キタカゼとタイヨウ

「意識不明の重体」「重症びまん性脳損傷」から奇跡的に回復、社会人になった息子のこと。母の読書記録などなど。

父が逝きました

2020-03-13 21:29:06 | 父の肺がん闘病記
2月の末、父が逝きました。
肺がんを宣告されてから約半年。
逝ってしまいました。

父が入院していたのは緩和ケア病棟
ここは、本人ががんの告知を受けていること、
積極的な治療はしないこと
延命もなし
などの条件を満たしたがん患者がんのみが利用できる。

痛みのコントロールができたら、自宅へ連れて帰って
訪問看護師さんやヘルパーさんの手を借りながら、最期まですごそうと思っていた。

でも、入院した時点でもう父の状態はとてもとても悪かった。
痛み止めの組み合わせや量を変えても最期まで安らぐことはなかった。
骨盤に転移したがんが、骨を溶かし
最後に撮ったCTには、骨盤の多くの部分が破壊された様子が映っていた。
血中に溶け出たカルシウムと、モルヒネの副作用で
せん妄がひどかったけど
それでも、父は最期まで父らしかったと思う。

コロナ騒ぎが始まって、面会が制限された後も
緩和ケア病棟に限っては、家族の面会が許され、
父が逝く前日の夕方には全員(14人)が揃った。

看護師さんが、みなさんで泊まられてもいいですよ

と言ってくれたけど、母と私と上の妹が残った。
夜遅くなって、父の呼吸に間が開くようになったので、下の妹を呼び
母と私たちで、父を看取った。

1時間おきに様子を見に来てくれていた看護師さんが

間もなくですので、皆さんが納得されてからナースコールを押してください

と告げてから、数十分後、父の息が止まった。
5人でどのぐらいの時間を過ごしただろう。
ナースコールを押して、看護師さんを呼ぶ
確認した看護師さんが、ドクターを呼ぶ
そして、父の死が告げられた。

その晩の夜勤の看護師さんが
父の担当で、とてもよくしてくれたTさんと
私の同級生だったMさん。

Tさんはもちろんだけど
どの看護師さんも父だけでなく私たちのケアまで心を砕いてくれた。
いつもいつも賑やかな私たちを、見守ってくれた。

母がどう思っているかわからないけど
入院した1週間は、私たち家族にとってとても濃い時間で、
衰えていく父と穏やかにお別れする時間だったとそう思う。

何十年ぶりかで5人だけで過ごした時間
病室で父と何枚も写真を撮った
起きている父も寝ている父も泣きはらした目の母も、たくさん。
最後の動画はなくなる前日、母におかゆを食べさせてもらっているところ。

父が守ってきた家族を今度は長女として私が守る。

LINEに長女が「じいちゃんのばか」と言うアルバムを作った。
孫たちとのたくさんの約束を果たさず逝ってしまったじいちゃんは「ばか」なんだそうだ。

いつか何十年もたって、父と再会するとき
「おとーさんのばーか!」と私も言うかも。


頼もしい妹たち

2020-02-08 12:15:12 | 父の肺がん闘病記
父を床屋さんに連れていった後
気分転換に千波湖へ。

社会福祉士の上の妹と
義父を長いこと介護していた下の妹と
頼りになります。

ワタシは車椅子の押し方もへただし
さりげなく手助けすることも苦手なので
妹たちには感謝だわ。

毎日、池の回りを散歩していた両親には
最高の土曜日になりました。


告知149日目

2020-01-31 17:52:00 | 父の肺がん闘病記
昨日、電動ベッドが入り
今日、市役所から要介護認定の調査が来た。
肺が原発だけど
今のところ、上半身に問題はない。
腰と左足が全然ダメで
着替えも母任せ。

月曜日には訪問看護の看護師さんが来てくれることになっているので
少しでも父が過ごしやすく
母の負担が減るようになればいいと思う。



父の受診日(告知146日目)

2020-01-29 10:22:51 | 父の肺がん闘病記
骨転移の痛みがとれない。

モルヒネの量を増やしてもらう。

緩和ケア病棟の説明を
両親と妹と4人で聞き
介護ベッドを借りる手配をし
緩和ケア病棟の見学の予約をし
市役所に要介護認定の申請に行った。
一日がかり。

たまたま休みだった妹が一緒に行ってくれて、
心強かった。

介護ベッドは明日
認定審査は明後日

仲良しだけが取り柄の家族
まだまだ笑顔で父と過ごします。