風景居酒屋 ごじゃ満開

2011年03月11日14時46分、東日本大震災発生
(since 2007/8/15)。

1333)私的岩手通史の旅 第124回(奥州合戦 第17幕)

2012年05月27日 | 私的岩手通史の旅
 「トマトと一緒に酒を飲むと、酔いの回りが緩やかになり、飲酒した後の酔い覚めも早くなる可能性がある」という研究結果が発表されました。これからは居酒屋でトマト料理の注文が増えるかもしれませんし、スーパーの店頭からトマトが消えるかもしれませんが、あっしには関わりのないことです。要はそこまでして飲まなければいいんです。はい。


第124回 奥州合戦 第17幕(盛岡市 厨川八幡宮)

 私的岩手通史の旅、奥州合戦の最終幕です。厨川柵での宴会によって奥州合戦は幕を閉じました。宴会の行なわれた厨川柵には以前ご覧いただいた「貞任・宗任神社」「八幡神社」から少し離れて「厨川八幡宮」も建っています。

 頼朝がわざわざ厨川まで北上し祖先と同じような行動をとったことについて、「岩手県の歴史(山川出版社)」では「奥州藤原氏そのものが、鎌倉幕府成立の根幹にかかわって邪魔な存在だった」「祖先の頼義(よりよし)が前九年合戦の最後に厨川柵で倒した安倍貞任(あべさだとう)の首を懸けた故事に倣って泰衡の首を厨川で懸けることにより、頼朝は全国の武士に自らが源氏の棟梁にふさわしいことを印象づけた」と解説しています。


(厨川柵に建つ厨川八幡宮 -盛岡市安倍館町 2011/10/09-)

 一方、故宮脇俊三氏は「頼朝という人は西の方へは行かない。京や西国は弟の義経らや義父の北条時政をやって対処してきた。が、東国となると電光石火、たちまち平泉まで行ってしまう。東国の地固めが頼朝や御家人達にとって何より大切だったのだろう(平安鎌倉史紀行)。」と軽妙な綴りで頼朝と東国の関係を述べ、血なまぐさい宴会については省いています。


(幾多の戦を見てきた岩手山と北上川 -盛岡市大通 2009/07/30-)

 素人目線で考えれば、情報網が現代にはるかに及ばないこの時代に、厨川での宴がどれだけ全国の武士にインパクトを与えたのか?泰衡の首を始め藤原代々の棟梁の遺体を何故始末しなかったのか?・・等々頼朝の行動に疑問は残りますが、何れにしろ奥州藤原氏は滅び、奥州は鎌倉幕府の一地域なってしまいました。


2011/05/27の一品・・・968)房総ワンデイハイク 千葉市稲毛区10(浅間の森)
2010/05/27の一品・・・725)私的岩手通史の旅 第17回
2009/05/27の一品・・・510)道南半日9 北海道新幹線
2008/05/27の一品・・・271)盛岡散歩 金殖神社

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