夜と霧

迷える子羊
ーこの場を借りて自分の考え方を確立したいと思っていますー

雑草について

2010-05-31 22:36:27 | Weblog
雑草という草はない。
至って自分勝手なネーミングで、気にくわないときに雑草にする。
世界では約2千2百種の植物が食用として栽培されているという。
日本では4百20種だという。
食用にしない物は雑草かも知れない。
食用にする植物の成長を妨げる植物が雑草かも知れない。
私たちの都合である。
このご都合主義、テロとの戦いを唱えたブッシュにも言えるかも知れない。
自分たちの都合に合わなければ、例えそれが人類の一員であろうと保護するに値しない。
しかし田んぼで草を引いてみればわかる。
なすび畑に育つトマト、これも一面、雑草である。
が、雑草という草はない。
また再び日本人も雑草と見なされる日が来るかも知れない。
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イギリスの若き首相

2010-05-29 05:12:21 | Weblog
英国は若い相が現れる。
お名前を失念したが、現英国首相、この人は若く優れていそうである。
英国という風土、若い人を育てるのが上手なのかも知れない。
私たちの国では若いからと言って人をもて囃すことがあった。しかしそのしっぺ返しをよく受けた。私たちは若い人を育てるのが下手であった。
私たちには若い人を育てる努力が要るのかも知れない。
若いだけではいけない。老人が情けないからその反射として若い人をもて囃してはいけない。
老いであれ若きであれ、指導者には優れた人が欲しい。
そして優れた人を求める選択の中で、始めて若い人の登場がある。若さは老人の憧れにとどめるべきであって、人の選択の標準たり得ない。
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福島社民党党首殿

2010-05-28 21:52:15 | Weblog
夏の参院選は社民党にします。
政権の問題ではありません。
人として誠意の問題です。

鳩山といういい加減な奴と連立を組んだことはお気の毒と思います。
間違っても民主党には投票しません。

追伸
政治の基本は嘘をつかないことだと思います。
自民党でもここまでの無茶はしなかった。
嘘も百遍言えば本当になるとヒットラーが言いました。
信念無き嘘つきを首相にした先見の明無き国民でした。(反省)

再追
私たちは時として嘘をつく。
政治家は嘘になるとわかっていて発言する。
どちらも嘘である。
要は誠意にかけている。
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鳩山首相は嘘つき。(普天間基地問題)

2010-05-28 21:24:51 | Weblog
鳩山首相、あなたは嘘つきだったのですね。
嘘をついたとき、多弁は見苦しい。
今日のインタビューを聞いて、統帥権干犯を言い出しこの国を破滅に導いたお爺さんを思いまします。
お祖父さんは憲法論に言及して、この国の統一を壊した。
福島大臣の罷免で、学会では常識であった天皇機関説を罪として東大教授憲法学者美濃部達吉を罷免したあなたのお祖父さんを思い出しました。これは学会における政治主導でした。
あなたの一族はこの国に祟る。
戦前幾つかの疑獄で私財を貯め、小作争議の当事者大地主であった。
あなたは沖縄県民に期待を持たせた。そして裏切った。国民には嘘をついた。
この嘘は大きい。原理原則のないその場しのぎ、発言の持つ意味を理解しない、統帥権干犯を言い出しこの国を破滅に導いたお爺さんに似すぎるぐらい似ている。
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民主党は何故失敗したか?

2010-05-28 04:56:39 | Weblog
およそ存在するものには意義がある。
徒に生まれたわけではない。その時々の必要があって生まれた。そして生まれた以上成長したいと思う。成長させたいと思う。
存在する意義は常に存在する。
そんなことを考えず、民主党は全部を否定することから始めた。深く考えること、ビジョンを提示し、そのビジョンに照らして主査洗濯するという努力を怠った。
ここに民主党は失敗した。そして野合し政策のてんこ盛りをやってしまった。
だましだましやって来たことを面倒くさいから十把一絡げで否定してしまった。
そして悪のりして金もないのにばらまいた。
連坊などという表計算の才女も起用した。台湾生まれが悪いわけではない。しかしこの国の人たちが今までしてきた苦労を理解出来ない女(ヒト)である。
こんな女が登場するのは、私たちが本当に考えることを放棄した証左である。
悪いことばかり見いだそうとすれば、最後までこの国には悪いことがある。失敗多き民族であったとしても私はいい面を見て、そしてその中での最善を求めたい。
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差別と選別 その三

2010-05-27 05:08:50 | Weblog
保母さんも大学を出る。看護師も大学を出る。
甚だしきは百姓も大学を出る。
昔は上の学校に行けない百姓の子が百姓をするものと決まっていた。
裁縫、これも今や大学で教えるらしい。
しかし学術を極めなくても、こんなことは大学を出なくとも出来るのでは無かろうか?
逆に大学を出たからと言って裁縫上手とも思えない。
平等というコンセプトが、人は生まれながらにして平等という嘘になり、社会が不平等をもたらすと言う嘘をつき、全て学びは大学というラベルで誤魔化してしまう。
そこで大学教育という実際の内容が失われてしまった?もっと言えば、教育が卒業というラベル貼りに終始する羽目になった。法学大学院などいい例だ。大学など出なくとも法律に優れて、司法試験にパスし、司法界に進む人がいた。今はお金を使って大学院を出なければ司法界に進むことなど出来ない。ギルドを避けようとしてギルドを作る。
平等という概念は人にはいろいろ違いがあるけれど、平等に生きる権利を、例え不虞の人であろうとも保障しようという私たちの理想であった。徒に人は同じという現実認識ではなかった。個性を尊重する考え方で、みんな同じという考え方ではなかった。
法は様々な個人を尊重して等しく扱うという理念であった。
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差別と選別 その二

2010-05-26 20:44:34 | Weblog
差別がいけない、これは通念であろう。選別がいけない、これも通念であろう。
しかし、人には自ずから違いがある。時代によって「人がもて囃す違い」は異なる。
これをわかりやすくしようとすれば美人画を見ればよくわかる。
平安美人が今の時代に現れれば美人であろうか。クレオパトラは今の時代美人であろうか?私は見返り美人の艶っぽさが好きである。が、果たして何人の人が色気を感じるであろうか?
違いは、或いは個性は乗り越えようとして乗り越えることの出来ない物である。そして、差別、選別がいけないと言うとき既に人は差別している、或いは選別の感情を働かせている。
この感情をごまかして、正論を吐く。
ここまではまあ、単なる偽善の態度であってやむを得ない。
しかし、この偽善を上手く社会化しないと、人には無限の可能性があるというような嘘をつく。無限の可能性とは何か?みんながノーベル賞を貰えるかと言えばあり得ないことは自明であろう。
教育システムには人の才能を伸ばすという機能とともに、その子の社会的な位置を知らしめるという役割がある。この社会的な冷たい役割に目をつむり、いつまでもあきらめきれない大人を作る、これが大学を徒に増やした罪である。
社会教育は単に社会的な物、それだけである。そこを忘れて普遍であると思えば、人を損ない、社会に害をなす。
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差別と選別

2010-05-24 20:54:15 | Weblog
この言葉、いずれもマイマーな響きがある。
昔朝日新聞が「教育の森」という特集を組んだ。
差別も選別もいけない。そんなことであったが、そのよって立つところは示さなかった。
差別も選別も価値判断である。価値判断である以上、その判断基準がある。今基準を思い出そうとして思い出せない。

しかし、いつの時代にあってもどちらを採るか判断することは必要である。
差別と選別がいけないと無条件に言うことはこの価値判断を明確にしてはいけないと言うことである。

工業高校があり、農業高校がある。他にも普通科以外の高校があった。それがいけないという発想が根幹をなしていたようなニュアンスがある。みんなが普通になって、みんなが大学に行く。しかし、本当に大学生だなーと思うような大学生に会うことは珍しくなった。
大学卒というレッテルが溢れ、学業を修得したというような卒業生は少なくなった。逆に東大生も普通になって責任感を無くして、貢献するという意味での社会性が無くなった。
学業という一芸に秀でることを個性として理解すればよかった。それを普遍的な物として批判して世の中を出鱈目にしてしまった。
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補助金のいろいろ。

2010-05-20 05:29:13 | Weblog
補助金はいろいろある。
補助金の功罪は援助することによって実力以上の繁栄をもたらすことであろう。
ところで一番非難されているのは農業に対する補助金であろう。補助金故に農業が海外の農業者に互して戦う体質が出来ないという。補助金故にひ弱であるという。
現在売り上げ効果の大きい、自動車に対する、電気製品に対するエコはどうなるのだろう。これら対しては、産業に対する補助金そのものに対する非難はなく、ただ景気対策として効果があがるかどうかの視点でする批判だけである。
しかし歴然たる産業への補助金である。
補助には土木工事もある。建築工事もある。輸出産業に対する通貨対策もある。この補助金は莫大な金額であろう。この補助金が現在の財政赤字の原因であろう。農業など物の比ではない。
繰り返しになるかも知れないが、私たちは、農業以上の補助金が他の産業につぎ込まれているのを知っている。しかし、どうしても補助金という時農業に目がいってしまう。
何故だろうか?
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先進国は農業を助成する。

2010-05-19 04:34:33 | Weblog
農業に対する補助金は先進国であればあるほど多いようである。
アメリカでは実際の農業生産にほぼ等しい金額が補助されていると聞く。
欧州ではそれ以上のようである。日本では半分である。
逆に発展途上国に補助金があると聞いたことはない。
考えてみれば、これは当然かもしれない。
先進国には補助金を出す余裕がある。食料を自由にしたいであろうし、自国民を飢えさせるなどとんでもない。産業間バランスの問題もある。発展途上国は逆である。産業は農業が主であろう。すると農業に対する課税はあっても補助などあり得ない。時として自国で食べる食料よりも輸出に充てる農産品が欲しい。
私たちがコーヒーを飲む分飢える子供が出来る。発展途上国からの食料の輸入はそんな矛盾がある。逆にアメリカの小麦を買うときアメリカ政府の日本政府以上の補助を受け取ることになる。
こんなWTOの枠組みの矛盾も論理的に考える必要がある。農家に補助を出す、農産物に補助を出す、国境を越えると大きな違いはない。そして、発展途上国が飢える枠組みも見直したい。

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