アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

天皇とベトナム<下>日本・沖縄をベトナム戦争の出撃基地にした昭和天皇

2017年03月06日 | 天皇制と日米安保・自衛隊

        

 明仁天皇が晩さん会でのスピーチ(1日)で触れなかった期間に起こったもう1つの重大な出来事は、ベトナム戦争(1965年~73年)です。

 天皇・皇后は2日夜、ハノイでグエン・ドクさんに会い、「どうぞお元気で」と声を掛けました(写真左)。ドクさんはベトナム戦争でアメリカ軍が散布した猛毒・枯葉剤によって結合双生児として生まれた「ベトちゃんドクちゃん」の1人(写真中)。兄のベトさんは2007年に死去しました。

 ベトナムの人民と国土に計り知れない犠牲をもたらしたアメリカ帝国主義の歴史的犯罪であるベトナム戦争。日本はこの戦争に無関係であるどころか、直接アメリカを支持・支援しました。よく「戦後日本は平和を貫いた」と言われますが、それは大きな誤りです。少なくとも朝鮮戦争、ベトナム戦争で日本は直接アメリカに従属・加担した戦争当事国の1つです。

  「ベトナム戦争が始まると、日本は自衛隊の海外派遣をのぞいて米国に対する政治的・経済的支援に乗り出した。佐藤栄作首相は『米国の立場に対する支持』を表明し、東南アジア諸国に対する経済援助を約束した。また日本国内にある米軍基地の使用に理解を示した。沖縄にある米空軍基地はベトナムへ向けての出撃基地となり、横須賀・佐世保基地は米第七艦隊の拠点となった」(中村政則氏『戦後史』岩波新書)

 沖縄は出撃基地になっただけではありません。米軍は北部ヤンバルの森に「ベトナム村」なるものをつくり、現地の沖縄住民を「ベトコン」に見立てて攻撃訓練を行うという信じがたい蛮行を働きました。

 日本はベトナム戦争でベトナムの人々に多大な犠牲を与えた加害責任があります。沖縄はその主要な任務を担わせられるとともに大きな被害をこうむるという二重の立場に置かれました。

  重要なのは、こうして日本・沖縄がベトナム戦争に果たした「役割」に、昭和天皇(天皇制)が深くかかわっていたという歴史的事実です。

  ベトナム戦争における日本の加害責任の根源は、いうまでもなく対米従属の軍事同盟である日米安保条約(1951年締結、60年改定)です。天皇裕仁は憲法の「象徴天皇制」の規定を無視して日米安保体制確立に大きな役割を果たしました。

  戦後、講和条約と「日本の安全保障」の行方が議論されていたさ中、天皇裕仁とマッカーサー元帥の第4回会見(1947年5月6日)が行われました。

 「ここで天皇は(憲法)第九条にも国連にもおよそ期待をかけていないかのように、その“本音“を明快にうちだした。つまり、『日本の安全保障を図る為には、アングロサクソンの代表である米国が其のイニシアチブを執ることを要するのでありまして、此の為元帥の御支援を期待して居ります』と、事実上アメリカの軍事力による日本の安全保障を求めたのである」(豊下楢彦氏『安保条約の成立』岩波新書)

 さらにその4カ月後の47年9月19日、天皇裕仁は側近の寺崎英成を通して米側に次のような「メッセージ」を届けました。
 「天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することにもなるとのお考えである」(『昭和天皇実録』より)
 米軍に日本=国体(天皇制)の「保護」を懇願するために沖縄を売り飛ばした、有名な(悪名高い)「沖縄メッセージ」です。

  こうして天皇裕仁は、ふたたび沖縄を「捨て石」にして、対米従属の日米安保条約の締結・軍事同盟体制のレールを敷きました。ベトナム戦争での日本の加害責任はその1つの帰結です。

  明仁天皇は今回のベトナム訪問で「歴史を知ることは大事なこと」(4日)と述べました。だとするなら、以上の「歴史」に照らし、実父・裕仁天皇が行ったことを踏まえ、日本がベトナム戦争で多大な犠牲を与えたことについて、なんらかの「謝罪」があってしかるべきではなかったでしょうか。「お元気で」だけではすまないはずです。

  


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