風景居酒屋 ごじゃ満開

2011年03月11日14時46分、東日本大震災発生
(since 2007/8/15)。

1249)私的岩手通史の旅 第113回(奥州合戦 第6幕)

2012年03月04日 | 私的岩手通史の旅
 某投資顧問会社による年金消失問題が連日紙面を賑わせています。約2000億円の年金資産の大半が消失したとも書いてありましたが、厚生年金が心もとない中、企業年金も心配となれば、信用できるのはタンス預金でしょうか?

にほんブログ村 旅行ブログ ぶらり旅へにほんブログ村 ←本日の「前菜」が美味でしたらクリックして下さい

第113回 奥州合戦-第6幕-(平泉町 義経堂)

 奥州合戦の6景目です。藤原秀衡が1187(文治3)年10月29日に急死したことは前回触れましたが、秀衡は死ぬ前に、泰衡・国衡兄弟に対し源義経を主君と仰いで仕えるように遺言しました。自分の妻を国衡の嫁にしたことといい、自分亡き後を憂い様々な手を打ったようにも感じます。

 そんな秀衡の死後、朝廷と頼朝の思惑が交錯し情勢が目まぐるしく変わりますが、数度に渡り朝廷から「義経追討」の命令が届いた結果、1189(文治5)年閏4月、泰衡は義経のいた「衣河館」を襲いました。義経は妻と4歳の子供を殺し、自害しました。31歳だったそうです。

 義経が最期を迎えた地というのは現在の平泉町の高館(たかだち)だったとされ、現在は義経堂が建っています。石段を登ると正面に北上川と束稲山が一緒に現われます。

(義経堂から眺めた束稲山と北上川 -平泉町平泉 2011/02/05-)

 現在この地には「義経堂(ぎけいどう)」が建っています。江戸時代の1683(天和3)年に仙台藩4代藩主伊達綱村が義経を偲んで建てたもので、堂内には木像義経が安置されています。ドラマ義経を演じる人にはイケメンが多い気がしますが、木像の義経はちょっとぽっちゃり顔です。

(義経堂と義経木像 -平泉町平泉 2011/02/05-)

 有名な松尾芭蕉が「奥の細道」で「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」と詠んだのはこの地だとされ、1989(平成元)年に句碑が建てられました。一方で毛越寺境内にもかつて高館から移されたと伝えられる芭蕉句碑があります。

 重い句碑を何故移したのでしょう?どうも往時に思いを馳せるよりも低次元の方向にしか思考が至りません。

 泰衡は父の遺言にそむき朝廷や頼朝に従ったのですが、平泉に平穏な日が戻ることはなく、更なる戦いへと続いていくのです。



2011/03/04の一品・・・897)はやぶさ出発前夜
2010/03/04の一品・・・662)盛岡散歩 渋民彷徨(宝徳寺)
2009/03/04の一品・・・お休みでした
2008/03/04の一品・・・197)宮脇氏の見た栃木県3 間藤(終着駅へ行ってきます)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1248)下野ワンデイハイク 旧... | トップ | 1250)下野ワンデイハイク 旧... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

私的岩手通史の旅」カテゴリの最新記事