日常を送ることの出来る自分たちに出来る大切なこと。
そのひとつが、
「"それ"に振り回されすぎずにちゃんと『自分自身』で在り、そのうえで"それ"と対峙すること」
なんじゃないかと思う。
今日のおとなの小論文教室。を読み、これまで漠然と思っていたことがこの言葉になった。
あまりにも大きなことが目の前にあると、ついついそれを意識してしまう。
それに影響されてしまう。
影響されること自体を否定しているんじゃあなく、仕方のないときや、むしろ積極的に影響されたほうが良い時だってあると思うけれども、
「ずっとそのままでいいのか?」と聞かれたら、それはやっぱり「NO」だと思う。
"それ"をどうにかする、ということだけ考えたら、"こちら"の状態はあまり関係ないのかもしれないが、いつまでもそのままじゃあ、この世界を彩る、代えのきかない『個』がおざなりになってしまうと思うのだ。
出来るだけのことをする。
自分自身は見失わない。
立ち位置は譲らず、それに対峙する。
その両方を、成立させる。
そんなことが言えるのは現場の状況を知らないからだ、と怒られるかもしれない。
だけれども、現場の状況を知らないからこそ言える、出来る、必要なこともあると考える。
いまこの自分の置かれた環境で許された、出来得ること。
それを、やっていこうと思う。
そのひとつが、
「"それ"に振り回されすぎずにちゃんと『自分自身』で在り、そのうえで"それ"と対峙すること」
なんじゃないかと思う。
今日のおとなの小論文教室。を読み、これまで漠然と思っていたことがこの言葉になった。
あまりにも大きなことが目の前にあると、ついついそれを意識してしまう。
それに影響されてしまう。
影響されること自体を否定しているんじゃあなく、仕方のないときや、むしろ積極的に影響されたほうが良い時だってあると思うけれども、
「ずっとそのままでいいのか?」と聞かれたら、それはやっぱり「NO」だと思う。
"それ"をどうにかする、ということだけ考えたら、"こちら"の状態はあまり関係ないのかもしれないが、いつまでもそのままじゃあ、この世界を彩る、代えのきかない『個』がおざなりになってしまうと思うのだ。
出来るだけのことをする。
自分自身は見失わない。
立ち位置は譲らず、それに対峙する。
その両方を、成立させる。
そんなことが言えるのは現場の状況を知らないからだ、と怒られるかもしれない。
だけれども、現場の状況を知らないからこそ言える、出来る、必要なこともあると考える。
いまこの自分の置かれた環境で許された、出来得ること。
それを、やっていこうと思う。