生きることについては日々よく考えるテーマであり、また好きなテーマでもあるのだが、
ここ最近は特にまた切実な問題となっているため、考えてしまう機会が多い。
なのでいま想っていることを、とりあえずのかたちだけれども記してみようと思う。
最近このテーマについて考えてしまう原因は、やっぱり仕事仲間の転職だ。
その人とは歳も同じで、会社のなかでは若干自分のほうが先輩なのだが、なんとなく気も合い、仕事でもプライベートでも信頼し、親しくしていた。
その彼が転職するという。
理由は、すごく良くわかる。
自分も同じように考えるし、また客観的には当然そう選択するだろう。
でも、自分は(それがひとまずだとしても)ここに残る選択をしている。
それがなぜなのかうまく言葉に出来ないけれども、そう決めているみたいだ。
その彼と最近よく考えを話し合っている。
だからこそ、その彼の選択に対する理由を考えざるを得なくなっているのかもしれない。
そして考えていたのが、自分は何を「良し」とするのかということだった。
自分にとって「生きること」を考えたときに、それは「意識を保ち続けること」なんだと思った。
時々意識があること自体辛くて、耐え難くなってしまうことがある自分にとって、それは同時に意識を保てるだけの、生きることが出来るだけの「モチベーションを保ち続ける」ということなんだろうと思った。
今の会社が、このままの状態でいいなんて思っていない。
逆に今のまま本当に変わらないのであれば、みんなから確実に笑顔が減って行くだろう。
それでもまだここに居る理由は、きっと「あるべきものを、あるべきところに」配置することが、自分にとって時間よりもお金よりも優先順位の高い「良し」とすることなんだろうと思う。
すごく傲慢で勘違いかもしれないが、いま居る場所が、いま居る場所で在るためには、自分がそこに居るべきだと思っている。
(その方法については改善の余地はおおいにあるが)
それは同時にこの「社会」のなかに今の会社を存在させることとなり、その部分についても、「今の会社は、現在の、そしてこれからの社会に在るべき」だと思っている自分の意識につながって行く。
そう在るべきものは、やっぱり、そう在るべきだ。
「自分が」ではなく、この「世界」に重心を置いて「在るべき状態」を考えることで、自分という強迫観念から開放された、もう一歩先の「何か」を垣間見ることが出来るんじゃないか。
その「在るべき状態」をイメージすること。
そう、すること。
自分はこの「存在をデザインすること」を、一番「良し」としたいのかもしれない。
そしてデザインされた状態を、その新しい世界を、この目で見てみたいのかもしれない。
ここ最近は特にまた切実な問題となっているため、考えてしまう機会が多い。
なのでいま想っていることを、とりあえずのかたちだけれども記してみようと思う。
最近このテーマについて考えてしまう原因は、やっぱり仕事仲間の転職だ。
その人とは歳も同じで、会社のなかでは若干自分のほうが先輩なのだが、なんとなく気も合い、仕事でもプライベートでも信頼し、親しくしていた。
その彼が転職するという。
理由は、すごく良くわかる。
自分も同じように考えるし、また客観的には当然そう選択するだろう。
でも、自分は(それがひとまずだとしても)ここに残る選択をしている。
それがなぜなのかうまく言葉に出来ないけれども、そう決めているみたいだ。
その彼と最近よく考えを話し合っている。
だからこそ、その彼の選択に対する理由を考えざるを得なくなっているのかもしれない。
そして考えていたのが、自分は何を「良し」とするのかということだった。
自分にとって「生きること」を考えたときに、それは「意識を保ち続けること」なんだと思った。
時々意識があること自体辛くて、耐え難くなってしまうことがある自分にとって、それは同時に意識を保てるだけの、生きることが出来るだけの「モチベーションを保ち続ける」ということなんだろうと思った。
今の会社が、このままの状態でいいなんて思っていない。
逆に今のまま本当に変わらないのであれば、みんなから確実に笑顔が減って行くだろう。
それでもまだここに居る理由は、きっと「あるべきものを、あるべきところに」配置することが、自分にとって時間よりもお金よりも優先順位の高い「良し」とすることなんだろうと思う。
すごく傲慢で勘違いかもしれないが、いま居る場所が、いま居る場所で在るためには、自分がそこに居るべきだと思っている。
(その方法については改善の余地はおおいにあるが)
それは同時にこの「社会」のなかに今の会社を存在させることとなり、その部分についても、「今の会社は、現在の、そしてこれからの社会に在るべき」だと思っている自分の意識につながって行く。
そう在るべきものは、やっぱり、そう在るべきだ。
「自分が」ではなく、この「世界」に重心を置いて「在るべき状態」を考えることで、自分という強迫観念から開放された、もう一歩先の「何か」を垣間見ることが出来るんじゃないか。
その「在るべき状態」をイメージすること。
そう、すること。
自分はこの「存在をデザインすること」を、一番「良し」としたいのかもしれない。
そしてデザインされた状態を、その新しい世界を、この目で見てみたいのかもしれない。