にっき。

なまけもののグダグダ日記。

あるべきものを、あるべきところに。

2008-05-29 01:00:00 | 考えごと
生きることについては日々よく考えるテーマであり、また好きなテーマでもあるのだが、
ここ最近は特にまた切実な問題となっているため、考えてしまう機会が多い。

なのでいま想っていることを、とりあえずのかたちだけれども記してみようと思う。


最近このテーマについて考えてしまう原因は、やっぱり仕事仲間の転職だ。
その人とは歳も同じで、会社のなかでは若干自分のほうが先輩なのだが、なんとなく気も合い、仕事でもプライベートでも信頼し、親しくしていた。

その彼が転職するという。

理由は、すごく良くわかる。
自分も同じように考えるし、また客観的には当然そう選択するだろう。

でも、自分は(それがひとまずだとしても)ここに残る選択をしている。
それがなぜなのかうまく言葉に出来ないけれども、そう決めているみたいだ。
その彼と最近よく考えを話し合っている。
だからこそ、その彼の選択に対する理由を考えざるを得なくなっているのかもしれない。


そして考えていたのが、自分は何を「良し」とするのかということだった。

自分にとって「生きること」を考えたときに、それは「意識を保ち続けること」なんだと思った。
時々意識があること自体辛くて、耐え難くなってしまうことがある自分にとって、それは同時に意識を保てるだけの、生きることが出来るだけの「モチベーションを保ち続ける」ということなんだろうと思った。

今の会社が、このままの状態でいいなんて思っていない。
逆に今のまま本当に変わらないのであれば、みんなから確実に笑顔が減って行くだろう。
それでもまだここに居る理由は、きっと「あるべきものを、あるべきところに」配置することが、自分にとって時間よりもお金よりも優先順位の高い「良し」とすることなんだろうと思う。

すごく傲慢で勘違いかもしれないが、いま居る場所が、いま居る場所で在るためには、自分がそこに居るべきだと思っている。
(その方法については改善の余地はおおいにあるが)
それは同時にこの「社会」のなかに今の会社を存在させることとなり、その部分についても、「今の会社は、現在の、そしてこれからの社会に在るべき」だと思っている自分の意識につながって行く。


そう在るべきものは、やっぱり、そう在るべきだ。

「自分が」ではなく、この「世界」に重心を置いて「在るべき状態」を考えることで、自分という強迫観念から開放された、もう一歩先の「何か」を垣間見ることが出来るんじゃないか。

その「在るべき状態」をイメージすること。
そう、すること。

自分はこの「存在をデザインすること」を、一番「良し」としたいのかもしれない。
そしてデザインされた状態を、その新しい世界を、この目で見てみたいのかもしれない。

生きること。

2008-05-24 00:23:48 | 考えごと
また一人、仕事仲間が減りそうだ。
確かに、給与、待遇、年齢を考えると至極当然の選択だと、自分も思う。
ただ、やっぱり、寂しい。
頭では理解できるのだけれども、気持ちがついていっていない。

これでもう何人目だろう。
自分が入社してから、幾度となく同じように寂しくなる機会があった。

自分自身についても、当然不安が無いわけはなく、これでいいのか、このままでいいのか、ずっと、迷い続けている。

このまま進んでも、道はないんじゃないか。
思いなおしたそのときには、既にどこにも道なんてなくなっているんじゃないか。
そもそも、いまいるところは、どこなんだろう。
意気地のない自分は、いつでも不安で、迷っている。


でも、まだ此処で、全力を出し切っていないような気がする。
もちろん、そのときどきで出来ることは精一杯やってきた。
会社から得ている報酬以上の労働と時間を費やしていると、自分でも思う。
でも、傍から見てどんなに賢い選択じゃなかったとしても、
自分の想いが、まだ納得していない。
自分が此処を選んだ理由、自分が此処にいる理由、その芯の部分にまだ到達していない。

それが、自分がまだ此処にいる、一番の理由なんだと思う。



ここ最近、人から心配されることが重なった。
みんな、無理している、辛そうな自分を見るのが辛かったという。
自分を心配してもらっている、大切に思ってもらっているということは、素直に嬉しい。

ただ、ちょっと驚いた。
自分が自分で思っている以上に、人が自分を心配してくれていた。

自分自身を大切にすることは苦手なのだが、人が辛くなっていることも得意じゃない。
大切に思ってくれている人のためにも、自分自身を大切にしないといけない。
でもこれがまた、慣れなくて、難しい。



ひとはみんな、しあわせになるために、いきている。
この世に生を受けたすべてのひと、一人残らず。
そうであって欲しいし、そうあるべきだと思う。

人が生きるということは、可能性であり、感じるということ。
それは、未決定であるがゆえに不安定で、感じ取るがゆえに時によっては辛いときもあるのだろうけれども、
同時に、未来を思い描き、創り出し、想像もしなかった歓びを感じることが出来るということ。


その人が生涯どれほどの歓びを実感することが出来たのか。
それこそが、いちばんの大切なことなのではないか。


どの道を歩んでも、
どの選択肢を選んでも、
不安でも、
寂しくても、
辛くても、
それが自分にとって、
相手にとって、
歓びに、しあわせに続く道なのであれば、
何も問題はない。

大切なものたちを、恐れることはない。

2008-05-06 23:25:14 | 考えごと
自分自身が、一番、信用出来ないから、
すべての重みを忘れ、何をしてしまうのか自分でもわからないから、
だから、
自分が大切にしたいものたちから、自分自身を遠ざける。
大切なものたちを、自分が傷つけてしまうことを恐れる。
大切なものたちを、恐れる。

だけど、それは自分勝手な解釈なのかもしれない。

自分が大切に想うものたちが、自分と同じように、自分を大切に想っていてくれるのだとしたら、
大切なものたちを恐れるということは、その大切なものたちを悲しませるということにつながるのではないだろうか。


幸運にも「大切なもの」を持つことが出来ているのなら、
恐れずに大切なものとつながり、
遠慮せずに、自分自身が幸せを感じること。
それが、大切なものを、大切にすることに、つながるのではないだろうか。


人は、完全じゃない。
力足りないこと、どうしようもないこと、間違ってしまうこと、きっとたくさんある。
それでも、自分だけの解釈で、閉ざすべきじゃない。

大切なものたちを、恐れる必要はない。

辿り着きたい場所。

2008-05-02 00:35:43 | 考えごと
自分は、何処に辿り着きたいのだろう。
何を、見ようとしているのだろう。


ここしばらくの自分がそうだから、なのかもしれないが、
「したいから、している」ことよりも、
「せざるを得ないから、している」という動力のほうに、
どちらかというと惹かれるようだ。

ゼロからプラスへ向かう方向(拡散)よりも、
マイナスからゼロへ向かう方向(収束)とでも言えるだろうか。

以前このブログで、人が行動する動機には「好奇心」と「安心感」があるのではないか、というようなことを書いた(ような気がする)。

それは、今も、そう思う。

「ゼロからプラスへ向かう方向」は「好奇心」に、
「マイナスからゼロへ向かう方向」は「安心感」に
言い換えることが出来るかもしれない。


誰しも安心したいんじゃないかと思う。
少なくとも、自分は、安心したい。
安心したいのに、それが叶わず、そして「いま」の扱い方もわからないから、
考えて、考えて、考えて、
考えざるを得なくって。
それでもやっぱり安心できなくて。

好奇心を動力とするには、あまりにも安心感が足りなく感じてしまっているんだと思う。


そんなことを感じている人は、そう居ないのではないかと思っていたけど、
実は、そんなこともないかもしれないと、
最近気付いてきた。


その人にとって切実な、その人がせざるを得なかったこと、それをやり続けてきているということ、
それが、自分のなかの切実な部分、せざるを得なかった部分と重なり、
具体的なかたちは見えていないけれど、何か、紐解く可能性になり得るのではないかと、感じている。

人ひとりが、厄介でも無視できずに、せざるを得ずにずっと抱えてきたもの。
たとえそれが、いま「答え」というかたちになっていなかったとしても、
そこには確かな、嫌味の無い存在感がある。


自分は、他者のそれを、知りたいと想う。
と同時に、
自分のそれを、他者に、知って欲しいと想う。

それはきっと、「ひと」そのものであり、またお互いに知り合い、影響し合うことが、いまここに生きている意味なのではないかと想う。


もしかしたら、それが「答え」というわかりやすいかたちになっていないことにこそ、意味があるのかもしれない。