サルバトール・だれ?  by 澁澤寅彦

笑いは地球を救う。
妻Rは足下をすくう

1999/8

1999-08-31 13:13:30 | Weblog
2000年問題担当者の悲劇 1
at 1999 08/19 21:15 編集

2000年問題への日本の取り組みは、アメリカやイギリスなどと比べとても遅れています。これはまずいと考えた金融監督庁は、日本の銀行へ厳しいプレッシャーをかけました。
極端に走りやすい日本の会社のこと、やることも極端です。
会社で使っているすべてのものについて、2000年対応状況を確認し、社内でテストをしろとの指示が来ました。

問題になったのは、太陽電池で動いている計算器。本部からの指示はまずメーカーに連絡を取り、2000年問題に対応されているかどうかを確認することでした。
キャノンやシャープといったメーカーのものですが、さすがの私も「何考えているの」と言われるのをおそれて、電話できませんでした。

「日付機能無し」と報告することで、何とか本部にご理解いただきました。

面倒だったのがファックス。
メーカーから対応済みとのレターは入手したものの、自分でテストをしなければなりません。
私は、6台のファックスを前にし、次のテストを行いました。

1. 日付・時間を99年12月31日23時59分にセット
2. 表示が00年1月1日0時0分に変わることを確認
3. 送信・受信のテスト
4. 日付・時間を00年2月28日23時59分にセット
5. 表示が00年2月29日0時0分に変わることを確認
6. 送信・受信のテスト
7. 日付・時間を99年2月29日23時59分にセット
8. 表示が00年3月1日0時0分に変わることを確認
9. 送信・受信のテスト
10. 日付・時間を現在のものに戻す
11. 送信・受信のテスト

本部にテスト結果を送っておしまい。

来週は社長車が2000年対応しているか、ディーラーに電話しないといけない。
必要に応じて、テストドライブもしないといけない。





2000年問題担当者の悲劇 2
at 1999 08/15 08:10 編集

イギリスでは、2000年問題のことはY2Kとか、Year2000、Year2Kとか呼ばれています。Kは、キログラムとかキロメートルのキロと同じで、千を意味します。
うちの会社では、Year2Kがなまって、「イヤーツーケー」が「ヤッツケ」になっています。どうせ問題が起きるかどうかわからないのだから、「やっつけ」仕事で十分でしょう。




2000年問題担当者の悲劇 3
at 1999 08/17 07:10 編集

週末はジムで鍛える。2000年問題でだんだん忙しくなってきたこの2月に、会社から徒歩10分のところに引っ越してきた。
歩いて5分のところのジムに入って、週末は必ず、平日も可能であれば週に一回通うようにしている。
金融機関が次々合併・倒産していく中で、いつまでも仕事があるとは限らない。(2000年問題担当者がちやほやされるのも今年で終わり。)
最後に頼りになるのは自分の体力だけ。しかし、この年になっての筋力トレーニングはきつい。筋肉痛が翌日ではなく二日目に来るのも、年を取ったしるし。




2000年問題担当者の悲劇 4
at 1999 08/17 15:27 編集

半年くらい前のFT(Financial Times)の記事に、次のようなものがあった。
・ 読者からの質問のページ
読者「2000年の1月1日に、エレベーターに乗らない方がよいでしょうか。」
FT「何か問題が起きるとすれば、1月1日の0時になった瞬間か、あるいは、1月1日になって、最初に動いたときです。それらをはずして使えば問題ありません。」

・ 同じ日のFTの4ページ先のところに出ていた記事
2000年問題がいろいろ騒がれているが、コンピューターと違って、エレベーターなどに使われているICチップはやっかいである。
日付機能がそれほど重要でないために、最初にセットする際時間をきちんと合わせないことがほとんどである。
この為、何か問題が起きるとしても、1月1日の0時ちょうどに起きるのではなく、2週間早く問題になったり、1ヶ月後に問題になったりするのである。

いつならエレベーターに乗っても良いのだろうか。




2000年問題担当者の悲劇 5
at 1999 08/18 15:26 編集

使っているシステム・機器について業者から2000年対応しているよと言われても、自分で再度テストしないといけない。ファックスなんかは自分でテストできるけど、業務用のシステムなんかは、実際のユーザーに協力してもらわないとできない。
2ヶ月くらい前に、テストの計画について打ち合わせを行った時、オペレーションの部長にこんな風に言われた。

「俺は2000年問題なんかそもそも信じていない。何も起きるわけがない。
俺はノストラダムスの予言を信じており、1999年に地球は終わってしまう。だから準備する必要はないし、テストも必要ない。」

現場の社員の協力を得るのが、2000年問題で一番難しい仕事かもしれない。




2000年問題担当者の悲劇 6
at 1999 08/19 04:28 編集

イタリアでは、あまり2000年問題は問題になっていないらしい。何だかんだで、いろいろ故障しているから、2000年で故障しようが、他の理由で故障しようが、どちらでもあまり気にならないようだ。
99年の年末まで何も準備せず、飲んで、歌って、楽しんで、2000年に何か問題が起きたら、その時初めてそれに対処する。
最も効率的な時間の使い方かもしれない。



2000年問題担当者の悲劇 7
at 1999 08/20 02:18 編集

9月には、一時帰国できそうな感じ。
母親が3月に倒れたときに帰ったのを除けば、3年半ぶりの帰国。
ひょっとして飛行機が9月9日問題で落ちて死んじゃったりしたら、それこそ2000年問題担当者の悲劇だ。
(注 古いシステムでは、9999が終了・停止の命令だった。99年9月9日は、9999となるので、システムがストップする恐れがある。)



2000年問題担当者の悲劇 9
at 1999 08/24 15:18 編集

2000年問題の準備の中に、取引先の2000年対応状況の調査というのがある。取引先の対応が遅れている場合は、ひょっとして2000年問題が原因で倒産する可能性もある。重要な相手先にアンケートを送り、その回答を見た上で、取引を継続するか、うち切るかを決めるものである。
いろいろな会社がある。全く回答をよこさないところ、2000年問題を全然理解していないところ、「うちは大丈夫です」とだけ書いてよこすところ、何十ページもの資料を送ってくるところ。
あまりに内容が少ないところは評価できないので、追加の情報をお願いすることになる。
その一方で、当社からの情報開示については、弁護士から「できるだけ少なくするように」と言われている。(後に裁判になった場合に、開示した内容に誤りがあった場合に不利になるから)
「うちは情報開示しないけれど、そちらからは、いっぱい開示して下さい」というのは身勝手なものだ。
600社ほどにアンケートを出したけれど、当社にアンケートを送ってきたのは30社程度。自分で思っているほど当社は相手先から重要な取引先と思われていないようだ。






父の思い出 1
at 1999 08/25 14:55 編集

子供の頃、父親は自宅の脇の自営の繊維工場で働いていて、僕が小学校から帰ってくると、よく遊んでくれていた。
キャッチボールをするときは、「お父ちゃんは、昔野球部のキャプテンだったんだぞ」と聞かされ、バドミントンをするときは、「お父ちゃんは、昔バドミントンのキャプテンだったんだぞ」と聞かされ、一緒にプールに行くときは、「お父ちゃんは、昔水泳部のキャプテンだったんだぞ」と聞かされ、子供心にも、「どこかに嘘があるのでは」と思っていた。
中学に進み、家で英語の復習をしていたときだった。後ろから近づいてきた父は、僕の教科書をのぞき込み、「お父ちゃんは、昔英語部のキャプテンだったんだぞ」と言った。
「また始まったか」と放っておくと、「現在進行形か。Be動詞+ingだな」と言うので、今度は本当か少し見直した。
「私は眠っていると言うのを、現在進行形でどういうかわかるか」と聞くので、「お父ちゃん言ってみな」と言うと、「I am swimming. (睡眠ing)」
やっぱりどこかに嘘がある。





父の思い出 2
at 1999 08/26 06:48 編集

小学校の時、図工の時間で「明日は粘土細工をしますので、皆さん粘土を持ってきて下さい」と言われたことがあった。
家に帰り、父親に、「お父ちゃん明日粘土細工をするから、粘土をちょうだい」と言うと、「じゃあ、神社の脇の崖の所で取れるから、この鍬で掘って来な」と鍬を渡された。
赤茶色の粘土を掘って家に持ち帰り、ラップに包んでおいた。

翌日図工の時間。「ハーイ皆さん、粘土を持ってきましたか。机の上に出して下さい」
どうも様子が違う。周りのみんなは「工作粘土」と書かれた緑色っぽい粘土を持ってきている。おそるおそる持ってきた粘土を机の上に出し、ラップを広げると、粘土はすっかりからからになっていて、ぽろぽろと崩れ落ちた。

父親は決して僕をだましたわけではない(と思いたい。)
昭和6年生まれの父の時代には、工作粘土なんて無かっただろうし、粘土と言えば山で取れる粘土だったのだろう。
僕が初めての子供だったし、知らなかったとしても仕方がない。




父の思い出 3
at 1999 08/27 02:46 編集

小学校の時、理科の時間に「明日は昆虫採集をしますので、皆さん虫捕り網を持ってきて下さい」と言われたことがあった。
家に帰り、父親に、「お父ちゃん明日昆虫採集をするから、虫捕り網をちょうだい」と言うと、裏山の竹を切ってきて、その先に針金を丸くして縛り付けてこう言った。
「この山道をずっと歩いていくと、途中にいっぱいクモの巣があるから、それを針金にくっつけてこい」

翌日理科の時間。今回もどうも様子が違う。
また、笑い者になってしまった。

父親は決して僕をだましたわけではない(と思いたい。)
昭和6年生まれの父の時代には、セミはトリモチで捕まえ、それ以外は、クモの巣を使った網で取っていたのに違いない。

それから20年くらいたって、パプアニューギニアの原住民がクモの巣を使った網で海で小魚を採っている様子をテレビで見たとき、妙に親しみを感じた。



2000年問題担当者の悲劇 10
at 1999 08/28 01:58 編集

DKB,富士,IBJが合併するそうだ。当地の2000年担当者に連絡をすると「どうして、もっと早くやってくれなかったのだろう(そうすれば2000年問題対策も3分の1ですんだのに)」
昨年やっていれば、ユーロ通貨統合対応も3分の1で済んだ。
来年になれば御役御免だとは思っていたが、そのまま当地での、合併推進チームに移されるかもしれない。
システムのチェンジフリーズというのがあるが、いつまでも帰国できず、ジンジ(人事)フリーズだ。
2000年問題担当者の悲劇





柿の木の話
at 1999 08/29 20:20 編集

小学校のときに、「惑星の一生」とかいう本を読んだ。最初はガスの固まりだったものが集まって星になり、最後には爆発して一生を終わるというものだった。これを読んだ僕は、結構パニックして、「地球が爆発する。ロケットを作って宇宙に脱出しないといけない。」
ということで、学校の仲間と打ち合わせをした。
A君は、自動車修理工場にある古い自動車のエンジンを持ってきて、B君は、食料を持ってきて、そして、我が家の裏の畑にあった古い柿の木を切って、ロケットを作ることになった。
土曜日の予定の時間になると、集まったのは、僕の他には、C君だけ。とりあえず柿の木を切りはじめたが、子供の力では、古い柿の木は切れない。
結局あきらめて、母親の作ったホットケーキを食べて終わりということになった。
あれから30年、気がつかないうちに、柿の木は無くなっていた。



母の思い出 1 中耳炎の話
at 1999 08/29 20:44 編集

まだ、幼稚園のころだったと思う。
少年時代良い子で通っていた僕にも、反抗期はあった。親の呼びかけに応えなくなったのだ。
「どうして返事をしないの」「だって聞こえなかったんだもん」
母親はすっかり心配して、僕を耳鼻科に連れていった。
先生は腕時計を僕の耳に近づけると「聞こえるかい」「聞こえない」(僕はまだ反抗期だった)
「お母さん、これは中耳炎かもしれない。鼓膜の内側に水が溜まっているから、鼓膜を破らなければだめだ」
意地を張った結果は、両側の鼓膜を破る手術となった。まず、右。何日かしてから今度は左。右の耳は、手術後おとなしくしていなかったので、再度破られることとなった。
今でも耳が聞こえにくいのは、この時の手術のせいだと思っている。

耳鼻科までは結構遠く、7キロくらいの道を、(当時はまだ家に車がなかったので)母親と二人で、歩いて、あるいはヒッチハイクで通っていた。
雨の日も雪の日も通った。 帰りには母親はいつもお菓子を買ってくれた。

母親にとっては、これは強い思いでの一つになっている。20年近くたってから、「あれは、本当は聞こえていたんだよ」と告白したのだが、「いや、あんたは、聞こえていなかった」と取り合ってくれない。
母親の思い出を壊さないように、その話しは、それ以来していない。





母の思い出 2 おかあちゃん/ママ
at 1999 08/29 22:18 編集

うちのおかあちゃんは、結構恐くて、子供時代は良くひっぱたかれていた。
本当は僕は捨て子なのではないかと思ったこともあった。
500円札を握り締めて、家出したこともあった。(外が暗くて恐かったので、玄関前の車の陰に隠れていただけだったが)
当時、寝室の破れたふすまが、婦人雑誌の切り抜きで直してあった。それはちょうど僕の頭のところにあり、きれいな女性が微笑んでいる写真だった。
「きっとこの人が僕の本当の母親に違いない」
夜寝る前にいつも、その写真を見ては「ママ」とつぶやいていた。



健康管理センターの話 1
at 1999 08/29 23:01 編集

東京の本社ビルの13階だか14階に、健康管理センターがある。健康診断や、いろいろな診療をしてくれる。
体があまり元気でない僕は、本社勤務だった時に良くお世話になった。
ある日、左足の親指が突然痛くなった。地下の本屋に行って「家庭の医学」で調べると、どうも痛風のようだ。最終的に死にいたる恐ろしい病気だ。
あわてて、健康管理センターに向かい、「先生、痛風かもしれません」
「あれは贅沢病ですが、そんな食生活していますか」
ぺいぺいで、給料も安く、独身寮に入っていた僕にはそんな感じはなかった。
「一応血液検査だけしておきましょう」

翌日、検査の結果が出る前に僕は健康管理センターにいた。
「先生、靴が小さいと、足の親指痛くなりますか?昨日の靴、新しい靴だったんです。今日は痛くありません」
「....」
めでたし、めでたし



母の思い出 3 しもやけ/ゆきやけ
at 1999 08/30 23:23 編集

うちの母親は、霜が降りる頃になるのが「しもやけ」で、雪が降る頃になるのが「ゆきやけ」だと僕に教えた。

スキーから帰ってきた友達との会話
「やー良く焼けたね。スキーに行ってきたの?」
「そうなんだ、ゆきやけだよ」
「じゃあ、かゆいだろう」
「.....」