労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

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2011-04-08 21:12:22 | Weblog
 古い世界は、全力を挙げて、ありとあらゆる卑劣な手段を使って、われわれをつぶしにかかっています。

 したがってわれわれには既存のものを利用することはもうできません。

 「労働者のこだま」から「労働者の新世界」へいたる道も当然、すでに焼け落ちています。

 それで古い読者の皆さんにお知らせします。

「労働者の新世界」

 http://blog.livedoor.jp/kodama1872/

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このブログは閉鎖します

2011-02-22 00:37:39 | Weblog
何者かのサイバー攻撃を受けてこのブログは汚染されてしまいました。読者の皆さんに迷惑がかかるといけないのでこのブログは閉鎖します。後継ブログとしてライブドアの「労働者の新世界」を用意しました。検索で探してください。
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マルクス主義同志会の資本主義否定論

2011-02-21 01:08:27 | Weblog
 1、不徹底に終わった「第一回会戦」

 資本主義的生産様式が他の生産様式と区別されるのは、労働能力が資本によって商品として買われることによってである。

 そうであるとすれば資本主義的生産様式が持っている敵対的な性格に目を閉ざそうとする資本主義的生産様式の弁護論者にとって、この事実(労働能力が資本によって商品として買われるという事実)を覆い隠すことは避けて通れない。

 したがってマルクス主義同志会(その真実の名前はブルジョアの作り事普及協会)も過去においてこの資本主義的生産様式の根幹に対して攻撃を試みている。

 もっとも8年ほど前に行われた第一回の攻撃はあまり成功したとも思えない。

 それはマルクス主義同志会が、直接的に『資本論』の第一巻を攻撃したからで、多くのマルクス主義同志会の会員がとまどったからである。

 そこで今回は主戦場を『資本論』の第2巻に設定して、マルクス主義攻撃に乗り出そうというのだが、はっきりいって『資本論』を問題とするかぎり、『資本論』のどこを問題としても結果は明らかである。

 そして8年前と現在とでは『資本論』をめぐる環境も大きく変わっている。8年前には『資本論』は死にかけていたが、現在では、死の床から抜け出して蘇生した。

 われわれは燃え尽きた灰のなかからでも、社会にとって必要なものはよみがえるのであることを、身をもって証明した。これはわれわれの誇りとするところである。

 2 若干の補足説明

 本題に入る前に、少し背景を説明する必要があるだろう。というのは、現在、マルクス主義に興味を持ってくれている若い人々は廃墟の跡に燃え出でた新芽であって、滅び去った古い世界とは無縁な人が多いからである。

 マルクス主義同志会は大谷氏を共産党の御用学者と呼んでいるが、実際には、共産党の御用学者といわれている人々は月刊誌『経済』に登場している人々で、その『経済』は数年前に「新MEGA」(「新マルクス=エンゲルス全集」の編集作業に携わるマルクス経済学者の論文を直前になって「自分たちの雑誌の趣旨に会わない」という理由で掲載を見送っている。

 そういう点では、日本MEGA編集委員会代表をやっている大谷禎之介氏を共産党の御用学者とかスターリン主義者というのはマルクス主義同志会の悪質なデマゴギーである。

 マルクスの残した『資本論草稿』をそのまま編集しようという試みは、さきにこの草稿を編集したエンゲルスとかなりの部分で食い違っており、それがいろいろと物議を引き起こしているが、日本共産党の基本的な立場はエンゲルス擁護であって、マルクスの草稿はエンゲルスの編集したものと違っているという日本MEGA編集委員会の研究を苦々しく思っている。

 われわれは彼らの研究をどうこう言う立場にはないが、彼らの論文は読んでいておもしろいし、『資本論』の理解にとって非常に参考になることも事実である。

 3 賃金は資本家の労働者への前貸?

 マルクス主義同志会はいう。

 「マルクスが強調するのは、資本家の手にある可変資本は、資本として労働力と交換されるのではなく、単なる貨幣として機能するにすぎないということ、したがってまたその貨幣は労働者にとっては単なる収入に転化するということであるにすぎない。」と。

 ここでマルクス主義同志会は資本家は労働者の収入を保障するために貨幣を機能させるのだという。

 この「貨幣として機能させる」という言葉を善意に解釈すれば、資本家と労働者の間で「売買」が行われるということであるが、残念ながら、マルクス主義同志会はこういうことを否定している。

 そこでマルクス主義同志会は、今度は「資本家は反対に、まず可変資本を貨幣として労働者に『前貸』するのであり、“事後的に”その貨幣を回収するのである」という。

 マルクス主義同志会によれば、資本には不変資本と可変資本があって、可変資本は本来、労働者の取り分なのだが、資本家は労働者に「可変資本分」を前貸し、商品を労働者に売ることによってその貨幣を回収するというのである。

 しかし、資本家と労働者は生産物を分け合う関係にはない。資本主義的生産様式をそのように捉えることは決定的に間違っている。

 4 マルクス主義同志会は何を恐れているのか

 不思議なことに、マルクス主義同志会は賃金は労働者の取り分を前貸しするのだといった後、再び労働力商品の売買へと立ち返っている。

 「労働力と交換される貨幣は、確かに可変資本としての貨幣であるが(資本家にとって)、可変資本として『運動』する貨幣、そのものとして自己増殖する貨幣ではない。」

 「労働力への可変資本の転化、つまり可変資本としての貨幣のよる労働力の購買は、その形態においても、内容においても、資本としての契機を全く持っておらず、単純な商品と貨幣の関係であるし、また労働者の消費手段の購買もまた、そうである。」

 今度はあれほど否定した労働力商品の売買という観点にこっそりとたちもどって、この売買は貨幣で商品を売ったり買ったりするだけのものであると強調する。

 もちろんこれはマルクス主義同志会が、労働力商品の売買が持つ“資本としての契機”を死ぬほど恐れているからである。

 しかし、労働力の売買によって資本の手の下にあった貨幣は労働力に姿を変えているのだから、資本は生産要素(生産手段と労働力)へと形態を変化させたのであり、このことによってのみ資本の生産過程がはじまるのではなかったか?

 そして生産が継続的であるのであれば、労働力商品の売買もくりかえして行われなければならない。

 そういう点では、「賃労働は、資本形成の必然的な条件なのであり、資本主義的生産の恒常的な必然的な前提なのである。それゆえ、第一の過程、貨幣と労働能力との交換、すなわち労働能力の売りは、そのものとしては、直接的生産過程にははいらないにもかかわらず、全関係の生産にははいるのである。」(『直接的生産過程の諸結果』)というマルクスの指摘はあたっているだろう。

 ここでマルクスがいう「全関係の生産」とは、賃労働と資本と核心とする資本主義的生産様式を資本主義的生産様式たらしめている社会的な関係であり、資本主義的諸関係とわれわれが呼んでいるものである。

 興味深いのは、この部分には、「これによって、人々は、たとえばF・バスティアが賃金制度を資本主義的生産にとって外的などうでもよい形式的なことだと断言して、『報酬の形式が彼(労働者)にとってこの従属関係をつくりだすのではないということ』(『経済的調和』)を発見するとき、資本主義的生産の本質をなにと考えているか、を推論できる」という注をつけている。

 資本主義の不都合な現実を隠蔽することによって、資本主義の不都合そのものをなくしてしまおうという試みはマルクス主義同志会の本当の理論、すなわち「毒食えば皿まで」論によって極限まで拡大される。

 5 再生産なき再生産論

 「『再生産表式』についての理論は、そのもの自体としては、基本的に、『総過程』の一部、『W’-G’・G-W』の部分に関係しているのであって、『総過程』全体の理論、まして資本の社会的総再生産過程の理論そのものではない。この反省は、きわめて重要である。」

 マルクス主義同志会は、ついに再生産過程は「資本の社会的総再生産過程の理論」ではなく単なる商品と貨幣の交換過程のみに関係しているのであり再生産(生産過程)を含まないと言い出す。

 資本主義的生産過程(これは剰余価値の生産過程でもある)がなければ搾取という忌まわしいこともなくなるであろう。(これは真実である)

 しかし、第2巻ではマルクスは社会的再生産過程を分析しているのであって、その考察のためには流通過程を含まなければならないといっているのである。

 それは「一方の形態では直接的生産過程が流通過程の媒介として現れ、他方の形態では流通過程の媒介として現れている」からであろう。

 6 マルクス主義同志会の奇妙な再生産論

 ①「商品資本しての可変資本の『循環』(補填)が、商品資本としての不変資本のそれと違っているのは一見して明らかである。
 不変資本はただ直接に貨幣資本に(そして生産資本に)形態転化を遂げるにすぎないが、他方、可変資本は、貨幣(賃金)として労働者に支払われ(可変資本の“前貸”として)、労働者にとっての収入となる。そして労働者が、その貨幣を第Ⅱ部門の資本家の生活手段(商品資本)と交換する限りで、資本家の手に還流する。これは、不変資本が貨幣形態へと転化し、さらに生産資本に転化する場合とは違っている。」

 ②「資本家が労働者と交換に手渡す貨幣が、可変資本としての貨幣であって、資本家としては、ただ『前貸』もしくは『前払』するものにすぎないことは、例えば、第Ⅰ部門の資本家が、可変資本としての商品を第Ⅱ部門の資本家にそれを売って貨幣形態(貨幣形態の可変資本)に転化し、その貨幣でもって労働力を買うという形を考えてみれば明らかになるだろう。ここでは、第Ⅰ部門の資本家は、労働力の購買のために、可変資本としての貨幣を『前貸』する必要ない、というのは、すでに彼は、(可変資本としての)商品資本を(可変資本としての)貨幣資本に転化しているからである。そして第Ⅰ部門の資本家が、自らの可変資本としての商品資本部分(素材的には生産手段)を、第Ⅱ部門の資本家に直接に売って悪いということは何も存在しないであろう。」

 これは実に不思議な話だ。

 ①についていえば、パン屋がパンを売ってえた貨幣はパン屋に環流するのみであり、パン焼き釜を製造している資本には環流しない。パン焼き釜製造資本に貨幣が環流するのはパン焼き釜をパン屋に売った時のみであろう。

 ②について言えば、「第Ⅰ部門の資本家(生産手段を生産する部門の資本家)は、労働力の購買のために、可変資本としての貨幣を『前貸』する必要がない」というのはどういうことだろうか?第Ⅰ部門の資本家は労働力を購買するために、労働者から借金をするということなのだろうか?

 ②についてさらに言えば、パン焼き釜製造資本が工業用パン焼き釜をパン屋に直接売らないとするなら、だれに売ればいいのだろうか?

 7 マルクス主義同志会に資本主義は救済できるのか?

 かくしてマルクス主義同志会は、彼らの頭のなかだけで資本主義的生産様式をわけの分からないものに改造してしまったのだが、これによってマルクス主義の本来の目的である資本主義の救済は可能なのだろうか?

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マルクス主義同志会が貨幣資本を憎悪する本当の理由

2011-02-19 02:24:55 | Weblog
 われわれがマルクス主義同志会を辞めようとしている頃、われわれが資本主義のもとではすべてが商品として現象するのだから、資本家は新しく生産を開始するに当たって、労働力と生産手段を貨幣で購入する必要がある、といったらマルクス主義同志会は血相を変えて、ブルジョア的だ!と大絶叫した。

 ブルジョア(資本主義)社会で生産がブルジョア(資本主義)的に行われるのは当たり前な話であるのだが、マルクス主義同志会にはこれ(資本主義的生産様式が資本主義的生産様式であること)が許せないのである。

 だから、今回も「そもそも『貨幣流通による媒介』によって(こそ初めて?)、資本主義の『特殊歴史的な諸特徴』が規定されるかに主張するのは──、余りに“ブルジョア経済学流”(もしくは“宇野学派流”)であって、根底から正しくない。」といっている。

 もちろん、資本主義の『特殊歴史的な諸特徴』とは、生産の諸要素が商品として存在する、とりわけ労働力が商品として登場することであるが、生産要素が商品として存在するということは、貨幣が商品生産の拡大の結果として必然的に生まれることを考えると、生産が貨幣を媒介にして行われるということであるが、マルクス主義同志会はこれを認めることができない。

 それは資本主義的生産様式はそのようなものではないと思っているからであるが、ではマルクス主義同志会にとって資本主義的生産様式とはどのようなものであるのであろうか?

 不思議なことにこの解答はない。つまり、マルクス主義同志会は資本主義的生産様式のあれこれの規定を否定はするが、自分たちは資本主義的生産様式とはどのような生産様式であるのか積極的に展開することはしないのである。

 もちろんこれにはもう一つの理由がある。それはマルクス主義同志会の労働力商品否定論がある。それは今回もあますところなく述べられている。

 「実際、ヴェーム・バヴェルク以来(もちろん、それ以前からであるが、意識的に、マルクス主義に反対して、『商品』論を展開した彼以来)、ブルジョアたちは『商品』として、『労働力商品』にとどますらず、ありとあらゆるものをあげてきた。例えば、土地もまた、その土地の収入を利子率によって資本還元された『地価』を持つが、kamekanはなぜこの土地の『価値』を社会の『総価値』の中に数え入れないのか。内在価値を持たない労働力でも『価格』を持つからといって、『総価値』の中に数え入れたのだから、地価にせよ、そのほかの『価格』をもつ、このブルジョア社会のありとあらゆる『商品』を──有価証券などや、『性』等々までも含めて──kamekanは『社会の総価値』の中に数えなくては、決して首尾一貫していないのである。そしてそうするなら、kamekanのマルクス主義の『労働価値説』に対する重大な背反はあまりに明白になるだろう。」

 ここに述べられたほかにも資本主義が商品が価格を持つことによって、どんなものでも商品として貨幣と交換されることになり、“名誉”とか“良心”といったものまで商品として取引されることになる。

 マルクス主義同志会はこういうものの商品性、つまり売買の対象となることに反対することによって生まれた。そういう点では、この問題こそマルクス主義同志会にとって根源的であるが、物質商品以外の商品は商品として認めることはできない、貨幣物質以外の紙切れ(紙幣)が貨幣として流通することは許さないという立場からは、商品の、したがって商品生産の美化というマルクス主義同志会のもう一つの立場が生まれ、この立場からは商品社会の不純物(非物質的な商品)を排除するために闘うというもう一つのマルクス主義同志会の任務が生まれるとともに、商品を生産する労働、すなわち生産的労働の美化が生まれる。

 しかし資本主義のもとで、生産的労働というのは、資本家のために剰余価値を生産する労働のことであり、資本主義のもとでの生産的労働を美化することは剰余価値の生産を美化することでもある。

 かくして誰よりも熱心な資本主義的生産様式の擁護者となったマルクス主義同志会は、誰よりも資本主義的な生産様式を資本主義的生産様式と呼ぶものを憎悪するようになったのである。
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疑惑はますます深まる

2011-02-18 21:25:29 | Weblog
 マルクス主義同志会が、例によって、わけの分からないことをやり始めている。

 一見すると難解なことをいって労働者をペテンにかけるのがこの組織の特徴であるのだから、TAMO2の独り言のようなもので、当人ですら自分の言っていることを分かっているのか分からないようなことを第三者であるわれわれが内容まで立ち入って吟味する必要はまったくないのだが、興味深いこともある。

 一つは、マルクス主義同志会がこういうことをやり出すのは、この党が危機にあるということだ。

 二つ目は、こういう危機の時には、掌(てのひら)を返したように、主張を180度転換して、これまで自分が言ってきたとは正反対のことを言い出して相手を攻撃することだ。

 三つ目は、そのためにのみマルクス主義が動員されるということだ。

 そこで重大な疑問が浮かぶ、普段はデタラメなことを100も200もほざきながら、危機に当たってマルクス主義者になることができるマルクス主義者というのはどういうマルクス主義なのかということだ。

 今年はどうやらそういう、長年の疑問に一つの解答が出る年になりそうだ。

 そうだとするなら、われわれは積極的に、火のないところに煙を立てて、暗い穴に潜んでいるものを燻(いぶ)りだして、何が出てくるか見てやろうじゃないか。
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「所得の分配」ではなく「生産手段の分配」が必要

2011-02-14 01:36:24 | Weblog
 社会の富は諸個人の自己労働にもとづくものであるから、神聖にして不可侵であるというロックの主張は、時を経て21世紀によみがえりつつある。

 もちろんこれは社会民主主義の政治の無力さがもたらしたものである。

 例えば、社民党の福島党首は今年の正月のあいさつで、人々の生活が不況の中で崩壊し始めているから、「所得の分配」を進めなければならないと訴えた。

 社会民主主義にとって国家が租税を徴収してそれを“貧乏人”に配分することは「所得の分配」であり、このようにして平等な世界が築くことができると彼らは考えている。

 これに対して、世界各地で、その反対派が誕生している。

 アメリカでは、ティーパーティーが、日本ではマルクス主義同志会が、その代表であるが、彼らが持ちだしている自己労働の不可侵性は、ハーバード大学の学生によって論破されている。彼はビル・ゲイツを例に出して、ビル・ゲイツの築いた富は果たして、ビル・ゲイツの自己労働によってもたらされたものであるのかと問いかけて、必ずしもそうではないから彼に対して課税するのは不当ではないと答えている。

 実際に、資本主義的生産様式の下では、資本家にとっても、労働者にとっても“自己労働”と呼べるのは存在していない。

 資本家が巨万の富を築き上げることができるのは、資本の運動の当事者で、剰余価値を独占できる立場にあるからであり、労働者が生きていけるのは労働能力を商品として売る(資本家に雇用される)からである。

 つまり資本主義は“自己労働による富”を否定することによって成り立っている社会なのである。

 それにもかかわらず、社会民主主義の「所得分配論」に反対する勢力が台頭しようとしているのは、この「所得分配論」に根拠がないことである。

 私的所有を前提にすれば、「所得を分配しなければならない」という根拠はどこからも出てはこないし、分配された富をもらった人は、働きもしないで生活しているという非難から逃れることはできない。

 金持ちは貧乏人を助ける義務があるというのは一つの倫理観ではあっても私的所有を前提とする資本主義社会の制度とはなりえない。

 むしろ必要なのは、現在の労働者の低賃金、失業といったものが資本主義生産様式そのものから出ている以上、そのような生産様式を改編することであろう。

 生産手段が一部の社会階層によって独占されているからこそ、貧富の差が生まれ、拡大し、多くの人々の生活を破綻に追いやっているとするのであれば、これからの社会にとってなさなければならないのは、生産手段を社会の成員に分配する(社会の共有とする)ことでなければならない。

 それがマルクスがいう「個人的所有の再建」ということであろう。  
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今、中東で、そして、世界で、起こっていること

2011-02-14 00:29:19 | Weblog
 エジプトでムバラク大統領が辞任し、世界は「エジプト革命」と騒いでいる。

 しかし、革命前と革命後では、実は、何も変わっていないのである。

 エジプトの実権を握っているのは依然として、軍部であり、軍部の背後にはアメリカ帝国主義がいる。

 そもそもムバラク政権は、前政権サダトの自由化失敗の結果として生まれている。サダトのもとで経済自由化と外資導入がなされた結果、エジプト社会に急速に貧富の差が広がり、腐敗が横行したことによる国民の不満も高まっていた。

 そのサダトがイスラム原理主義組織“ジハード団”に所属する中尉によって手投げ弾を投げられて暗殺されるとサダトの後任として大統領の就任したのが当時空軍元帥であったムバラクであった。

 サダトが社会主義者やイスラム過激派を独裁的な強権政治で弾圧したように、ムバラクも親米派として、アメリカ帝国主義の意向を受けて強権的な軍事独裁国家を建設し、政権はアメリカからの莫大な経済援助に寄生する政治体制を築き上げてきた。

 そのムバラク体制はアメリカ帝国主義という後ろ盾を失うことによっていとも簡単に崩れ去った。

 だから今回のムバラク体制の崩壊はアメリカの中東政策が大きく変化したことの結果でもある。

 アメリカのオバマ大統領は、これまでイスラム原理主義の防波堤として存在した中東の親米国家(そのほとんどが王政か軍事独裁国家)が親米であるという理由だけで保護や援助はしないという政策に明確に切り替えたのである。

 しかし、アメリカによってもたらされた“自由と民主主義”がどのような結果をもたらすのかと言うことは、オバマ大統領やわれわれを含めてまだ誰にも分からない。

 もちろんエジプトにおける資本主義的諸関係の発展はめざましいものがあり、イスラム原理主義組織もかつてほどの影響力は持ちえていないのかもしれないし、政権を託された軍部がどのように動くかも未知数である。

 それにもかかわらずオバマが“未知の海”に乗り出さざるをえなかったのは、現在、世界が陥っている経済的な危機がある。この危機は経済的な発展が遅れている地域ほどするどいものになっている。

 資本主義の危機が深まる中で、“自由と民主主義”が資本主義の唯一のレーゾンデテール(存在してよい理由)になりつつある。そうであるのであれば資本主義世界の“盟主”であるアメリカは資本主義を守るために“自由と民主主義”の伝道者であり続ける必要がある。

 オバマ大統領はそのように考え、それはアメリカ帝国主義の新しい世界戦略になりつつある。

 しかし現在、世界の人々を襲っている苦難は“自由と民主主義”では解決不能なものばかりである。

 本来であるのであれば、世界的な規模で社会主義運動が高揚しなければならない時代なのだが、世界の社会主義運動全体は依然としてスターリン主義が社会主義運動にもたらした打撃から立ち直ってはいない。

 だから、闘争の発火点となりながらも、政変の主役とはならず、もっぱら賃上げや労働条件の改善といった現実的な利益を求めたエジプトの労働者階級の闘いは賢明であっといえよう。労働者はそれぞれの国でまず自力をつけて独自の政治勢力として登場する必要があり、現在はそのための準備期間といえるからだ。

 このことはわれわれの今後にも若干の影響をおよぼしつつある。

 われわれは“経年劣化”がひどいので、“老兵は消えゆくのみ”と考えていたが、いくら老いぼれてもわれわれはまだまだ存在を続け、その声を上げ続けることを求められている。
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資本主義を理解できないマルクス主義同志会

2011-02-12 01:54:19 | Weblog
 マルクス主義同志会を「社会主義者」と見なすのは微妙なところがあるのだが、その自称「社会主義者」が年金受給者をいじめないで欲しいという読者の抗議に答えている。

「『労働能力を有する』社会の成人でありながら、他人名の労働に規制(寄生の間違い、こういう日本語能力が絶望的に欠落している人物が誰であるかはすぐ察しがつくがそれはここでは言わないでおこう)するのは正しくなく、他の成人に負担を強要するに等しいと主張しているだけです。これは我々の社会主義の原則から必然的に出てくる結論であって、社会主義者として当然の立場だと思います。」

 ここでは労働者が日々の“労働”によって生活をささえていることが、ジョン・ロックのような自己労働にもとづく富として捉えられている。

 しかし、この資本主義社会で労働者の“富”が自己の労働にもとづくものというのはブルジョアの作り事でしかない。(アダム・スミスやジョン・ロックの時代は資本主義的な生産が未発達であり、商品生産が主であったのでこのような主張には一定の根拠があった。しかし、この理論はその後、ブルジョアの搾取による富を正当化する理論となっていった。)

 正しくは資本主義のもとで生産手段を持たない労働者が生活できるのは、労働者が自分の労働能力を資本家に売るからである。

 労働者は資本家に労働能力を売ることによって日々の生活手段を手に入れているのであるが、資本家に売った労働能力は資本家のものであって労働者自身のものではない。

 したがって労働者が資本家に雇用されて工場で労働するという場合、労働者の労働は自己のものとは現れないで、不変資本と合体されて資本の生産過程としてのみあらわれる。

 ところがマルクス主義同志会は、この労働力商品の売買も、資本による生産も搾取も否定している。そのようなことはあってはならないから存在しないのである。

 そして、このように労働者が資本家に労働能力を売るということによって成り立っている社会では、どんな高度の労働能力があっても資本家が買ってくれなければ、労働者は生活することはできない。

 日本だけでもそういう労働者は300万人以上もいる(!!!)というのにマルクス主義同志会の諸君によれば、そういう人は他人の労働に寄生している腐敗分子なのだそうだ。

 マルクス主義同志会が固執している労働者の労働は自己のもの(したがって労働の成果である商品は労働者のもの)という観点からは、搾取というのは不等価交換のことであるという第二の見解が出てくる。

 現実には労働者の労働能力を買った資本家が労働者の労働の成果を独り占めにして、自己が支払った労働力商品の価値との差額を自分のものにするのだが、マルクス主義同志会の見解はさらに大きな誤りを生みだす。

 つまり商品の価値が労働であり(これ自体は正しい)、商品の価値は資本家が労働者から盗んだ分(m=剰余価値)と盗まれなかった分(v=可変資本)からなるというのであれば、c=不変資本の分がどこかへ消えてしまうことになる。

 これはアダム・スミスの“v+mのドグマ”といわれるものであるが、リカードも基本的にこのスミスのドグマから逃れることはできなかった。

 そしてマルクス主義同志会もこの観点に固執している。

 そういう点では、マルクス主義同志会の“マルクス主義原理運動”というのは、基本的にマルクス主義から古典派経済学(ブルジョア経済学)への後退であるのだが、いまだによく分からないのは、どうしてこういうわけの分からないことをやる必要があるのかということだ。

 マルクス主義同志会は21世紀に入って、ひたすらこういう愚劣で不毛な試み(マルクス主義を古典派経済学まで後退させようという試み)を続けてきた。

 W・Hの頭がおかしくなったからというのは、なんとなく理解できる答えのようだが、実は答えにはなっていない。

 それは現在のマルクス主義同志会の狂気は狂気にとどまっていないということだ。

 それはここでいわれている問題、すなわち、失業者の大群をどうしようか、という問題はすでに現在の政治問題になりつつあるからだ。

 リーマンショックの時、派遣労働者が一度に大量に失業したが、その時、政府(当時は自民党だった)、民主党、民社党はこぞって失業した派遣労働者に生活保護を受けさせることで問題を解決しようとした。

 その結果、生活保護の受給者は増大し、国や地方自治体の財政を圧迫しはじめている。

 そこでブルジョアマスコミは失業者が働きもせずに(!)遊んでいる(!)というキャンペーンを始めている。

 マルクス主義同志会は、客観的に見れば、ブルジョアによる失業者圧殺の道を彼らに先がけて掃き清めているのである。

 こういう芸当が単なる狂人にできるのかという問題はこの組織の場合、つねにつきまと
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急速に終息しつつあるエジプトの騒乱

2011-02-09 01:53:26 | Weblog
 現在、エジプトの混乱はすでに峠を越したように見える。

 それはこの騒乱が、どの革命の過程にも見られる二重権力をつくりだすことさえできなかったからである。

 この二重権力を確立することに失敗した理由はもちろん、既存の権力に対抗するもう一つの権力を生みだすことができなかったからである。

 エジプトの騒乱にはいくつもの要素が絡み合っていた。

 一つは若者や学生らの「民主化革命」的な要素であり、一つはエジプトおける労働者階級の闘争であり、もう一つはイスラム原理主義的な要素であった。

 物価高と失業に対するエジプト民衆の自然発生的な抗議が、津波のようなデモとなって街頭にあふれ出した時、これら3つの要素はそれぞれ運動の主導権を握ろうとしたが、そのいずれもが運動の主導権を握ることに失敗した。

 若者や学生らはムバラク政権を旧ソ連や東欧の国家資本主義(スターリン体制)になぞらえて、攻撃したが学生たちはもともと少数派であり、ムバラクの強権体制、もしくは独裁体制は旧ソ連や東欧の国家資本主義(スターリン体制)とはことなり、毎年、莫大な経済援助を行っているアメリカの意向にそうためのものであった。

 そしてエジプトの労働者は闘争の端緒では大きな影響を持ったが、ムバラク体制が動揺すると急速にその力は減衰していった。

 それは闘争を支える労働者の政党が存在しない上に、エジプトのみならず現在の全世界の“左翼党派”のすべてが、エジプトの革命の課題が、「民主主義革命」を達成することであると考えているからである。

 失業、絶望的な貧困、物価高による生活苦という資本主義のテンペスト(あらし)が、エジプトを、そして世界をおそっている時に、資本主義の上部構造であるブルジョア民主主義のために闘えと言うことは、資本主義の悪弊と闘うために資本主義のために闘えと言うに等しい。

 したがって労働者の闘いは運動が広がるにつれて後退していった。

 これにたいして後半に力を増してきたのはイスラム原理主義者たちである。

 しかし、エジプトのイスラム原理主義者はムバラクを追いつめるまでに成長しなかった。これにはイランにおけるイスラム革命(実際には反革命そのもの)の教訓やアルカイダ系の組織の闘争の常套手段である無差別テロが影響している。

 中東のいくつかの国ではすでに資本主義的な諸関係が発達しており、イスラム原理主義にもとづくイスラム国家(宗教国家)はすでに時代錯誤的なものになっているのである。

 だからイスラム原理主義者が闘争の全面に出てくるにしたがって、エジプトの民衆は闘争から潮が引くように引いていった。

 エジプトではこれらすべてがムバラクなきムバラク体制へと収れんし始めている。

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認知症な日々 その2

2011-02-08 00:17:08 | Weblog
 某月某日、仕事が少し遅くなったので、急いで会社を出て、地下鉄の駅に急いだ。(バスは1時間に一本程度なので帰りはいつも2.5キロメートルの距離を歩いて帰っている)

 改札を通過しようとする時、ポケットに手を入れると、サイフがない!

 携帯電話も一緒に忘れたので、会社に帰るしかなかった。

 1.5キロメートル×2=5キロメートル

 携帯がないので、同僚が帰ってしまい、セキュリティーがかけられているのではないかと心配していたが、さいわい同僚が残業していたので会社に入れた。

 急いで携帯とサイフをポケットに入れると会社を後にした。

 2.5キロメートル×3=7.5キロメートル

 無事に地下鉄に乗り、家路についたが、家までのバスが出るのに少し時間があったので、ミスタードーナツでドーナツ一つとコーヒーを飲み、バスが来たのでバスに乗った。

 しかしバスが地下鉄の駅を出て停車場を四つぐらい過ぎた時、洗濯するために持ってきた作業服を入れたビニールの袋がない(!!)ことに気がついた。

 しかし、作業服をどこに忘れたのか思い出せない。

 でもこのままにはしてはおけないのでとりあえずバスを降りた。

 考えること10分

 どうやらミスタードーナツに置いてきたらしい。

 それで再び地下鉄の駅に歩いて帰る。

 7.5キロメートル+2キロメートル=9.5キロメートル

 やっぱり店にあった。

 自分は何という人間になってしまったのだろうか?と思うと悲しかった。
 
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