「障害児を育てる」ということは、わたしにとっては、「今まで知らなかった世界」の扉が開くことでもありました。
「障害」というものの概念の扉を開いていったときに、そこに見出したものは「自分というものの尊厳」というものでした。
プラスになると人から思われるものも、マイナスになると人から思われるものも、全て「自分」というものの「存在」自体の「尊厳」である。
「障害」というものを持つ、ということは、そのことを哲学的に広げていかなければならなくなる。
逆にいうと、「自分というものの尊厳」に関しての思考を、無限に広げていく可能性を持っているのかもしれないとも思う。
「魔法の手の子どもたち―『先天異常』を生きる」という書籍は、「障害について」を超え、自分自身の尊厳を持つということの大切さを考えさせる名著だと、わたしは思います。
この本は、友人に借りて読み、この名著を自分のものにするために買い直しました。
この本を読んでから、ずっと頭を離れなかったのは、「プロローグ 電話の向こうの人生『障害』を心に閉じこめて」という部分です。
自分の持っている一つの「部分」に関して、誰からも「直視」されず「言及」されず、結果的には「無視」という形で否定され、そのことで自分自身が「直視」することを許されず、自分自身を認められなくなっている人の「悲痛な叫び」がそこにありました。
「部分」の否定は、全てを肯定することを許されないことにつながっていく。
娘が予防接種を受け始める時期「MMR」が「危険な予防接種」として話題になっていました。
幸運なことに、娘が受け始める時期には、このことが大きく問題化され、法律が変わり、この「危険なワクチン」を接種する必要がなくなりました。
「危険なワクチン」を接種する必要がなくなったのは、喜ぶべきことです。
しかし、その陰に、亡くなった命と後遺障害を負った命は存在するわけです。
わたしはこの「事実」を知ったときに、思いを馳せたのは「母親に対して」でした。
予防接種を受けるために、注射を嫌がる我が子を「押さえつけて」接種させただろう「母親」に対してでした。
わたしがそこで思っていたのは、その「事実」に対しての「同情」ではなく、この被害に遭った「母親」たちが、そのことでずっと背負っていく「自分に対しての他者の解釈」ということです。
子どもだけではなく、そういう「他者の目」、そして「自分の後悔」という「障害」を背負わされていくのだろうなと。
それは、たまたま、その方だった。
誰もが背負う可能性を持っていた、という思いもありました。
さて、前述の「障害」に対して、もう一度。
「障害」というものの概念の扉を開いていったときに、そこに見出したものは「自分というものの尊厳」というものでした。
プラスになると人から思われるものも、マイナスになると人から思われるものも、全て「自分」というものの「存在」自体の「尊厳」である。
「ゆうくんちの日常」の「もうひとつの誕生日」を読む。
そこに、わたしは一人の「母親」が歩いてきた日々を思う。
また、彼女自身が背負わされた「障害」を思う。
しかし、それもまた、彼女の「『自分』というものの『存在』自体の『尊厳』」のひとつなのだと思う。
彼女の背負わせられた「障害」の精神的な部分は、誰もが踏み込むことのできない「結界」だと思う。
しかし、その「結界」自体が「存在」することを、わたしは彼女の「尊厳」として肯定する。
「ゆうくんちの日常」のリエさんにお会いした日、わたしは彼女にひとつの「歌」を贈りました。
もともと好きだったその「歌」ですが、この「歌」ほど、彼女にマッチしているものはないだろうと思った。
その「歌」の「歌詞」はコチラです。
*「ゆうくんちの日常」の「もうひとつの誕生日」にトラックバックです。
「障害」というものの概念の扉を開いていったときに、そこに見出したものは「自分というものの尊厳」というものでした。
プラスになると人から思われるものも、マイナスになると人から思われるものも、全て「自分」というものの「存在」自体の「尊厳」である。
「障害」というものを持つ、ということは、そのことを哲学的に広げていかなければならなくなる。
逆にいうと、「自分というものの尊厳」に関しての思考を、無限に広げていく可能性を持っているのかもしれないとも思う。
「魔法の手の子どもたち―『先天異常』を生きる」という書籍は、「障害について」を超え、自分自身の尊厳を持つということの大切さを考えさせる名著だと、わたしは思います。
この本は、友人に借りて読み、この名著を自分のものにするために買い直しました。
この本を読んでから、ずっと頭を離れなかったのは、「プロローグ 電話の向こうの人生『障害』を心に閉じこめて」という部分です。
自分の持っている一つの「部分」に関して、誰からも「直視」されず「言及」されず、結果的には「無視」という形で否定され、そのことで自分自身が「直視」することを許されず、自分自身を認められなくなっている人の「悲痛な叫び」がそこにありました。
「部分」の否定は、全てを肯定することを許されないことにつながっていく。
娘が予防接種を受け始める時期「MMR」が「危険な予防接種」として話題になっていました。
幸運なことに、娘が受け始める時期には、このことが大きく問題化され、法律が変わり、この「危険なワクチン」を接種する必要がなくなりました。
「危険なワクチン」を接種する必要がなくなったのは、喜ぶべきことです。
しかし、その陰に、亡くなった命と後遺障害を負った命は存在するわけです。
わたしはこの「事実」を知ったときに、思いを馳せたのは「母親に対して」でした。
予防接種を受けるために、注射を嫌がる我が子を「押さえつけて」接種させただろう「母親」に対してでした。
わたしがそこで思っていたのは、その「事実」に対しての「同情」ではなく、この被害に遭った「母親」たちが、そのことでずっと背負っていく「自分に対しての他者の解釈」ということです。
子どもだけではなく、そういう「他者の目」、そして「自分の後悔」という「障害」を背負わされていくのだろうなと。
それは、たまたま、その方だった。
誰もが背負う可能性を持っていた、という思いもありました。
さて、前述の「障害」に対して、もう一度。
「障害」というものの概念の扉を開いていったときに、そこに見出したものは「自分というものの尊厳」というものでした。
プラスになると人から思われるものも、マイナスになると人から思われるものも、全て「自分」というものの「存在」自体の「尊厳」である。
「ゆうくんちの日常」の「もうひとつの誕生日」を読む。
そこに、わたしは一人の「母親」が歩いてきた日々を思う。
また、彼女自身が背負わされた「障害」を思う。
しかし、それもまた、彼女の「『自分』というものの『存在』自体の『尊厳』」のひとつなのだと思う。
彼女の背負わせられた「障害」の精神的な部分は、誰もが踏み込むことのできない「結界」だと思う。
しかし、その「結界」自体が「存在」することを、わたしは彼女の「尊厳」として肯定する。
「ゆうくんちの日常」のリエさんにお会いした日、わたしは彼女にひとつの「歌」を贈りました。
もともと好きだったその「歌」ですが、この「歌」ほど、彼女にマッチしているものはないだろうと思った。
その「歌」の「歌詞」はコチラです。
*「ゆうくんちの日常」の「もうひとつの誕生日」にトラックバックです。
>その「結界」自体が「存在」することを、わたしは彼女の「尊厳」として肯定する。
と、文章で伝えてもらったことは初めてで、ありがたかったです。
わたしの気持ちはわたしの気持ちで、
ユウヤの気持ちはユウヤの気持ち(笑)。
人がわたしやユウヤの気持ちになって考えたところで
それは「わたしやユウヤの気持ちを考えたその人の気持ち」
以外の何ものでもない訳で…。
そういうことまで察してもらってたこと「やっぱりね」という感じでしたが(笑)。
なんか最後の方は決意表明みたいになっちゃったけど、
あのTB記事はS嬢さんへのRespectをわたしなりに込めて書きました。
いろんなこと、感じてくれて、気持ちに添ってくれて
本当にありがとう。
感謝です。
web辞書ではこんな風に、意味、出てきますが。
(1)仏道修行に障害のないように、一定地域を聖域として定めること。寺院などの領域を定めること。
わたしの中で「結界」って言葉が浸透したのはね、実はドラクエなんだな。
確か「ドラクエⅡ 悪霊の神々」だったと思う。
入れないんだよね、って場所がある。
イメージとしては、ぴーんとものすごい強力な感じ。
「結界がはられています」とかなんとか言われちゃって。
まあ、でも入らなきゃ、「敵を倒せない」から入るんだけど、「特別の方法」でね。
ただ、こう、衝撃だったのよね、「結界」という概念が。
「入っちゃいけません!」って感じで。
で、わたしは「体験」として「結界」を知っているというか。
で、この「結界」という言葉を、久々に実感を持って思い出した。
「結界」って言葉が一番ふさわしかったんだな。
この間、おうちに行ったときに、この「結界」という言葉を使いながら、
(わっかるかなあ、「結界」って言葉を選ぶ感覚)
とか思ったけど、ものすごい勢いで、首を縦に振りつつ、
「そーーーー」とか言ってたよね。
なんか、別次元なんだけど、
(おお、「結界」で通じるんだ・・・)とか思ってました。
インターネットというものは、新しいコミュニケーションツールとして、ものすごく有効だな、と思う。
リアルだったらね、
>その「結界」自体が「存在」することを、わたしは彼女の「尊厳」として肯定する。
んなこと、こっぱずかしくて、言えませんよ(笑)。
あと、「歌」を贈るなんてこともね。
これは、ドラクエから生まれた「トルネコの大冒険」ってゲームがあって。
魔法を使えない「トルネコ」ってキャラ、魔法の代わりに「巻物」が使える。
巻物に書いてある「呪文」を読むことで、モンスターに対抗するための魔法が使えるのだけど。
その巻物の中で「聖域の巻物」、最強。
この「聖域の巻物」で作ることができる「聖域」。
敵の直接攻撃を受けなくなる。
でも、遠距離攻撃は受ける。
リエ殿。
「遠距離攻撃」には、強くなったみたいだね。
それが「時を重ね、生きる」ってことなんだと思うよ。