労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

大分裂時代はなぜ来たか? その1

2007-12-11 02:05:39 | Weblog
現在、革共同中核派も党内闘争の時代を迎えているようだ。
 
 “諸戦線派”と呼ばれる市民運動を重視するグループとマルクス主義の切れっ端だけでも身につけていようとする“中央派”という対立の図式は、大衆運動を重視しようとする社労党の反乱軍=“協議会派”(現『ワーカーズ』+現大阪のingグループ+酒井雅巳氏のグループ+九州の松本氏や四国の飛鷹氏のようにのぼせ上がった中央委員)と“中央派”(林紘義氏の“ご一党”+われわれ“社会主義の頑固派”+地方の反協議会派)に分かれて世紀の大げんかを繰り広げたかつての図式そのものである。
 
 しかし図式は同じでも、内容はかなり異なっているようでもある。(というのは、現在、明らかになりつつあることは、階級対立の激化を促進させる政治的、経済的な要素が働き始めているからである。このような情況のなかで、“愚かな”ウサギは跳びはねることしかできないが、“賢い”ウサギが季節に合わせてその毛の色を変えるように、“賢い”左翼党派のなかには、その新しい時代に向けて、組織的、理論的な再編成を実施中のところもあるからである。)
 
 社労党について言えば、この“分派闘争の時代”のあとに起きた本当の党の分裂によって、党は半身不随となり、党活動が停滞する過程で林紘義氏とその“ご一党”は頽廃を深め、マルクス主義原理運動に傾斜しはじめて、(その内実はアダム・スミスやリカードといったブルジョア経済学への転落)、それに反発したわれわれがマルクス主義同志会から分離した。
 
 これを古いマルクス主義党派が時代の重みにたえきれなくなって自壊し、臨終の時を迎えて、その骸(むくろ)から新しいマルクス主義派が蘇生する過程と肯定的にとらえているのはわれわれだけで、われわれ以外の社労党の“破片”諸氏はどちらの陣営に属したにせよ、属さなかったにせよ、この“大分派闘争時代”について、もう少し違ったやり方があったのではないかと思っているはずだ。
 
 というのは当時の社労党の本当の多数派は、党の分裂は避けるべきだという“党の統一派”だったのであり、“党の統一派”は、“協議会派”のなかにも、“中央派”のなかにもいたからだった。
 
 だからわれわれのような積極的な党の“分裂促進派”は極小数派でしかなく、この点では、われわれは別の意味で“反中央派”でもあったのである。実際、当時社労党の委員長であった林紘義氏は電話で、何人もの“協議会派”のメンバーの名前をあげて、自分はこういう人とは今でも一緒にやっていきたいと思っているのに、余計なことをいうな、中央の説得工作のじゃまをするな、といってきた。(この時林紘義氏は、「横井君はこういうことになって内心喜んでいるんだろう」ということさえいった。何かわれわれが陰謀をたくらんで小さなボヤを大火にしているような言い方だが、もちろん、われわれが社労党の大分裂劇で果たした役割はほとんどない。分裂劇はわれわれ一般党員のあずかり知らないところで、生まれ、発達し、われわれの目にも見えるようになった時には、もうすべてが手遅れで党の分裂しか選択肢がないようなかたちでおこなわれたのであった。
 
 特に愛知ではこの頃、三河支部の支部長をしていた故宮崎洋子同志の病状が悪化(彼女は肺ガンの末期症状だった)し、明日おも知れない状態だったので党内闘争どころではなかったし、彼女は病床で最後まで党内闘争の行く末を案じていたので、われわれとしても公然と、“協議会派”の討滅戦に参加するという雰囲気ではなかった。)
 
 では、なぜ誰も望まない分裂劇が起こったのか?
 
 その疑問に答える前にまずいわなければならないのは、社労党の反乱軍=“協議会派”(“協議会派”の正式名称は社労党改革協議会であった。もちろん、このような会は党のどのような機関によっても承認されたものではない。)は、もともとから党の反乱軍であったのではなく、かつては社労党の“有能な”活動家群であったということだ。(少なくとも党中央、すなわち林紘義氏の評価という点では、われわれ“社会主義の頑固派”が党中央に叱られてばかりいる“問題党員”であったのにたいして、彼らは委員長である林紘義氏の期待を一身に背負った社労党の“優良党員”であり、“優良党員”であったからこそ、その主要メンバーは、中央委員であったり、中央執行委員であったり、地方組織の委員長であったりしたのである。)
 
 つまり、その当時の社労党の指導部は、われわれが一時期「バカ六人組」(失礼)と呼んでいた林紘義氏の“親衛隊”と“協議会派”の主要メンバーが党の指導層を形成していたのである。だから、社労党の大分裂は一般党員の目が届かない党指導部の分裂から始まったのであった。それは中執内の林紘義氏と酒井雅巳氏との対立から始まり、やがてその舞台が中央委員会へ移され、全国へ拡散していったものであった。
 
 当時の社労党の指導部が、バターの純正品を自称しながら、その内実は、バターとマーガリンの混合物でしかなかったということは案外知られていないが、むしろ大分裂時代に先立つ時代(80年代後半)こそ社労党にとって“マーガリンの時代”であり、“協議会派”流の改良主義の全盛時代であった。
 
 この時われわれは社労党は改良主義を掲げて、当選を目的に地方議会選挙に参加したし、機関紙も『労働者新聞』に名前を変えて、全般的な政治暴露をやめて、労働者の闘いや大衆運動に積極的に参加して、それを記事にするというスタイルに変えた。つまり、職場での闘いや大衆運動を活動のメインにすえて、機関紙はその活動を報告する場としてとらえられていた。
 
 つまり、名前だけ社会主義の看板を掲げて、純然たる改良闘争や大衆運動を担うという、どちらかといえば新左翼スタイルの活動様式を採用していた。
 
 しかし、こういう試み(新左翼と言わないで新左翼運動をやる運動)もあまりかんばしい成果を上げることができなかったので、90年に入ると、なし崩し的にもとの社労党に戻っていった。
 
 そして、ソ連・東欧の“社会主義”(われわれが国家資本主義と呼んでいた体制)が“崩壊”(われわれが国家資本主義から自由資本主義への成長転化と呼んでいた経済変化)した直後(91年の秋)から、“協議会派”の反乱が始まったことは特徴的であった。
 
 これも実に不思議な話だが、社労党の公式見解によれば、スターリン主義体制は国家資本主義という労働者の抑圧と搾取に基礎を置く特殊な資本主義で、資本主義が社会主義と呼ばれることによって社会主義の概念は混乱させられているということだった。
 
 こういう見解にたつなら、スターリン体制の世界的な規模での解体は新しい社会主義運動の出発点になるはずだった。(少なくともわれわれはそう考えていた。このことについて最近分かったことだが、そのように考えていたのは実はわれわれだけだったようだ!)
 
 ところが“協議会派”、特に反乱の中心となった酒井夫妻は、つねづね、「国家資本主義」というのはむずかしくて労働者に分からない。労働者の分からない概念を使うべきではないといっていた(われわれが知っているかぎりでもかなり以前からそういう見解だった)。
 
 その彼らによれば、ソ連や東欧、中国の“スターリン体制”は単に間違った社会主義であり、何が間違っていたかと言えば、自由と民主主義がなかったからであるという。このブルジョア民主主義が許容する範囲での社会主義、すなわち資本主義を否定するのではなく、規制する資本主義(このような国家によって規制される資本主義という概念こそ国家資本主義そのものなのだが)という見解は、日本共産党をはじめ、多くの“悔い改めたスターリン主義”の公式見解となり、こうして政治思想としてのスターリン主義はしだいに社会民主主義へと溶けこんでいったが、われらの“協議会派”も同じような指向をもっていたのであった。
 
 だから、“協議会派”の主張は悔い改めたスターリン主義者として、昔自分たち(社労党)がやっていたこと(新左翼と言わないで新左翼運動をすること)を復活させ、その路線を純化させよという要求に収れんされていく。
 
 このように考えると、社労党の分派闘争の時代を告げる戦端を切り開いたのはスターリンの民族理論をめぐる評価であったことは不思議ではない。酒井雅巳氏はスターリンの民族理論を擁護する論文を書いたのに対して、林紘義氏が批判を行ったことから分裂劇の幕は開いたのであった。
 
 (この時、両陣営から同時に、「ドロ試合を避けよう」という申し合わせが出されている。この「ドロ試合を避けよう」という超難解な「社労党用語」[マルクス主義同志会用語]は少し説明が必要である。というのは、一般社会ではこの言葉は「正々堂々と議論しよう」という意味で用いられるが、社労党やマルクス主義同志会では、つねに最初に「先制攻撃ありき」であり、一方が他方を言葉汚くののしってから、おもむろに「ドロ試合は避けよう」という宣言がくだされるのである。相手の逆鱗にふれるようなことを言ったり、やったりすればドロ試合になることが分かりきっているのに、あえてそういうことを言ったり、やったりして、その後で「ドロ試合を避けよう」などというのは、「ドロ試合の回避宣言」ではなく、むしろ逆に、この闘いが仁義なき「ドロ試合」になることを内外に宣言しているのにすぎない。だから、林紘義氏とその“ご一党”のケンカはつねに、「ドロ試合」的なものにならざるをえなくなり、聴衆をうんざりさせるものにしかならないのである。)
 
 こうして、酒井雅巳氏を擁護する阿部治正氏(現『ワーカーズ』)が、林紘義氏の強引な党運営を攻撃するにおよんで、まったく別の局面に移行していく。(後に阿部治正氏は酒井雅巳氏のスターリン主義的な民族理論に反発して袂[たもと]を分かったように、阿部治正氏は酒井雅巳氏の理論を擁護しようとしたのではなく、言葉激しく酒井雅巳氏をののしる林紘義氏に反発して、酒井雅巳氏の側についたのであった。)
 
 要するに、阿部氏は、自分以外の他人の悪態をこくのが何より好きな林紘義氏に、もっとおだやかで同志的な議論はできないのかと言いたかっただけなのだが、林紘義氏はその阿部氏に対して、東京都委員長の地位から引きずり下ろそうと画策した!
 
 これで、林紘義氏と酒井雅巳氏との理論的な対立は、組織問題というやっかいな問題を抱えることとなったが、それでも、当面は“協議会派”の優位で“分派闘争”は拡大していった。
 
 というのは中央委員の飛鷹氏と松本氏が、この分派闘争に参戦してきたからであった。彼らこそは典型的な社労党の“マーガリン派”であった。その特徴としてはマルクス主義の素養があまりない“アイデア・マン”(思いつきでいろいろな企画を出す人)であり、その発想の素人っぽさと新鮮さを林紘義氏に買われて中央委員に抜擢(ばってき)された人である。
 
 この両氏は、1908年から1812年にかけてのロシア革命の沈滞期(この時代はロシア社会民主党がレーニン派と召還派と解党派に分裂していた時代でもある)にトロツキーが演じたと同じ役割を果たそうとしていた。トロツキーが地下組織を解体して純然たる合法政党になるべきであるという解党派と、逆に、バリケード戦のみが勝利をもたらすのだから国会から議員を引き上げ純然たる非合法の党になるべきだという召還派と、合法活動と非合法活動を結合して闘うべきだというレーニンの間に立つ“調停者”として登場し、“調停”を名目にして、あらゆる“調停”を拒否する分からず屋のレーニンを“独裁者”と批判したように、彼らは“調停主義者”として、林紘義氏と阿部・酒井連合の間に立って、どちらも悪いのだが、どちらかといえば林紘義氏の方が悪いのではないかと主張していた。
 
 こうして、林紘義氏の党運営は横暴であるという見解が次第に多くの党員の支持をえるなかで、“協議会派”には大きな野望が生じていた。つまり、反林紘義氏闘争を強めていけば、林紘義氏に代わって自分たちが社労党の実権を握れるのではないかと彼らは考えはじめていた。
 
 こうして社労党改革協議会なる組織がどこかで(一般党員の知らないところで)結成され、彼らは党の規約を無視して横の連絡を取り合い、自分たち独自のパンフレットを発行して文字通りの分派として行動を開始した。
 
 やがてこの分派闘争の過程で“協議会派”は「経済闘争」(労働者の自然発生的な改良闘争)の重視を掲げ、「批判の自由」と「分派闘争の自由」を掲げた。これらはみなレーニンの『何をなすべきか?』でレーニンが批判していたものであり、彼らの闘争はマルクス主義とレーニンの政治思想を全体として葬り去ろうとするものになっていったのである。
 
 事態がここまで悪化すれば、われわれ“社会主義の頑固派”も、“協議会派”の諸君たちにたいして「労働者階級の解放闘争を愚弄する者は許さない。マルクス主義に挑戦する者には応戦する。」とでも言わなければならなくなるのだが、このころには全国の党組織のほとんどが“協議会派”と“中央派”に分裂していた。
 
 今振り返ってみると、現在明確にレーニンのすべてを否定してブルジョアの陣営に降伏したのは大阪のing、すなわち小川グループだけで、酒井雅巳氏の「社会主義連盟」はレーニン主義(このグループの場合はスターリン主義)に固執しているし、阿部治正氏の『ワーカーズ』も当時彼らが主張していたような純然たる改良主義者、経済主義者の組織かと問われれば、阿部治正氏もこのような質問に答えるのはむずかしいだろう。そしてさらに、騒ぐだけ騒いで分裂後は政治活動からすっかり足を洗った無責任な連中を含めて、当時の協議会派の主張はほとんど継承されていない。
 
 これはわれわれ社労党員一般が当時もっていた幻想、すなわち、林紘義氏はレーニン主義を継承しているという幻想に起因している。協議会派の分派闘争は基本的に反林紘義氏闘争であったのであり、社労党の党員の他にも林紘義氏憎しの感情に凝り固まっている党外に出た元中央委員(塩沢、丸山両氏)も含まれていた。だから攻撃の矛先は林紘義氏が代弁していると思われたレーニンに向けられたのであった。しかし、これは“協議会派”にとって非常にまずい戦術であって、“協議会派”がレーニンを林紘義氏に見立てて攻撃すればするほど、彼らは党内で孤立していかざるをえなくなった。
 
 林紘義氏はその後、1995年には、広松渉氏の「物象化論」の批判、98年の「価値形態論争」、2002年の「預金通貨論争」と社労党の解党とマルクス主義同志会への移行と坂を転がり落ちるようにマルクス主義から転落し、2003年にはもう、マルクスともレーニンとも何の関係もない単なるプチブル知識人にまで落ちぶれてしまい、自称マルクス主義者の集団である“中央派”(マルクス主義同志会)が妄想的林理論の単なる追認機関になっていったことを考えると、“中央派”=レーニン、“協議会派”=反レーニンという対立の図式そのものがおかしいのである。
 
 考えてみれば、分裂後林紘義氏はこの社労党の分裂劇を1910年ごろのロシアに模して総括したが、この頃はボルシェビキとメンシェビキは合同で社会民主党を形成していたのであり、解党派とはメンシェビキのことでもあった。
 
 だから、ここでわれわれは最初の疑問に舞い戻ってくる。1910年ごろのロシア社会民主党がバターを自称しながらバターとマーガリンの混成物であったのは、ボリシェビキとメンシェビキが原則的な政治的な差異を残したまま一つの政党に結集していたためであったが、1990年当時の社労党がそのような状態にあったということは、われわれがそう考えているように、社労党がボリシェビキのような労働者の真の革命組織ではなく、その前段階にとどまるようないろいろな要素を含んだ萌芽的な組織にすぎなかったということであろう。そういう点では党の分裂は起こるべくして起こったのではなかったということだ。
 
 そもそも、林紘義氏のレーニン主義は敵対的する勢力にのみ向けられたものであり、自分に適用するのを忘れているようなものでしかなかったのではないか。
 
 その典型的な例が、この分裂劇の発端となった「阿部問題」(中央執行委員会、すなわち林紘義氏が阿部治正氏の東京都委員長就任に難色を示したこと)であった。
 
 この「阿部問題」について、当の阿部治正氏も林紘義氏もレーニンの『なにをなすべきか?』を根拠に相手を批判しているが、二人とも『なにをなすべきか?』から自分にとって都合のよいところだけを引用しているので、二人の出している結論は正反対のものになっている。
 
 しかし、レーニンは実際にはつぎのようなことをいったのである。

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1 コメント

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Unknown (K次郎)
2007-12-12 03:13:02
分裂した各グループの主張への踏み込んだ批判も期待しています。