チュニジア、エジプトの革命が「Facebook革命」と一部報道で言われ、さも、Facebookというツールが革命の原動力である、という様なoverstatementがされておりますが、つい先日、私にもFacebookで思わぬ便りがありました。
今を去ること20年以上前、横浜から船に乗り、ナホトカに到着、そこから鉄道でハバロフスクへ行き、そこからシベリア鉄道で欧州へ行くという事を3回もしていた頃の事、知り合ったハバロフスクの家族の所に4回程ホームステイした事がありました。
ご夫婦と学校に上がる前の娘さん2人の家族。夏、秋、厳寒の冬と異なるシーズンにお世話になりましたが、お父さん・お母さんも釣りをするというので、その度毎一緒に釣りに行きました。
ハバロフスクから車で片道3~4時間くらいでしょうか、ムヒェンという林業の村があります。お父さんの両親は、もともと第二次大戦中独ソに分割占領されたポーランドに住んでいたウクライナ人で、スターリンにより沿海州へ追放され、ムヒェンに定住した人達。そのムヒェンの村に住むご両親のところに泊まりに行きました。
因みに、「共産主義とは電化である」とレーニンが語った事から(何となく、大震災後の日本を暗示するような言葉ですね:オール電化でなくて良かった)、ご両親の家には電気は来てましたが、水道・ガスはありません。水は家の中の井戸からポンプで汲み、火は薪で起こします。トイレはポットン便所で、溜まったものは肥料にします。お風呂は、大きな金鍋にお湯を沸かし、そのお湯を金鍋にぶっ掛けて湯気を作るサウナです。夏のサウナは格別で、涼を取りにサウナ小屋の前に座ると、遠くから村人の合唱が聞こえる。本当のロシアの農村でした。
今は知りませんが、当時ソ連時代とソ連崩壊の直後は、国内にもパスポートコントロールがあり、外国人は特定の都市しか訪問する事が出来ませんでした。その国内の関所を詳しくは述べませんが、ともあれ通過してその村を訪問したのも懐かしい思い出です。
ムヒェンの川で毛鉤釣り。多分、この川で毛鉤釣りをしたのは、歴史上私が初めてだったと思います。
秋には、アムール川での釣り。これは露語でシューカ、英語でパイクです。この写真を撮った後、漁業コルホーズでイクラのてんこ盛りとウォトカの歓待を受け、フラフラになった事を覚えております。
当時、ケターと呼ばれる鮭を秋のアムール川で皆で捕らえ、氷点下のバルコニーに山積みにし、冬の間の朝食と夕食は毎日黒パンにバターを塗りそこにイクラを載せたものを食べてました。昼はボルシチに鮭でした。
尚、写真のパイクは小骨もろともすり身にして団子を作り、それを確か揚げて食べました。結構美味しかったと思います。
ソ連が崩壊した直後、真冬のハバロフスクでは、電気、ガス、スチーム暖房が途絶えがちで、零下40度以下の気候下、着れるものを着込んで寝たり、皆で温まりあったりしたものでした。
冬は、凍結したアムール川で穴釣り。この写真を撮った時は零下30度くらい。槍のようなもので厚さ60~70cmもある氷に穴を開ける作業で体は温まります。シューバという厚手のフェルト地のコートで裏地に羊の毛をあてがったものを着込んで寒さを凌ぎます。
穴はしょっちゅうザルで掻いていないと直ぐ凍ってしまいます。糸は氷が着きカリカリです。
冒頭のFacebookですが、その娘さんの一人から私に連絡があったものです。もう27歳でサンクトペテルブルクに住んでいるとか。子供の時の面影は顔に残ってますが、立派になったものだと感慨深いものがありました。露語は暫く使っていないのでさび付いてますが、何とか露語で返事を出しました。
今を去ること20年以上前、横浜から船に乗り、ナホトカに到着、そこから鉄道でハバロフスクへ行き、そこからシベリア鉄道で欧州へ行くという事を3回もしていた頃の事、知り合ったハバロフスクの家族の所に4回程ホームステイした事がありました。
ご夫婦と学校に上がる前の娘さん2人の家族。夏、秋、厳寒の冬と異なるシーズンにお世話になりましたが、お父さん・お母さんも釣りをするというので、その度毎一緒に釣りに行きました。
ハバロフスクから車で片道3~4時間くらいでしょうか、ムヒェンという林業の村があります。お父さんの両親は、もともと第二次大戦中独ソに分割占領されたポーランドに住んでいたウクライナ人で、スターリンにより沿海州へ追放され、ムヒェンに定住した人達。そのムヒェンの村に住むご両親のところに泊まりに行きました。
因みに、「共産主義とは電化である」とレーニンが語った事から(何となく、大震災後の日本を暗示するような言葉ですね:オール電化でなくて良かった)、ご両親の家には電気は来てましたが、水道・ガスはありません。水は家の中の井戸からポンプで汲み、火は薪で起こします。トイレはポットン便所で、溜まったものは肥料にします。お風呂は、大きな金鍋にお湯を沸かし、そのお湯を金鍋にぶっ掛けて湯気を作るサウナです。夏のサウナは格別で、涼を取りにサウナ小屋の前に座ると、遠くから村人の合唱が聞こえる。本当のロシアの農村でした。
今は知りませんが、当時ソ連時代とソ連崩壊の直後は、国内にもパスポートコントロールがあり、外国人は特定の都市しか訪問する事が出来ませんでした。その国内の関所を詳しくは述べませんが、ともあれ通過してその村を訪問したのも懐かしい思い出です。
ムヒェンの川で毛鉤釣り。多分、この川で毛鉤釣りをしたのは、歴史上私が初めてだったと思います。
秋には、アムール川での釣り。これは露語でシューカ、英語でパイクです。この写真を撮った後、漁業コルホーズでイクラのてんこ盛りとウォトカの歓待を受け、フラフラになった事を覚えております。
当時、ケターと呼ばれる鮭を秋のアムール川で皆で捕らえ、氷点下のバルコニーに山積みにし、冬の間の朝食と夕食は毎日黒パンにバターを塗りそこにイクラを載せたものを食べてました。昼はボルシチに鮭でした。
尚、写真のパイクは小骨もろともすり身にして団子を作り、それを確か揚げて食べました。結構美味しかったと思います。
ソ連が崩壊した直後、真冬のハバロフスクでは、電気、ガス、スチーム暖房が途絶えがちで、零下40度以下の気候下、着れるものを着込んで寝たり、皆で温まりあったりしたものでした。
冬は、凍結したアムール川で穴釣り。この写真を撮った時は零下30度くらい。槍のようなもので厚さ60~70cmもある氷に穴を開ける作業で体は温まります。シューバという厚手のフェルト地のコートで裏地に羊の毛をあてがったものを着込んで寒さを凌ぎます。
穴はしょっちゅうザルで掻いていないと直ぐ凍ってしまいます。糸は氷が着きカリカリです。
冒頭のFacebookですが、その娘さんの一人から私に連絡があったものです。もう27歳でサンクトペテルブルクに住んでいるとか。子供の時の面影は顔に残ってますが、立派になったものだと感慨深いものがありました。露語は暫く使っていないのでさび付いてますが、何とか露語で返事を出しました。