しばらくして、「最後の晩餐」の壁画を見にお出かけになる時間となった。車の中から、天皇陛下がこちらに手を振っていられる。美智子様はというと、どうしたことか反対側を見ていらっしゃる。なんと、そこにはうちの母親が、自分の顔を指さして
「福井から来ました。福井、福井。」

うちの妻は、恥ずかしくて他人の振りをして人混みに隠れた。

何日かして、その時の写真ができあがった。にこやかに手を振っていらっしゃる天皇・皇后両陛下。ところがそこには、写っているはずの母親の姿が無い。

よーく探してみると、なんと、直角お辞儀をしていたため、母親の背中しか写っていなかった。

ひょっとして美智子様はこのページを見ていらっしゃるでしょうか。(見ていらっしゃらないでしょうね)
皇室関係の方で、見ていらっしゃる方がいらっしゃいましたら、お伝え下さい。

ミラノで「福井、福井」と叫んでいた私の母親は、この3月にクモ膜下出血で倒れましたが、今は元気になりリハビリに励んでおります。






モーニングサービス
at 1999 09/24 08:54 編集

学校の近くの建物に、看板が出ている。
「ウェルカム、モーニングサービス、日曜日10時半」

「へえー、ロンドンでも喫茶店でモーニングサービスやるのか」

ところがどこにも喫茶店らしきものがない。それどころか、その建物は教会だ。

教会での礼拝の集まりを英語で「サービス」と呼ぶことに気づくまでに、30秒かかった。




うりふたつ、うりみっつ
at 1999 09/24 09:06 編集

うちの母親と、僕と、妹は顔が似ているらしい。
少なくとも僕は今までそう思ったことがなかった。

うちの母は、ライザミネリに似ているし、妹はウッピーゴールドバーグ(Sister Actに出た黒人女優)に似ている。僕はどう見ても、トムクルーズだ。(子供の頃は、菅原洋一に似ていた)
うちの妻は、最初にこの3人をまとめて見たときに、笑いをこらえるのが大変だったらしい。

3月に母が倒れたときに、田舎に帰ったが、僕の少年時代しか知らないはずの近所のおばあちゃんに、いきなり氏素性を当てられてしまったのは、やっぱり似ているのだろうか。




仕事は楽しく
at 1999 09/26 01:03 編集

新入社員研修で、人事部の人に言われた。

「君たちは支店に配属されるが、どうしたって最初は、仕事が出来るわけがない。君たちの最初の仕事は、支店の雰囲気を盛り上げることだ。支店を明るくして、みんなが気持ちよく仕事が出来るようにすることだ。」

田舎からぽっと出の僕は、東京での4年間の大学生活を経ても、まだ純粋だった。

「そうか、頑張って支店の雰囲気を盛り上げるぞ!!」

このスタンスは、入社15年目に入った今でも変わっていない。ミラノ支店の時もそうだった。イタリア人と日本人との板挟みになりながら、つたないイタリア語で、ギャグをかましていた。ロンドンでもそうだ。

このスタンスは、今ではすっかり身体の一部となっていることから、周りのみんなは、僕のことをただの「おちゃらけた」やつと思っているようだ。しかし、少年時代から、性格が暗いと言われ続け、未だに初対面の人とは、口が利けない僕は、これは意識して心がけていることである。

仕事が楽しくてしょうがないという恵まれた人は、そんなに多くはいないだろう。どうせやらなきゃ行けない仕事なら、少なくとも明るい職場環境で働きたいものだ。

今の会社で、僕のつまらないギャグにつられて、みんながギャグを言い始めた時期があった。「あのレベルのギャグなら、俺にも言えるぞ」と、安心したようだ。
一部の人からは、「僕のせいで、会社がつまらないギャグの嵐になっている」との苦情もいただいた。

前の社長は、極めてまじめな人だった。みんなの席にパソコンが入り始めたときも、ずっとご自分のワープロに向かって書類づくりをされていた。
日本の会社は未だにA4ではなく、B4、B5サイズの書類を基本としているところがある。前の社長も、かたくなにB4の紙を使って、書類づくりをされていた。
「B4の紙は、こちらではあまり使われていない」という話をみんなで社長の机を囲んで話していた瞬間、社長は「びよーん(B4)」

社長にまでギャグの嵐が及んだ瞬間だった。

ここ最近忙しくて、体力がかなり消耗していた。それでも頭は常に新しいギャグを考えようとしている。風邪で会社を休んだときもそうだった。

「体が弱っているんだからやめなさい」

妻にはあきれられた。





美智子様 その2
at 1999 09/25 21:54 編集

目撃していた妻によると、母親は、天皇皇后両陛下の車の中まで頭を入れて「福井、福井」と言っていたらしい。



無事到着
at 1999 09/25 22:12 編集

全日空202便は、定刻より30分くらい遅れて成田に無事到着。良かった良かった.
全日空が初めて国際線を飛ばした時の話。ロンドンに近づいたとき、管制塔から連絡が入った.ところが、パイロットは、管制塔が何を言っているかわからなかった.しょうがないので、後ろから少し遅れて飛んできていたJALに連絡をとって、通訳をお願いしたと言う事だ。(旅行代理店の人から聞いた昔話)

成田からの道はすごく混んでいて、リムジンバスで新宿まで2時間もかかった.後で分かったが、20分遅れで出発したバスに途中で追い抜かれていたらしい.不思議だ.

新宿西口につくと、「SUBARU」の電光掲示板が目に付く.「21世紀まで、あと464日」世界史でも習ったように、21世紀が始るのは、2001年からだ.日本の2000年問題対応が遅れているのは、21世紀までに対応すれば良いと思っているからか.




美智子様 その3
at 1999 09/26 08:51 編集

(訂正1)集まった人に声をかけ始めたという表現は誤りでした.声をかけていただいたのは、うちの母親だけだったそうです.これは、以下の理由によります.

1. ホテルのドアから、車まで、赤いじゅうたんがひかれており、みんなは、これをはさんで立っていたのですが、うちの母親は、「もうすぐ出ていらっしゃる、向こうのほうが良く見える」と、じゅうたんをどたどた横切って走って行って、一人目立っていた.
2. 他の人は、遠慮して、じゅうたんから3メートル離れて立っていたのですが、うちの母は一人でじゅうたんのすぐ端の所まで乗り出していた事から、美智子様が話かけられる唯一のポジションにいた.

(訂正2)うちの妻は、人ごみの中に隠れたとありますが、実際はホテルの守衛さんに、「あれは君のお母さんだろう.こっちのほうが写真が良く取れるよ」と言われて、また最前列まで引っ張り出されたそうです.




パスポートの話
at 1999 09/26 11:47 編集

去年パスポートを更新したときのことだ。10年間有効のパスポートにしようと思い、パスポート写真に全力を注ぐ事とした.(それまでのパスポートの写真は、シンガポールビジネスマン風の写真だった.)
まずは、美容院に行く.「パスポート写真を撮りますので、よろしく」と言ったものだから、いつものお兄さんも緊張してやってくれる.
美容院が無事に終わると、次に「証明写真すぐできます」のフィルム屋で、写真を取ってもらう.どうもアルバイトらしいお姉さんは、手つきが怪しい.やっぱり出来あがりはピンぼけ.おばさんに取りなおしてもらう.
出来あがりはまずまず.頭が大きいのを気にしているので、小さめに取れていて、満足.
次に隣りのゲームセンターに行くと、3分写真の機械があった。これは最新のタイプで、自分がどのように映っているかを画面で確認でき、満足の行くまで、何度も画面固定をやり直せるものだ.ついでだからと、こちらでも写真を取る.こちらは、ほとんど顔ばかりのように、アップの写真.「最初の写真があるから、まあいいか」
翌日.小さい顔の写真と大きい顔の写真と両方持って、領事館に向かう.髪もセットせず、ひげもそらずに出かける.
「写真をお持ちですか?」
「はい」
自信を持って、小さい顔の写真を出す。受付の女性は、不思議な形の定規を出してくる.
「ちょっと顔の部分が小さすぎますね」
「じゃあ、こちらはどうですか?」
どアップ写真を渡す.
「これは大きすぎますね.この建物の裏に写真屋がありますので、そちらで取ってきて頂けますか?」
とぼとぼと、写真屋に向かう.風が強くて、髪の毛はさらにぼさぼさになる.
結局不本意な犯罪者の写真が出来あがった.こいつとあと10年もつきあうことになるのか.




スネ毛の話
at 1999 09/30 16:56 編集

大学時代に、「ポパイ」だったか、「メンズクラブ」だったかで、夏に「毛深い男は嫌われる」特集をやっていた。
田舎からぽっと出の僕は、毛深くなかったにもかかわらず、「よし、ムダ毛処理してモテモテだ」と決意した.
吉祥寺の西友でエピル脱色クリームをこっそり買って、寮のシャワー室でスネ毛に塗った.
使用方法にしたがって念入りに塗って、3日もするときれいな脱色スネ毛になった。

プールサイドでは、人気者にはなりきれず、飲み会の席では、「外人の足」という隠し芸で笑いを取るしかなかった。

少し脱毛クリームが残ったので、こっそり髪の毛に塗った(茶髪のさきがけ)。わずかに茶色っぽくなって、なかなか良い感じ.それを見たバイト先のH君は、エピルですっかり茶髪にして、人気者になっていた.(橋本君、君の事だよ.)中途半端に終わった僕は、里帰りしたときに母親に気づかれて、「わからないと思ったかもしれないが、あんたの髪の毛の色は、おかあちゃんが一番良く知っている」と説教された.

秋になると、メラニン色素が大逆襲に入り、それまで生えていなかった毛穴からも毛が生えてきたばかりか、色も真っ黒の、硬い毛が生えてきた.
いまだに、上半身の毛は、脇の下も含めて少なく、薄く、スネ毛だけ濃い異様な生え方になっている.




うらら、うらら
at 1999 09/30 21:19 編集

うちの田舎では、自分の事を「うら」と言う事がある。男性が使う言葉で、複数形は「うらら」となる。(「ぼく」が「ぼくら」となるように)

「春のうららの隅田川」
「うらら、うらら、うらうらで、うらら、うらら、うらうらよ」

僕の生まれ育った今立(いまだて)町では、今、福祉バス「うらら」号が走っている。一日に何回も町内を走っており、老人が無料で利用できるようになっている。(このため、普通のバスは、一日に2本しか走っていない。)

うらら号の停留所は、「うららバス乗り場」と呼ばれている。
このうらら号がまた変わっている。全体がピンクで、ウサギの形をしており、しかも音楽を流しながら走っている。
バスの後ろには、次のような、標語(?)が書かれている。

むかしだって、いまだって、
これからも、いまだて

(ここが今立(いまだて)町だということがわかっていないと、この意味はわからない。)

ウサギ以外には無いのかと聞いたところ、「次はカメを予定していたらしいのだが、町長が選挙で代わったから、もうやらないのではないか。」とのことだった。

一生懸命に町おこしをしている福井県今立町。ピンクのウサギのバスを見に観光客が集まればうれしいのだが。

福井では、「花うらら」というお酒も発売されている。




虫が嫌い
at 1999 09/30 22:53 編集

うちの妻は、虫が嫌いだ。だから、僕の実家に行くときはいつも大変だ。
今回は、ハエは見かけなかったが、蚊はいっぱいいた(これが、都会の蚊より大きい)。家の外では、コオロギがうるさく、妻は明け方まで寝つけなかったようだ。(何匹か、家の中でも鳴いていた。)
蛾も何匹か迷い込んできたし、カエルが家の2階にいるのを見つけたときには、妻もすっかりあきれてしまった。
「昔は、家の中にムカデもいたし、ヘビもいたし、テンもいた。それを考えれば、カエルがいても決して驚く事ではない」と説明しても、東京育ちの彼女には、全然説得力がない。

都会と違って、住居と住居の合間に自然があるのではなく、自然の中にぽつんと家があるのであり、家の中に自然が入り込んでくるのを防ぐ事は出来ない。その上、僕の実家は、築後100年から、150年経過しており、福井地震でできたひび割れや、壁の隙間から、自然はどんどん入ってくる。冬には、朝起きると枕元に雪が積もっている事があったし、ストーブをがんがんに焚いても、室温が20度以上には決してならない。隙間のおかげで、灯油ストーブを使っていても、練炭・豆炭を使っていても、一酸化炭素中毒の恐れは、全く無い。

こんな生活をしてきたので、今でも、家に紛れ込んできた虫を見つけると、窓を開けて逃がしてやる。(蚊は殺します。ごめんなさい。)
自然の中に住まわしてもらっている自分には、自然は自分の家への侵入者ではない。われわれが、自然にとっての侵入者である。

1999/9 Part 2

1999-09-21 13:19:05 | Weblog
2000年問題担当者の悲劇 14
at 1999 09/17 08:32 編集

忙しくて、履歴書書いて、職探しする暇も無い。
これが、会社の狙いか。
2000年になってしまえば、失業だ。





目をつぶらない話
at 1999 09/30 23:56 編集

会社に入って4年目、僕はプログラミングをしていた。会社のホストコンピューターを使ったシステムは、通常の勤務時間中は多くの人がアクセスしているから極めて遅い。しかし、夜も11時を過ぎるととても反応が良くなる。

誰もいないオフィスに一人残り、プログラムのバグを探す。

リストを画面上でスクロールさせて、問題箇所に飛ぶのだが、スクロールの速度が速いので、行番号を見逃さないように、画面から目を離さない。(目を閉じない) 
約1年半のプログラミング経験の間に、ふだんの時でもほとんど目を閉じない癖がついてしまった。

目を閉じる回数が減って、得したこと。

夜中にエッチビデオをこっそり見るときに、三倍速にして早送りし、お楽しみ箇所でぴたりと止められるようになった。







目をつぶる話
at 1999 09/17 08:31 編集


小学校の時に、ソフトボールのキャッチャーをやらされていた。身体がわりと大きかったからという理由だけで選ばれてしまった。

貧しい学校で、キャッチャーのマスクもなければ、プロテクターもない。バッターが空振りすれば、当然怖くて目をつぶり、チップなどしたら、必ず後ろにそらしていた。
それでもキャッチャーをやらされ続けていた。

中学校に入ってバレーボール部に入った。
ブロックに飛ぶときは、当然相手のスパイクが怖くて目をつぶる。必然的にフェイントされたらアウト。それどころか、自分がスパイクを打つときも目をつぶる。相手のブロックにはねかえされて戻ってくるのが怖いから。

気がついたらいつの間にか、

野球で打つときにも目をつぶる。当然空振りが多い。
テニスでも目をつぶる。卓球でも目をつぶる。

驚いたことに、ゴルフでも目をつぶる。これでゴルフはあきらめた。安いゴルフ場がいっぱいあるのに、ゴルフは辞めた。
ボールが動かないのだから、フォームがしっかりしていれば、思った方向に飛ぶはずなのだが。




A君の話
at 1999 09/18 06:23 編集

3年前、ようやくうちの会社にもほぼ全員にパソコンが入った。
それまでパソコンなど使ったことがない人たちは、とりあえずトランプゲームに熱中した。
最初はマウス操作になれるために、ある程度仕方がないと思っていたが、業務時間中にも堂々と遊んでいる人が増えるに連れて、これはまずいと思い、次のメールを同僚に流した。

「社長の指示で、コンピューター部がゲーム利用状況をモニターするソフトを導入したらしい。ソフトの名前はGameWatchで、各端末のメモリーに常駐し、ゲームソフトが立ち上がっている時間をモニターしている。月次で集計して、社長にレポートされているらしい。このソフトの欠点は、実際にはゲームをやっていなくても、ソフトが開いているとその時間をモニターしてしまうことだ。」

これを見た同僚の小心者のA君(奥さんが家で待っているのに、夜遅くまでトランプゲームをしていた)は、O君の所に行く。

A「こんなこと書いてありますけど、うそですよね。やってませんよね。」
O「わかんないよ、技術は進歩しているから、なんでも出来るんじゃないの」
A君は、自分の席の方に戻ると、自分の隣のLさんの席でトランプゲームを始めた。




食事の後かたづけ
at 1999 09/20 01:42 編集

「あなた、たまにはお皿洗ってくれる?」
「わっはっはっはっ」
「それは「笑う」」

「じゃー、私がお皿洗うから、あなたは拭いてくれる?」
「プッ」
「それは「吹く」」

こうやって結婚10年、食事の後かたづけから逃れてきた。
そのうち離婚されるかもしれない。





2000年問題担当者の悲劇 15
at 1999 09/30 23:59 編集

当社の電話は、外線にかけるときは、9を回してからダイヤルする。
イギリスの緊急連絡番号は警察も消防車も救急車も「999」だ。
社内で何かが起きて、緊急番号を回すと「9999」となってしまう。助からないかもしれない。

「9999」については、2000年問題担当者の悲劇 7をご参照





2000年問題担当者の悲劇 16
at 1999 09/20 02:29 編集

本社の検査が入った。2000年問題については、特に厳しくチェックされた。
社長はすごく緊張して、「社内の文書についても、西暦で記入する場合は、4桁表示とすること。(99年ではなく、1999年と書く)」と、みんなに指示を出した。




ナポリを見て死ね
at 1999 09/20 20:33 編集

イタリアに5年もいたのに、ナポリには、30秒しか足をおろしていない。
留学中の1990年に、ローマに10日間旅行に行った際に、ローマからバスの日帰りツアーに参加した。
ポンペイ、ナポリ、ソレントを回って戻ってくるコースで、ナポリはサンタルチア湾の所で30秒バスを停めて、記念写真を撮っただけだ。

学校の友人(イタリア人)からも、ナポリは気をつけた方がいいといわれていた。
いろいろな話を聞かされた。
交差点で赤信号で待っていると、後ろからクラクションを鳴らされる(横から来ていないんだから、さっさと行け)。
車を停めておくと、タイヤを盗まれる。
学校の友人は、ナポリでレンタカーをしたところ、4ドアの後ろのドアの鍵をかけていなかったため、信号待ちの時に、ドアを開けられて、財布などを入れたジャケットを盗まれた。
当時のミラノ副支店長は中古でナポリナンバーの車を買ったら、保険料が高かった。(ナポリは交通事故が多いから。しかし、ミラノで走っていると前の車に道を譲ってもらったことも何度もあったとか。今はナンバープレートが代わって、どこの車かわからなくなってしまったが)

当時フランスの観光局が、「ナポリに行くときは気をつけて、空港からは、タクシーでホテルまで。貴重品はホテルの金庫に預けて、出かけるときはお金を持ち歩かない。....」などなど、事細かに案内を出したことから、ナポリ市が抗議したこともあった。
しかし、最近日本人の男性が一人旅で、ナポリの飛行場に夜着いて、バス、地下鉄を乗り継いでホテルにたどり着こうとして、途中で強盗に遭い殺されてしまうという悲惨な事件があったが、日本の観光局、ガイドブックも、もっと危険性を強調すべきだと思う。

そうはいっても、日本に帰る前に、ナポリをしっかり見てみたい。できれば、暖かい時期に、身軽な格好で、貴重品はすべてホテルに預けて。





背泳ぎの話
at 1999 09/21 06:09 編集

小学校の時、最初に泳げたのが背泳ぎだった。当時からひねくれ者だった僕は、人と同じなのは気に入らず、自由形の校内水泳大会にも背泳ぎで出た。
僕の小学校3年の時の背泳ぎ25メートルの記録がかなり後まで残っていたらしいが、小学校低学年では泳ぐ人もいなかったからだろう。(当時の僕達の学年は、二クラスで51人。それ以降は、一学年一クラスの小さな小学校だった。)

小学校6年の時だったと思う。担任のM先生は水泳の指導もしてくれていたが、背泳ぎの僕に校内水泳大会の前にアドバイスをしてくれた。
「スタートしたら潜れ。出来るだけ我慢して潜っていけば、浮き上がったときには、一番のはずだ」
「わかりました」

大会の日。秘密兵器を持っていることをみんなには内緒にし、僕は一人ほくそ笑んでいた。「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ。みんな驚くなよ」
僕は一コース。プールサイドの友達に手を振る余裕もある。
「よーい、ドン」
一斉にスタート。僕はいつもより深く潜った。
ぶくぶくぶくぶく。
まだ浮かばない、まだ浮かばない。
プールサイドの友達が、心配してのぞき込んでいるのが水面越しにぼんやり見える。

ようやく浮かび上がって、周りを見回す。
あれっ?
みんなはとっくに先に進んでいる。
潜ったは良いが、潜って進む練習をしていなかった。


後々鈴木大地が金メダルを取るにいたり、M先生は僕にバサロスタートを教えようとしていたのだということがわかった。
もっとしっかり教えていてくれば、僕も金メダルが取れていたかもしれない。
中学校に途中までプールがなかったので、水泳への興味もそこで途切れてしまった。

松村先生お元気ですか?





1999/9 Part 1

1999-09-14 13:18:02 | Weblog
2000年問題担当者の悲劇 8
at 1999 09/10 07:24 編集

家で使っている留守番電話兼ファックスソフトが2000年対応していないことがわかった。

周りのことばかり心配して、自分のところが抜け落ちていた。
このアパート自体も対応していないかも...



イタリアの思い出 1
at 1999 09/01 01:45 編集

イタリアに留学中の話
イタリア語学校の先生と、道を歩いていた時に、犬のふんがいっぱいあったので、「どうして犬のふんを拾わないのか」と聞いたら、「だって汚いじゃないか」と言われた。ごもっとも。



イタリアの思い出 2
at 1999 09/01 06:51 編集

語学研修は、マンツーマンで一日4時間、週5日、これを9週間行った。
頭の目の所くらいまで、イタリア語がせり上がってくる感じになった。
昼休みに公園でサンドイッチを食べながら、鳩を見て、「いいなハトは、イタリア語やらなくて良くて」とつぶやいた。
ミラノ支店勤務になってから、その話を課長にすると、彼も似たような経験をしていた。
彼の場合は、山の中の小さな村の家にホームステイしながら、イタリア語の学校に通っていたそうだ。
「いいなカラスは、イタリア語やらなくて良くて」とつぶやいていたそうだ。




イタリアの思い出 3 謎の東洋人 1
at 1999 09/01 15:33 編集

留学時代は、「こんなチャンスは二度と無い」とひげを伸ばしていた。ところが元々ひげの薄い僕は、格好良く生えてこない。中国の仙人のひげのように、あご先だけ。鼻の下はまばら。
それでも3ヶ月のばした。
ときどき、ミラノ支店の手伝いに行っていたが、現地の人からは「謎の東洋人ホーチミン」と呼ばれていた。
あるとき本社の偉い人がミラノ支店を訪問するという話になり、当時の支店長から「良い機会だから是非会っておいた方がいいよ。きちんとした格好をしてね」
泣く泣く、ひげをきれいさっぱり剃り、スーツを着て支店に行った。
支店長がその「偉い人」に、社員を現地の人も含めて一人一人紹介していった。
僕はあいさつの言葉を一生懸命考えていた。
僕の所まで来ると、支店長が僕を紹介してくれる前に「偉い人」は
「ハウドゥユゥドゥー(初めまして)」と英語で話しかけてきた。
全く予想できない展開に、日本語で準備していたあいさつは出てこないまま、握手に差し出された手を黙って握り返してほほえんでしまった。
今もあの「偉い人」は僕のことを現地採用の中国人だと思っているに違いない。





イタリアの思い出 4 謎の東洋人 2
at 1999 09/02 05:37 編集

留学が終わり、ミラノ支店勤務が決まり、ビザの書き換えのため一旦帰国した。
いよいよビザも取れて出発。喜び勇んで成田へ。
荷物のセキュリティーチェックのカウンターは、アリタリアとシンガポールエアが同じ所だった。
荷物をコンベアーに載せると、係の男性(日本人)が英語で「Singapore?」。ぶすっとして僕は「イタリアです」

12時間の飛行の後、ミラノに到着。いい加減なパスポートチェック。係の男性が(イタリア人)が英語で「観光か?」。僕は胸を張って「仕事だよ」。係官続けて「中華料理屋か?」

一日のうち2回も日本人と認識してもらえず(しかも一回目は成田で)、僕は結構ショック。妻は後ろで笑い転げていた。






イタリアの思い出 5 ハチ公
at 1999 09/02 05:37 編集

ミラノ支店勤務の時に、またまた本部のお偉いさんが来た。確か、常務だったと思う。
例のごとく、支店長が各社員を紹介する。
僕のところにやってきた。
支店長「彼が、XXX君です。」
常務「XXX君、君は何年入社かね」
僕「昭和60年です。」
常務「じゃあ、君もそろそろ中堅だね」
僕「ええ、ハチ公と呼ばれています。」
(注.中堅と忠犬をかけた駄じゃれをとっさに言ってしまったもの)
常務「....」(何も言わずに立ち去った)

これで僕の出世はなくなったと観念した瞬間だった。
そんなこともあり、僕は海外勤務10年すぎてもまだ帰れずにいる。






貧しかった話 1
at 1999 09/02 15:24 編集

子供の頃、家は貧乏だった。幸せなことに、当時はそれに気が付いていなかった。

大学に入って、東京にある県人会の学生寮に入り(月3万円、朝晩食事付きの破格の条件。あまり裕福でない家庭の子供が入る)、そこで誰が一番貧乏だったかと自慢しあったことがあった。 僕が一番貧乏だった。信じられないくらいみんな貧乏で、最後はほとんど笑い話になり、みんなで笑い転げた。

おかずはいつも一品だった。コロッケ一個でご飯を一杯食べる。カレーライスが良く出たが、「形のある」肉が無いことも時々あって、ひき肉だったり、ソーセージだったりした。(それはそれでおいしかったのだが)

朝は味付け海苔一袋でご飯を一杯食べる。確か一袋5枚入りだった。一枚をそのまま醤油をつけてご飯にくるむのではない。まず、その一枚をさらに4つに切り、醤油をつけて、それをご飯の上に置いてそれで食べる。こうすると、味付け海苔だけでご飯一杯何とか食べられる。隣で食べている妹は、まだ我が家の状況を理解するには小さすぎて、海苔でご飯をくるくるまいて食べていた。 

社会人になって14年、いまだに朝食で味付け海苔が出ると、最初に海苔を4つに切ろうと手が動く。 貧乏癖はなかなか抜けない。




貧しかった話 2
at 1999 09/03 05:36 編集

大学に入った年に、生協のアンケート用紙が届いた。「あなたは、アンケート対象に選ばれました。実態調査にご協力ください」というものだった。
田舎からぽっと出の僕は、これは、まじめに答えなければいけないと思った。
「親の所得」という項目があった。僕は、田舎に電話をして、父と母親の所得を確認し、記入した。当時で、二人合算の所得が290万円だった。
しばらくして、アンケートの集計結果が送られてきた。
「XX大学の家庭の平均収入は650万円!!」
翌年父は、細々と続けていた自営の繊維工場を廃業し、僕は授業料免除の申請をして認められた。



方言はすばらしい 1
at 1999 09/05 02:12 編集

うちの田舎では、「うんこ」のことを「アッパ」と呼ぶことがある。

東京に出てきて、県人会の学生寮で生活するようになってしばらくしてからの話。
ある日の夕食、食堂でテレビを見ながら食事をしていた。
コマーシャルになって、いきなり「アッパマン、アッパマン、アッパマン」と流れてきた。
何事かとみんなテレビに釘付けになった。
「週刊アパートマンション情報」のコマーシャルだった。


きたない話でごめんなさい。




方言はすばらしい 2
at 1999 09/04 06:44 編集

うちの田舎では、カエルのことを「ギャル」と呼ぶ。
東京に出て、「ギャル」という言葉が流行したときには、少し変な気がした。
「サーファーギャル」「AVギャル」
カエルのはだかなんて、いつも見ているぞ。

夏になると、夜カエルの大合唱でうるさくて眠れない。

うちの田舎においでよ。夜はギャルが集まってきて、遅くまで騒いでいるよ。君を寝かせてくれないよ。

今年の3月に田舎に帰ったとき、雨の日の夜、玄関先でギャルが雨宿りをしていた。
田舎のカエルのくせに軟弱なやつ。



方言はすばらしい 3
at 1999 09/05 02:53 編集

「あっぱ」と「ぎゃる」と続いたところで、何人かの方は、私が福井の出身だとわかったに違いない。
田舎からぽっと出の僕などは、学校でも口べたであまり話をしないから、東京弁はなかなか覚えられなかった。周りのみんなもそうらしく、大学時代の県人会学生寮では、共通語は福井弁だった。
にもかかわらず、中には東京弁を巧みにあやつる人たちがいて(東京で予備校通いをした人たちだが)、そういう人たちは「ええかっこしぃー」と石を投げられ、いじめられていた。
学生寮には、着信専用の電話が二台玄関の所にあって、電話がかかってくると呼び出しを受けて、玄関で話すことになる。
福井弁でしゃべっている人も、学校の友達からの電話を受けると、ふだん寮では使わない東京弁で応対することになり、自分も「ええかっこしー」だということをばらしてしまうのだが、周りから見ると、東京弁があまりになじんでいないのでおかしかった。



2000年問題担当者の悲劇 11
at 1999 09/06 05:41 編集

今日もジムに行って来た。
ジョギングの本に、次のようなことが書いてあった。
「一生の間に、心臓が収縮する回数というのは上限が決まっている。ジョギングによって持久力をつけることで心臓が強くなり、平常時の心拍数が少なくなる。よって長生きできる」
でもこれって、毎日走っている人は常に心拍数が高いままで、結果的に早死にするんじゃないのか。気がついたら腕の心拍数メーターは、170を超えていた。いけないいけない。




スパゲティーの話
at 1999 09/07 15:29 編集

田舎からぽっと出の私は、大学2年の夏に、アルバイトを始めた。
アルバイト先の女性と、昼ご飯に行くことになった。連れられるがままに、スパゲティー屋に行く。ちなみに私はこのときまで、レストランでスパゲティーを食べたことがなかった。
家で食べたことは何度かあったが、当然お箸で食べていた。
いきなりフォークとスプーンが出てくる。「なんじゃこりゃー」
相手の食べ方を観察し、食べ慣れているかのようにフォークにくるくる巻き付ける。
「巻き付けすぎた、口に入らない。」 食べるのが遅いと、食べ慣れていないのがばれてしまうと思い、会話もせずに必死で食べる。何とか、同じくらいに食べ終わった。
冷や汗たらたら。

そのあと何年かして、イタリアに留学・勤務となった。その頃までには、スパゲティーもかなり食べ慣れていたが、それ以上に食べるようになった。
ちなみに、イタリアの北部の方では、レストランでスパゲティーにスプーンは出てこない。




ペリエの話
at 1999 09/08 15:27 編集

田舎からぽっと出の僕は、大学一年の夏に、六本木に遊びに行くことにした。
夜は何となく怖そうだったので、昼間に行くことにした。
当時の若者向け雑誌「Popeye」だか「Hotdog Press」で、めぼしい「カフェバー」なるものに狙いを定め、どきどきしながら、とある日の昼過ぎに、一人で入っていった。

平日の昼間で、当然のことながら店はがらんとしていた。メニューが運ばれてきたが、どれもこれも結構な値段だ。
貧乏学生だった僕は、わりかし安いが、名前が派手な「ペリエ」とか言うものを、知ったかぶりして頼むことにした。

しばらくして、氷とレモンの入った水が運ばれてきた。
しかし、肝心のペリエはなかなか来ない。

忘れられているのかしら、お店の人に催促しようかしら、と考える一方で、ひょっとしたら、これがペリエかもしれないと思い始めた。
よく見ると、泡が出ているではないか。

なんだ、ペリエというのは、サイダーか。僕は安心してペリエを口に運んだ。
ところが、味がない。サイダーだと思っていたから、口は当然甘いものを期待していたから、はずれの気分だ。

「変わった飲み物だ」
店の中を見回すと、子供連れの家族がいた。子供はおいしそうにアイスクリームを食べていた。「アイスクリームの方がよかった」




30メートル防水腕時計の話
at 1999 09/09 14:12 編集

2年前、ロンドンマラソンを目指して走り始めたことがあった。
「ランナーズワールド」という雑誌が、ちょうど新規購読者向けに腕時計プレンゼントをしていたので、購読の申し込みをした。安っぽいデジタル腕時計なのだが、ストップウォッチ機能と、「30M Water Resistant (30メートル防水)」とあったのに惹かれた。

会社の後輩からは、「たったの30メートルですか、ダイビングするなら100メートルとか、200メートルとかないと駄目ですよ」と言われた。人のいい気持ちを台無しにするいやなやつ。(市坂くん、君のことだよ。)
どうせプールにしか行かないのだし、そこは水深2メートルだよ。

3ヶ月後、ジムに行って泳ぐことにした。
それまで防水腕時計など持ったことがなかったので、時計をしたまま泳ぐことにした。
最初の25メートル。時計を見ると文字盤の内側が水滴で曇っている。
「きっと水から上がってしばらくすると元に戻るのだろう」
次の25メートル。文字盤の内側に水が入っている。
「きっと水から上がると、水が抜けていくのだろう」
結局トータルで200メートル泳いで上がった。

ところがしばらくしても文字盤の内側に水がたまったままだ。時間表示は消えている。
「不良品???」
家に戻ってから、眼鏡用の小さなねじ回しで分解し、中身を乾かしてから組み立て直した。
何とか時計は動き始めた。ライトは壊れたまま。

「30M Water Resistantというのは、ひょっとすると、文字通り、30メートル水に耐えたのだが、それ以上泳いだために、水が入ってきたのかもしれない。Water Proofを買わないといけなかったのだろう」

翌日、会社のイギリス人に確認したら、「それはただの不良品だ」と言われた。





2000年問題担当者の悲劇 12
at 1999 09/10 05:17 編集

今日は、危うく死にかけた。
99年9月9日、2000年問題の要注意日の一つだ。
朝7時に会社に入り、すべて動いているか確認。特に問題はないようだ。
朝早かったので、11時過ぎにはお腹がすいた。
オフィスの裏のエレベーターで、6階の自動販売機にチョコバーを買いに行くことにした。
このリフトは、通常は荷物用で、あまり使われていない。
「まずいな、これは古臭いし、2000年問題に対応していないかもしれない。おっこちないだろうか、閉じ込められないだろうか」と不安になる。

びくびくしながらエレベーターに乗る。ところがドアが閉まってしばらくしても、動かない。
「何だ!? 閉じ込められたか!?」

おっと、ボタンを押していなかった。

ようやく動き出した。小銭入れを出して、小銭を確認。ちゃんとチョコバーをかえるだけの分はある。見上げると、2階を過ぎた所。と、その時、「カキーン」激しい金属音がした。

「何だ!?」

足元を見ると、小銭入れから落ちた、1ポンド硬貨が転がっていた。
危うく心臓麻痺で死ぬところだった。






逆に言うと
at 1999 09/30 23:53 編集

うちの会社のM副社長と、K部長は、どちらも「逆に言うと」というのが口癖である。
二人で議論が始まると、逆に言うとの嵐である。二人の前に座っている僕は、意見がどちら側に行っているかを、消しゴムを動かしてフォローしている。
ふとしたはずみでどちらかが「逆に言うと」を言い忘れることがある。そうすると、片方は続けて「逆に言うと」と言うことになり、自分の言ったことを否定していることになる。
一度、会社の同僚と、本気で逆に言おうとしてみたことがあったが、とても難しかった。(大本君、協力ありがとう)

副社長「たけやぶやけた」
部長「それは逆に言うと「たけやぶやけた」ですね」








イギリス相続税入門 - 生命維持装置
at 1999 09/14 06:22 編集

イギリスの相続税の規定に、生前贈与の規定がある。
相続の後、本人が7年間生きていれば、相続税がかからないと言う規定だ。
とある大金持ちで、ばく大な相続税を回避するために、おじいちゃんに生命維持装置を使っているケースがあるらしい。
あと少しで7年になるということだ。




2000年問題担当者の悲劇 13
at 1999 09/15 07:08 編集

チェンジフリーズというものがある。「一旦2000年対応されたソフトは、いじるとおかしくなる可能性があるので、いじっちゃ駄目だ」というものである。
当社のあまり重要でないシステムの中に、対応が9月ぎりぎりになりそうなものがある。
本部の方はチェンジフリーズを9月とずっと言ってきており、間に合わないなら、来年のチェンジフリーズ開けまで、実施を凍結しろと言ってきている。
「対応しないと2000年で問題が発生するかもしれないのに、対応を止めろと言うのか????