夜と霧

迷える子羊
ーこの場を借りて自分の考え方を確立したいと思っていますー

自民党VS民主党  その二

2009-08-27 18:16:16 | Weblog
私たちはなぜ戦前の二大政党を忘れたのであろうか?
一つにはアメリカの言う民主主義があったからであろう。戦前は民主主義ではなかった。民本主義であった。戦後アメリカの占領を経て、つまりアメリカが言うがままの民主主義を此の国に定着させるという過程で、民本主義も民主主義も共にDemocracyの訳語であることを忘れた。従って、民本主義の元にこの国に二大政党制があったことを忘れてしまった。
さらに、政権を常に担当する自由民主党と万年野党の社会党という構図が長く続いたことは昔の二大政党鼎立の記憶を遙か遠いものとしてしまった。
実際の感覚として、二大政党鼎立を理解できる人はいないであろう。私たちは一元支配に慣れていて、気分転換に政権交代を待ち望む気分になっている。
私たちは、かつての二大政党の失敗に学習することなく、二大政党をに新しいものとして待望している。過去を反省する機会を失してしまった。政党政治に終止符をうつ契機となった天皇機関説問題、政友会代議士鳩山一郎は特筆すべき役割を果たしたと思う。政争の具として、倒閣の具として機関説で美濃部達吉氏を激しく攻撃した。
今民主鳩山代表で政権交代が行われるとすれば、国会というものの皮肉を感じる。私たちは、政治はショーでないことをしっかりと思い起こす必要がある。戦争を仕掛けておきながら被害ばかり言い立てる見下げ果てた国民となることは繰り返してはならない。

自民党VS民主党

2009-08-27 17:58:06 | Weblog
今回の選挙、政権交代が目玉であるという。前回は郵政選挙であった。選挙に目玉があること自体話をいかがわしくさせる。しかし、法律の教科書の言葉を借りて表現すれば、最近の選挙、総論がなくて各論ばかりである。
理念が政治にないことは、ある意味問題がなくてよいことなのかもしれない。しかし、選挙で当選することばかりが目標の各論はいささか寂しい。
学生時代、英国風の二大政党論があって、それはそれで憲政の理想とされた。私たちは、学生運動に注意を払う一方で、或いは傾斜する一方で、二大政党制というものにあこがれた。その当時私たちの国は二大政党の経験はないかのごとく喧伝された。しかし、戦前民政党と政友会のように二大政党の経験もある。そしてそれが、戦争への道を開いたことも知っている。国は如何にあるべきかの思いなくして、ひたすら眼前の利害得失をおい、政争に明け暮れた。軍をよいしょし、増長させたのもその政争であった。
そんなことを思うとき、今回、二大政党の成立の可能性が迫ったとき、一抹の不安に駆られる。政治が選挙に終始するのではなかろうか?

老人問題 その三

2009-08-25 16:32:32 | Weblog
老人介護の設備が足りないまでも増えている。これは介護という機能のみに着目すればきわめて効率がよい。しかし老人の立場からすれば、これは体のいい姥捨て山の増加である。老人だけを隔離する。
かつてのハンセン氏病療養所、結核病棟、精神病棟、、犯罪者に対する刑務所、そんな施設をどこか感じさせる。
人は人と人との関わり合いの中で喜びを感じる。赤子の顔を見て思わず笑みを漏らす。若いアベックを見てほのぼのとする。それが人間である。人間は多様な年齢層の関わり合いである。
老人だけの社会、それは賢人だけの社会と同様におもしろみのない味けのない社会であろう。
道を急ぐサラリーマン、そこに老人がいないことは、生産という観点から望ましい。似たものを集めて、似た機能を最大限発揮させる。効率は、生産に限って言えば、著しく向上する。
老人隔離を始める世界第二の経済大国、どこか寂しい。そして、どこか非人間的でもある。

老人問題 その二

2009-08-24 10:29:10 | Weblog
年よりの問題はまず家族の問題である。もちろん家族の負担になから大変だ、それが問題だという以前に責任の所在という面でケアは家族の責任であると言うことである。赤の他人に世話を焼いてもらうより、長く暮らした家族が親身になって世話をする、これが大事であろう。
私にも父母がいる。しかし、二人で暮らして子供に頼ることもない。よく言えば自立した老人二人であろうが、勤めにかまけて年老いた父母を放っているという面もある。結構地方から都会に出た人たちの中には私のような有り様が多いのではなかろうか?高度成長の中で高校を卒業し田舎を離れ大学に入り、都会に就職した。外貨を稼げと言われて、海外に出張した。そして、気がついたら東京になじみ、田舎で暮らすのが難しくなっていた。父母のことをのぞけば田舎には居場所がない。
そんな中で、私は父母のケアをするという責任に逡巡している。まだ、お上の世話になろうとは思わないまでも、私の責任を積極的に果たそうとしていない。
現在のところ、介護にはこのようなケースが多いのではなかろうか?私のマンションにあっても、やはり面倒なことはお上にという態度、介護サービスに頼るという態度はしばしば目にする。
高度成長の中でできた核家族という家族のあり方、これは果たして人間的なことであろうか?親といえどもその面倒な側面、ケアという面は回避しようとする態度、この無責任な態度は私も反省しないといけない。国や地方の政府を論難するだけが正しい態度とはとても思えない。私たちのあるべき姿を考えてその態度を維持し、その上で政府のすべきことを考える。それでなければ、国民すべて介護ゴロとなってしまう。国民すべて、その責任を果たさぬ無責任な正しからざる国民となってしまう。

高齢化社会の問題

2009-08-23 12:58:12 | Weblog
この問題は政治、経済の問題として論じられることが多い。社会福祉の焦点でもある。
老人だらけの社会、個人の観点から見たとき何が一番の問題となるか?私は医療も、年金も大きな問題であると思う。
しかしもっと大きな問題がある。
個人に責任を転嫁するつもりはないが、『挨拶できない老人』は一番の問題では無かろうか。口べたは口べたなりに挨拶する。本当に『挨拶できない老人』が居る。社会性を失った老人が居る。子供が挨拶をしないのは躾の問題であるが、老人のそれは躾ではない。社会性のなさである。
私の住むマンションもご多分に漏れず高齢者が増えている。同じマンションに住むという気楽さもあって私は気楽に挨拶する。先に挨拶しないまでも私が挨拶すると多くの人が挨拶を返してくれる。
一方ブスッとして、挨拶を全くしない老人が多くいる。反応が鈍いという老人特有の問題もあるであろう。また人との繋がりを求めないという都会にありがちな態度もあろう。
都会の中で社会性を失って、如何にして生きていくのだろう。時として近隣が助けることもあるであろう。孤独死を管理人さんが対応する事もある。社会性があると言うこと、それはこの社会の中できちんとバランス感覚を持ってSOSを発することが出来る能力である。社会に参加する有り様である。
若者よりも挨拶できない老人に気づくとき、いささかの不安に駆られてしまう。

国益を論議する。

2009-08-22 08:37:35 | Weblog
今の政治に、これが一番欠けている。政治は価値配分である。しかし、如何に配分するかは、いかなる配分が国民にとって一番よいか、そこのところの共通の意思が要る。
昔日本が飢えた頃は、今となっては実に馬鹿げた考えであったと思うが、米を食うとバカになる、パンを食えなどという共通理解があった。この為、アメリカの余剰小麦の輸入が促進された。日本人の体力は劣っており、これはカロリー劣悪、卵に肉類、これを食わないと先進国に追いつかない。これは今考えれば、迷信であろう。
しかし、高タンパク高カロリーの食生活、間違いといえども、ベクトルが合った共通の意思であった。これは全部の原点ではないかも知れないが、国際分業論、高度成長のイデオロギーをなした。先ず国民が飢えないことが国益であった。
今この国の問題は何か、高齢化である。これが、北朝鮮が攻めてくるかも知れないと言う可能性よりもはるかに大きい国難である。
高齢化とそれに伴う福祉、この問題を如何に捌いていくか、そこのところを、かつて内容を間違えたとしても、私達がその日の食べ物を考えの中心に据えたように、今は話しの中心に据えて考えたい。
国を圧迫するものは、今や国防ではなく福祉である。
場合によっては、老人は死ぬしかないと言う解決もあるかも知れない。しかし、高齢者も生きていることを楽しめる、これが今の国益の中心に座るべきであろう。

救急車を有料にする

2009-08-21 10:55:10 | Weblog
救急車、この車が無料の車であることに合点がいかない。この時代に無料で乗車できる。一体いかなる考え方で無料にしているのであろうか?
無料故にタクシー替わりに使う人がでてもおかしくはない。腹痛で救急車を呼んでも不思議はない。勿論受け付ける人は相手が見えないから、場合によっては生死が関わっていることもあるから、やはり出動を考えるであろう。
救急車が無料なのは緊急自動車であるからであろう。この意味で、緊急出動が必要という意味で、消防車、パトカーと同じ性格を持っている。
しかし、救急車の場合は受益者が居る。個人が救済の対象である。出動の対象である。消防車は消火のためとは言え、場合によっては類焼し、多くの人が焼け出される可能性がある。同じ消防署の扱いであっても、公益である。
救急車はあくまでも特定の個人である。特定の個人の受益のために公費を支出するのは間尺に合わない。
ここはやはり、医療費の一部と考えて、有料とするのが筋であろう。取れるところから取るという考え方もあるが取るべきところから取る、これも財政健全化の一歩である。

追記
昔、静岡の朝日岳に登り下山したとき、遭難者の救出で、男手は部落総出であった。その時麓の集落の女性が、「下手に県警のへりを頼んで、県警のへりが出払っていたら、民間のへりを県警が呼ぶ。そうすると、救助は有料となる。一度遭難者が治ってから、なんで民間のへりを呼んだんだと文句を言いにきて困った」と言っていた。
取るべきところから取る、ここを考えておかないと、そんな理不尽も起こる。

簡保の宿払い下げ問題

2009-08-17 07:11:13 | Weblog
鳩山元総務大臣の辞職、西川社長の続投で幕を引いたこの事件、みんな忘れてしまって、後日談がわからない。
規制緩和の唱道者であった宮崎オリックス社長が郵政民営化をとりまとめた。結果、簡保の宿の払い下げまで突き進んだ。簡保の宿、まとめて払い下げようと計った。
そして、払い下げの段になって、入札になって、オリックスの宮崎社長が口をあんぐり開けて待っていた。落札は一時オリックスに決定した。
これを短いストーリーにすると、自分で払い下げを決めて、自分で買った。決める途中でその利に気がついたのかも知れないが、氏が規制緩和の委員長であった事実、オリックスの社長である事実、李下に冠を正さずの観点からすればやはりおかしい。取りようによっては、民間が利権の払い下げを決めて、民間が利権を得ようとした。
民間のことであるから、情報開示の義務もない。民間同士の取引として、私達国民の財産なのに、未だにうやむやのうちにある。
そろそろ後日談が欲しい頃である。

核の傘

2009-08-13 11:02:09 | Weblog
この言葉は米ソ対立が無くなって死語になりつつある。
正直、今、気になる国は北朝鮮だけでは無かろうか?
これだけ世界が一体化してくると、核で脅すなんて言う無法、また核で対抗する野蛮はなかなか成立しにくい。また、核を行使すれば相互に依存し合う現代の経済構造では、やがては自国も滅んでしまう、相手がなくなれば自分もなくなるということを多くの国が自覚している。
核兵器、これを使ってみようと言う国は北朝鮮ぐらいであろう。
すると北朝鮮、アメリカの核を恐れて自粛するであろうか?私はこの国はそんな分別のある体制ではないと思う。分別がないということは、自由に核を使用する恐れがあるということだ。乱暴な仮定かもしれないが、傘などお構いなしに、彼の国はミサイルを飛ばす恐れがある。
核の傘が全く効かないことになる。
核の傘を前提とする防衛論議、これが無力となっている。日米同盟を考えるとき、核の傘の視点は全く意味を失った。ある意味で不幸なことかもしれないが、しかし私達の思考の範囲は、選択の範囲は広がった。

外国人労働者の救済

2009-08-12 09:38:44 | Weblog
ここしばらく自動車産業の盛んな北関東、愛知県などで外国人労働者の失業が問題となっている。失業者の多い市町村はそれなりの対策をしている。
問題を自動車産業に限れば、車を輸出できなくなったので、減産、派遣労働者だけではなく不要となった外国人労働者も解雇という流れとなる。街には失業し、行き場を失った外国人労働者が溢れることになる。
輸出が好調で、労働力不足が喧伝されたときは、この国に如何に外国人を入れるか、そんなことばかり経団連は言っていたような気がする。日系日本人は、日本国籍を持つから良い、中国は技術を移転させるために、研修生、実習生で受け容れる。そして、この国の原則をゆるめたところで、今回の不況である。
産業界は手のひらを返して、解雇する。一寸調子がよすぎるとは思うが、更に調子がよいと思うのは、失業後にその負担をするのはこの国の国民である。町々の人々である。負担はしたくないから企業は解雇した。だから当前と言えば当前の所作である。しかし虫がよすぎる。
輸出が出来なければこの国が終わるかのごとく言い、外国人労働者を輸入して、車を輸出する。車を売るだけ売って、売れなくなったら海外から来てくれた労働者を路傍に放り出す。良いときの利益はきちんと懐に入れ、悪いときのコストは国民に押しつける。そして、はるか遠くからやって来た人達はもっと苦しむことになる。
私達の経済にとって長い目で見たとき良いことだった?企業は賃金を払って金を稼いだ。国民はその後の諸々の経費を払う。国民の損益はどうなる?