雪月花 季節を感じて

2005年~2019年
2019年~Instagramへ移行しました 

雛送りによせて

2008年02月29日 | 筆すさび ‥俳画
 
 今日は閏の29日。地球が四年をかけて貯金してくれた貴重な一日ですから、たいせつに使いたいですね ^^

 二月の初めより、壁の塗替えのため窓が開けられない状態がつづいていましたが、一昨日ようやく足場が解体され、ひと月ぶりに気兼ねなく窓から風を入れることができました。よく見ますと壁だけでなく、バルコニーの内側や物干竿を掛ける鉄製の台もきれいに塗り替えられています。風のつめたい季節ですから、住人は窓を開けなくてもなんとかすごせますけど、この時期を選んで長期にわたる作業をしなければならない現場の方々のご苦労がよく分かりました。いまは感謝の気持ちでいっぱいです。毎日町を見下ろす高所で作業をしながら、春の光や風を感じる余裕はあるのでしょうか。


 春一番が吹きました日、百貨店の雛飾りとランドセルの特設会場を横目に見ながら、子どものころの楽しみをなつかしく思い出しました。所せましと並んだ雛飾りは桃の花がいっせいに開いたような艶やかさですし、色とりどりのランドセルはチューリップの花束に見えます。でも、ランドセル売場は家族連れでにぎわっていましたのに、雛飾りのほうはもう買い時がすぎたのでしょうか、客の姿はありませんでした。ゆくあてのないあのお人形たちはどうなるのでしょう。
わたしの赤いランドセルも雛人形も、実家に置いたまま。今年もまた暗い押入れの中でひっそりとすごすランドセルと人形たちのことを考えますと、申し訳ない気持ちになります。

 子は嫁ぎ母と残さる雛かな (雪月花)

 代わりに‥というのではないのですけど、俳画教室で習いました「流し雛」を飾っています。昨年は複数組の人形を竹にはさんだ流し雛でしたけど、今年は桟俵(さんだわら)にのせた一対の紙人形。どちらも鳥取県の郷土玩具とうかがいました。鳥取市の用瀬(もちがせ)では、三月になりますとあちこちの店頭にこの流し雛が並び、旧暦三月三日に菱餅や桃の小枝を添えて千代川(せんだいがわ)に流すそうです。この行事に使われる桟俵と紙人形は、いまも用瀬の人たちがひとつひとつ手づくりしています。
 
 このような雛送りの行事は、ご存知のとおり平安期の「ひいな遊び」と人形(ひとがた)流しを原型とする禊祓(みそぎはらえ)のひとつです。三月三日だけでなく、わたしたちはあらゆる場面で身を浄めるための水をつかいますから、身近にある清らかな水の流れと日本人のくらしはつねに密接な関係にあります。昨年の「暑中お見舞い」の記事に、水に恵まれたくらしの中で水と親しみ、水流のごとくさらさらと流れる時に身をゆだねるという処世術を、わたしたち日本人は身につけているということを書きましたけれども、それを逆説的にいえば、水を失うことは日本人にとってとても危ういことなのでしょう。

 さまざまのもの流れけり春の川 (二柳)

 二柳は芭蕉を慕い、生涯を芭蕉の顕彰に尽くした江戸期の俳人です。この句から芭蕉の「さまざまのこと思ひ出す桜哉」が想起されますが、「‥流れけり」という作者の気づきと感動が新鮮で、何度詠んでもひかれます。厳しい季節を耐えたものにとって、春の川を流れるのは雪や氷だけではないのでしょう。


ひなあられ

 日本の各地にたくさんの河川や湖沼があり、それらがもたらす恵みの大きさに気づいていたわたしたちの祖先は、水への信仰を深め、それが宗教(仏教)と結びついた例もすくなくありません。何かにいきづまったり、ひどく疲れたり、人間関係に悩んだりするとき、水辺に立ったり川風に吹かれながら歩くことで自分をとりもどすことを、誰もがきっとしてきただろうと思うのです。ひとりでいることのたいせつさを、無意識ではあってもちゃんと知っているからでしょう。人の不幸のほとんどは自分ではない別の何かと対立したり比較することから始まります。その苦しい関係を断ち切り、自然とのつながりの中に身をおくこと。それは、対立や比較を生みやすい多元の世界から、すべてが等しく同じ根源をもつという一元の世界への出発点なのではないでしょうか。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 和のくらしへ 

 一筆箋 ‥季節のおたより、当ブログへのご意見・ご感想をお待ちしています