写真ー1990年7月20日、法廷にて
★5大ニュースで今年を振りかえりアップを終えようとしたが、あまりにも惜しまれる人物を失い、追悼を兼ねハンギョレサイトの記事を載せる。この記事で今年を締めくくり、2012年を望めば、故人の魂は我々と共に行き続けるでしょう。 N
民主化の歴史に大きく刻まれる名前ーキム・グンテ
[ハニOnly]キム・ジョンチョル記者
登録:20111230
この地における民主化は、1人や2人の血と汗で成就したものではないが、民主化の歴史においてキム・グンテという名前は、大きく深く刻まれるであろう。
キム・グンテ(1947~2011)は
暗黒の時期1970年代後半から90年代初期までの民主化運動を先頭にたち導いた反独裁民主化闘争の象徴であり巨木であった。 全身全霊を捧げ歴史を進歩させた真の闘士であった。
彼を活動家に育てたのは、皮肉にもパク・チョンヒ独裁体制下の暗鬱な時代状況だった。
ソウル大商大(経済学科) 3学年の時の1967年、キム・グンテは大統領選挙不正に抗議する校内デモに参加し逮捕され抵抗の道を歩きはじめた。
70年復学した後には同期生の故チョ・ヨンレ、チャン・キピョ、シム・ジェグォン、ソン・ハクキュなどと共に教練反対(1971)等学内デモを主導した。
71年公安当局が学生運動を弾圧するためにでっち上げた‘ソウル大生国家内乱陰謀事件’の主謀者の1人として手配され、パク・チョンヒ政権の終わる1979年末まで追われて過ごした。
仁川地域で労働運動をしたキム・グンテは1983年9月‘民主化運動青年連合(民青連)’結成を主導することによって、独裁打倒運動の先鋒に立つ。
1980年5・18光州で学生と市民を虐殺し登場したチョン・ドゥファン政権の暴圧統治下で、沈黙した学生運動に再び民主化闘争の狼煙を上げた。その中心に初代、2代目民青連議長を引き受けたキム・グンテがいた。
チョン・ドゥファン政権は
1985年9月4日拘留から解放されてソウル西部警察署を出た彼を、南営洞治安本部対共分室に連行した。
この時からキム・グンテをソウル大学生運動界の「背後」人物にでっち上げるための権力次元の操作が始まった。
キム・グンテは9月25日まで、拷問技術者らから水拷問と電気拷問などを受け、全10回も生死を行き来する拷問と殴打にあった。
“拷問を受ける過程で私は裸にされ拷問台の上に縛りつけられました。”
“裸のまま床を這いながら、生かしてくれと哀願しました。 私は彼らが要求するままするほかはなかったし、彼らの作った調書内容を見て書くしかありませんでした。”
彼はその年12月19日法廷で、あのおぞましい‘獣の時間’をこのように証言した。
…
キム・グンテは挫折しなかった。再び立ち上がり拷問の実態暴露のための法廷闘争に出た。
…
検察庁廊下でキム・グンテから拷問の一端を奇跡的に聞いた夫人イン・ジェクンは、この事実を監獄の外に広く知らしめた。 特に彼女はイ・ミジャ歌テープの間に拷問内容を録音した後、これをアメリカ韓国日報記者のシム・ギソプを通じて海外に広めた。
この事実はニューヨークタイムズなどに大きく報道され、チョン・ドゥファン政権は窮地に追い込まれた。
その功労でキム・グンテとイン・ジェクンは米国の‘ロバート・ケネディ人権賞’(87年)、ドイツ、ハンブルグ自由財団からは‘世界の良心犯’に選定(88年)された。
在野の代表的人物だったキム・グンテは1995年民主党副総裁として入党し政界入りした。
その後キム・デジュン率いる新しい政治国民会議に合流し、1996年15代総選挙で当選した。 以後17代まで三度連続国会議員に当選し、開かれたウリ党院内代表と党議長、保健福祉部長官などを歴任した。
彼は政界に入っても 常に真剣さと正直を重んじ同僚から“国際的紳士”というニックネームで呼ばれた。
1999年、第1回‘ベクポン新思想’賞に選ばれ、同年政治部記者たちの選ぶ‘次世代指導者’でも1位になった。
…
しかし2008年18代総選挙でキム・グンテは、ニューライト出身のシン・ジホ ハンナラ党候補に敗北した。
彼は2012年総選挙を控えて去る3月、民主党進歩改革会を創り共同代表を引き受けるなど再起を夢見たが、ついに病魔に勝てず逝った。
“2008年のチョプルの灯は2009年ノムヒョン弔問行列に繋がり、今は希望バスに乗らなければならない。…我々には来年2012年に二回の機会がある。 最善を尽くして参加しよう。
権力は参加する人々だけに与えられ、そうして作られた権力が世の中の方向を定めるのだ。”
去る10月18日、自身のインターネット ホームページ‘キム・グンテが生きてきた道’に、彼が最後に残した文だ。