23日は朝から雪になりました。
さらさらと降り始めた雪が、やがてぼた雪となり冷たい雨となって、うすく雪化粧した街をところどころ土色に変えてゆくのを、こたつで縮みながら眺めていました。こんな日は、みかんと猫がほしくなります。
古炬燵母の苦労を思ひけり (雪月花)
雨になってしまう前にと、あわててダウンジャケットを羽織って中庭に飛び出し、綿ぼうしをのせた水仙の花を写真におさめました。思わぬ重荷に耐えかねて花はみなうつむいていて、花の下にカメラをまわりこませて撮影するのに苦労しました。雪の中にしばらくいますと、花の香、草木のにおい、雪のふる音、こぼれ落ちるしずくの音まで、五感があらゆるものをとらえるようになったようです。
前回お話した「空」と「無」について、ささ舟さんからさらに詳しいお話をいただきました。とても分かりやすいので、そのまま次に載せますね。
(『般若心経』に)「無」は21回、「空」は7回出てきます。
この世のものはいつかなくなる。ゼロになります。これが「無」の状態。けれど何もないわけではない。一見何もないように見える空気の中に、目には見えないあらゆる元素がつまっています。このことを「空」といいます。「空」は打ち出の小槌みたいなもので、森羅万象を表し、「無」でも「空」なのです。つまり「空」は何でもあるという意味で、「空」を思えば、すべてが生まれてくると考えられるでしょう。(大栗道榮師の法話より) |
「空」からすべてが生まれる。そこに、“み仏の御はたらき”があるのかな、と思います。
そこで、仏教について、もうすこし考えをすすめてみることにしました。
● 「ありのまま」
いつのころからか、仏教のことを考え、仏語(仏教に関する言葉、み仏の教え)にふれるようになりました。主人の家は曹洞宗、実家は日蓮宗で、最近は禅の教えに惹かれていますが、とくに帰依したり信仰する宗派はありませんし、団体にも属していません。ただ、古典や和歌を学べば中国の漢詩・文献にゆきあたるように、日本人のこころについて考えを深めると仏教にたどりつく‥という、自然のなりゆきです。
「宗教は信じない、頼るつもりはない」「神仏に帰依して救われたい、大願を成就したい」と聞きますけれども、(ほかの宗教はどうあれ)仏教は、信じる・頼る・すがるためにわざわざ意識するものではないようです。さまざま悩み、病に侵され、逆縁や不幸に襲われたとき、人はその苦しみを表情に出さず、耐え忍び、こころをなんとか落ち着かせようとするものですが、そういった行為こそが、そのまま仏の教えと結びつくように思えるのです。とすれば、誰もが日々仏教的体験をしている、といえるかもしれません。これは言いすぎでしょうか。
禅の本などを読んでいますと、“意識”というものは仏の教えにそぐわないものだと気づきます。人は頭で考え意識して物事に取り組みますが、その意識があるばかりに煩悩に悩まされるというのですね。このことは分かります。幸せになりたい、ゆたかになりたいと願うばかりに、不幸であること、お金が無いことをつらく思うわけですから。では、次のように換言します。「幸せになりたい、ゆたかになりたいと願わなければ、つらい思いをしない」‥つまり、何も求めない、現状を受けとめる。これが仏教のいう「ありのまま」「知足」ということのようです。
● 即心是仏
ところが、その「ありのまま」がむつかしい。仏教では、そのことを「水に月が宿るように」といっていますが、水に月が宿るのはどんなときかを考えれば、たやすいことではないと分かります。月の姿をそのまま映すには、水面は鏡のようでなくてはなりません。わずかでも風がたてばさざなみが広がり、月の姿はゆがんでしまうからです。2500年前に、この世で初めてこころの状態をつねに鏡のように保つことができたのが、仏陀でしょうか。
仏陀を「覚者」といい、真理を体得した人といいます。真理とはまさに「ありのまま」をいうのだと思いますが、この世は真理であふれているのに、わたしたちは煩悩にふりまわされているため、こころはいつもゆれていて真理を映すことができません。では、「ありのまま」受けとめるにはどうしたらよいか。
ここで、仏陀を表す「覚者」の「覚」ということに注目します。「覚ます(醒ます)」は、辞書に「眠っている状態から意識のはっきりした状態にもどす」とあるのですが、ここではちょっとちがう。「頭のはたらき(意識)を抑えて、眠っている五感を覚ます」といいましょうか。わたしたちが、忙しいときにふと手を休めて目を閉じたり、空を仰いで背伸びをしたり、焦る気持ちを抑えて深呼吸をしてみたり‥そうしたときに、ふとよみがえる感覚のようなもの。日の光、雨のにおい、ここちよい風を感じて気分がさっぱりしたり、呼吸をととのえて落ち着きを取りもどす。そうすることで、忙しい社会に生きるわたしたちはなんとかバランスを保ち、正しく生きていけるような気がします。ですから、もしこの「覚ます」という行為をもうすこしうまくできるようになったら、あらゆる事態にも冷静に向き合え、いまよりも安らかにくらせるのではないかしら。
月を月ととらえるのは、自分自身のこころであって、それ以外のものによるのではない。仏の智慧とは、そんな卑近なことなのかもしれません。
先日、「
インターネットテレビ ともいき」というサイトを見つけまして、時折見ています。見るだけでなく、目を閉じて耳をすませたり、感じるものをつかもうとします。考えることはしません。といって、受け身でなく、五感を覚ますことに努めることがたいせつ。これは、自然を離れて都市にくらす者の哀しさではありますけれども‥。映像も音もきれいなので、ご興味がありましたらみなさまもアクセスしてみてくださいね。そのときは、パソコンの音声を「ON」にするのをお忘れなく。みなさまのこころに、月が宿りますように。
【インターネットテレビ ともいき】
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ともいき 二十四節気日本
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ともいき かえで二十四節気日本
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ともいき 雪月花
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