教育催眠研究会(面接・講習・研修)

教育催眠研究会のブログ版です。催眠面接・講演等の予約受付や研修会のお知らせをします。

ェイスガード フェイスシールド Face SHield 保護シールド 顔面保護 10枚

2020年08月26日 12時21分12秒 | Weblog
 通常であれば(特に初回の面接では)、ソーシャルディスタンスをとって催眠誘導するというのは至難の業と言えるかもしれない。
 2回目以降の施術なら、オンラインでも可能だが。
 
COV フェイスガード フェイスシールド Face SHield 保護シールド 顔面保護 10枚

積極的幻視(5)冤罪を生む危険性

2019年08月04日 16時43分21秒 | Weblog
 前回は、花はなくても「花」が見える。つまり「六境」(対象)がなくても「六識」は生ずる。というお話しでしたが、付け足しがあります

 「六根」(受信装置)が何もとらえていないはずなのに「六識」が生じる。ということもあります。

 よく聞く例に、事故・病気等の結果、脚の膝から下を切断してしまった人が「足の指先がかゆい」とうったえる等の報告があります。「足の指先」はもうないはずなのに、そこに「かゆみ」を感じたり「痛み」を感じたりするのです。

 これが、「六根」にかかわらず「六識」が生ずる例のひとつです。

 つまり「六識」は、私たちの感覚器官とか外界の事物とは無関係に成立することすらあります。ですから実際に「六境」-「六根」-「六識」がそろっていたとしても、私たちの「認識」というものはあやしいものです。

 1.そこに実際に「花」がある。(境)
 2.「花」が網膜に映る(根でとらえる)
 3.「花」が見えたと認識(識)

 このようにして認識するわけですが、3の(眼識)は、私たちの個々人の頭の中でつくりあげられたものです。したがって、それはをそのまま反映したものとはいえません。

 AさんとBさんでは「見え方」が違うし、それを「見た」時点の条件(体調、気分、先入観、好き嫌い・・・)により、「見え方」が異なるのです。

 同じ人の同じ行動を数人が見た場合、それぞれの人がそれぞれに「眼識」をこしらえているので、「見えた」ものはそれぞれ異なります。

 だから、「私は犯人を見た」「確かにこの人が被害者を刺しました」などと証言する人がいたとしても、その証言が100%正しいとは限らないのです。防犯カメラが録画したものを再生するのとはわけが違うのです。

 その証言は「嘘」ではないかもしれません。証言者が「見た」ままを言っているからです。そのように「見えた」というのは「嘘」ではなくても、それは「事実とは異なる」場合があります。

 その人の思い込みというのは、

 ・実は一瞬しか見なかったので本当はよく確認できていなかった、
 ・現場が薄暗かったので、本当はよく見えていなかった
 ・被告人の顔(写真等)を見たら、あまりいい印象を持たなかった
 ・被告としてあげられた人が、自分が嫌っている民族、エリア、グループに属する人だった
 ・その後の報道や警察の聞き込み捜査の過程で「刷り込み」が起こり、目撃者の無意識が被告を「悪人だ」と思い込んでしまうようになった
 ・その他・・・

  等の条件が、「眼識」に影響をあたえます。

 その結果「あの人が犯人です。私は確かに見ました」となります。

 このようにみれば、この証言は参考にすることはできますが、その証言を100%信用して「事実」だと認定すると「冤罪」を生む危険性があるのです。

積極的幻視(4)

2019年08月04日 08時54分15秒 | Weblog
積極的幻視(4)

 私たちがものを「見る」あるいは「見える」ということはどういうことでしょうか。

 たとえば、目の前に「花」(視覚の対象物)があるとします。花は光を反射して、その光が私たちの「眼球」に差し込んできます。網膜に「花」の映像が映ります。

 これで「眼」という受信装置が、対象物「花」をキャッチしたのですが、ただしこの段階ではまだ「見えた」とはならないのです。

 対象物を網膜でキャッチしたあと、さらにその情報を「脳」に送り込み、頭の中で「情報処理」しなければならないのです。このことを、「認識」といってます。

 ここまでいってはじめて「見えた!」となるのです。

 このことについて詳しく説明されたのはブッダなので、ブッダの用語を使えば、簡単に説明できます。

 視覚に関していえば、

「色」(視覚の対象)→「眼」→「眼識」というふうな図式で「認知」とか「認識」というものがうまれます。

 それは視覚だけではなく、聴覚・嗅覚・味覚・触覚でとらえたものや、「かたち」のないものを「概念」として感じ取ったものを認識してしまう(例:「森」「芸能界」「教育界」「政界」など具体的な「かたち」をもたないものを「ある」と感じる)ことも説明してくれています。

 まとめると、認識の対象となるものが

 ・「六境」・・・「色・声・香・味・触・法」

 それを受信する装置(感覚器官)が

 ・「六根」・・・「眼・耳・鼻・舌・身・意」

 六境(感覚の対象物)と六根(感覚器官)でとらえたものを「認識」させる作用が

 ・「六識」・・・「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」

 です。

 「六識」という作用があって初めて、私たちは「見えた」「聞こえた」「いい香りだ」「おいしい」・・・。などと感じ取ることができるのです。
 ここまではいいでしょう。

 ここで、肝心なことがあります。私たちの通常の認識の過程は上記のとおりですが、ところが、たとえ対象物がなくても私たちは「もの」を認識してしまうことがあるのです。

 たとえばそこに「花」という物体がない。だから網膜に「花」の映像は映ってはいない。にもかかわらずなんらかの刺激によって「眼識」が働けば、「花」が見えてしまうのです。「眼識」が働くと、逆に網膜に花が映っているかのように、そしてその対象物が目の前にあるかのように錯覚してしまうのです。

 これを、催眠関係の言葉で「積極的幻視」と言っているのです。

 でもこれは何も、催眠だとか非日常の状態だけにかぎることではないのです。

 むしろ、私たちの脳は常に、無意識のうちにこのような作業をしています。
 だからブッダは「人間はつねに妄想を見ている」というのです。

 ここからが肝心なところですが、長くなりましたので次回に回します。

 次回は「目撃証言は必ずしも100%あてになるわけではない-「見えたもの」と「事実」は同じとはいえない」

積極的幻視(3)一炊之夢

2019年07月27日 20時21分15秒 | Weblog
「一炊之夢」

 facebook の方で、少しふれたので、私たちの「認知」とか「認識」の成立過程について、つまりものが「見える」というのはどういう状態かについて考えてみたいと思っていましがが、今日も雑談をはさみます。

 「一炊之夢」。これにはいろいろな呼び方があり、邯鄲夢(かんたんのゆめ)、黄梁夢(こうりょうのゆめ)、他は省略。

 若い頃は、この話たんなる寓話だと思ってましたが、今日ふとこの話を思いだし、これは実際にあった「出来事」であろうと気づきました。

  『枕中記』という物語にあるそうですが・・・


 唐の開元七年(西暦719年)、盧生(ろせい)という若者が立身出世を志し、馬で邯鄲(かんたん)へやってきて、とある宿屋にはいった。

 そこには呂翁(りょおう)という仙人の術を心得た老人が泊まっていたので、身の上を物語る。

 宿屋の主人が、これから飯をたこうとする、飯の来るのを待って盧生は眠ろうとする。

 呂翁がリュックサックの中から青磁の枕を取り出して彼に貸してくれる。その枕の両端には穴があいている。盧生がその穴を見ているうちに、穴はだんだん大きくなり、トンネルのようになる、その中を進んでいくと立派な家がある・・・・・・。それから、とても美人で、しかもしとやかな娘と結婚する。高文試験に及第、それから知事になったり、検事総長になったりする。一度は讒言(ざんげん)に会って、死刑にされようとするが危うく免れる。後に位は人身の栄をきわめ燕国公に封ぜられる。その間に子供は五人、孫は十何人もできる。八十すぎて病気で死ぬ。

 盧生は、あくびして目が覚(さ)めれば、なんのことはない、もとの宿屋に寝たままであり、呂翁が、その傍に坐(すわ)っている、主人は飯をまだ運んでこない。「なあんだ夢だったのか」と盧生がいうと、呂翁は「それが人生だよ」と教える。

 しばらく考えていた盧生は、「なるほど立身出世といっても、はかないものだという道理が判(わか)りました、先生のお教えは有難(ありがと)うございました」と悟(さと)って帰っていった。



 デモンストレーションを見たことのある人ならわかるはずです。「催眠法」を使えばこれくらいの「夢」は、はっきりと見えるのだと。

 現在でも、武術の「達人」になると自然に催眠術をつかえるようになる人がいるくらいですから、昔の「仙人」と呼ばれたりする人は、もっと自由自在に「術」を使えたのでしょう。

 また、日本でも昔は「きつねつき」だとか、西洋では「おおかみつき」だとかいってトランス状態になる人がたくさん存在したので、今よりももっと被暗示性の高いひとが多かったのだと思います。

 だから盧生も、
「この夢は、呂翁が術を使って見せてくれたのだ。人生とはこんなものだということを教わったのだ」
 と悟ったからこそ「ありがとうございました」と言ったのでしょう。

 「一炊之夢」を見た方がよかったか、見なかった方がよかったか。すくなくとも盧生は、その教えに納得したようです。

 が、私たちの「催眠法」は、できるかぎり他者の価値観にはできるかぎり影響を与えないように配慮する必要があります。

 そのことも含めて、実際の催眠面接では「幻視」の技法はあまり使わない方がよいと私は思っています。

 [教育催眠研究会(スマホ用サイト)]
 [漢字家族(スマホ用サイト)]
 

スマホ用サイトを更新「教育催眠研究会」

2019年07月25日 21時23分14秒 | Weblog
教育催眠研究会(スマホ用サイト)
 を更新しました。

 https://83g66.crayonsite.net/

 [瞑想・気づき・人間関係](書籍)

教育催眠研究会スマホ用サイト

2019年07月14日 19時43分45秒 | Weblog
 「教育催眠研究会」(スマホ用サイト) を公開しました。

教育催眠研究会スマホ用サイト1
教育催眠研究会スマホ用サイト2


新・軟酥鴨卵の法(なんそおうらんのほう)[催眠誘導音声④]

2018年12月27日 09時44分11秒 | Weblog
新・軟酥鴨卵の法(なんそおうらんのほう)[催眠誘導音声④]


 新・軟酥鴨卵の法(催眠誘導音声④)です。
前回の「軟酥鴨卵の法(催眠誘導音声③)」が上級者用だったので、今回は初めての方もやれるように、
「深呼吸→弛緩法→軟酥鴨卵の法」と一連の流れにそっています。

 コンパクトにまとめたつもりです。15分間のリラックスタイム。
安眠・美容と健康・免疫力アップのため、続けてみてください。

新軟酥鴨卵の法(なんそおうらんのほう)催眠誘導音声④

2018年12月23日 16時23分43秒 | Weblog
「新軟酥鴨卵の法」

必ず「眠る体勢」を整えてから、
ご視聴ください。

https://youtu.be/SmPHx64Gj8A

もうあなたは催眠を必要としない!

2017年06月21日 20時03分16秒 | Weblog
熱心に「メンタルリハーサル法」の研究を続けてくれている生徒さんのうち3名に、本日「もう催眠を必要としない!」と言い渡しました。

彼らは非常に熱心で、物事の本質をよく見抜き、効率よく学習をすすめてきました。常に的を射た質問をしてくれたので、私の説明が自然と手順を踏んでいくことにつながりました。

そして今日は実験的な授業のモデルとして私に協力をしてくれました。
おかげで本当に有意義な時間となりました。その内容は、また後ほど。

放課後、たずねてくれたこの子たちに感謝の意を伝えるとともに、今日のタイトルにある言葉を伝えました。

協力してもらえるのはとてもありがたいのですが、自己催眠はともかく、他者催眠をやる機会が多くなってしまうと困ったこともあるのです。

【依存心】
 他者催眠で誘導されることが続くと、そこに「依存心」が生まれてしまいます。「催眠のおかげでリラックスできる・・・」だとか。こうなるとよくありません。裏を返せば、催眠がないとあまり落ち着けない・・・ということにつながってしまいそうな気になりますから。
 ということで、依存心が大きくならないうちに、これからはなんでも自分で問題解決ができる・・・という自身を持ってもらうのです。

【転移・逆転移】
 それともうひとつ。臨床心理学でいうところの「転移」「逆転移」に似た現象も生じかねません。
 教育現場でやるのは、あくまでも「教育催眠」「メンタルリハーサル法」であって、決して治療だとか分析だとかはやりませんが、それでも細心の注意は必要です。
 教育者はできるだけ深く学び、たとえ臨床家ではなくとも、そのたぐいの書物は可能な範囲でたくさん読んでおく必要があるのです。この「転移・逆転移」の問題などは、たとえ催眠をやらない人でも知っておく方がよいのです。

【気づきのトレーニング】
 本日「君たちは、もう催眠を必要としない」と言ってもらえた生徒たちは、完全に「目覚めた」状態で、その瞬間瞬間の自分や周りの情報を、できるだけあるがままにキャッチして、賢く対処できるようなトレーニングに入っていけることでしょう。

 この子たちのレベルにまで到達したら「催眠はもう卒業した」と言ってあげる方が、この子たちにとってはいいことなのです。
 催眠の施術者は、この「潮時」をつかまないといけないのです。できればそれを指摘してくれる第三者をつけておくといいのですが。
 「いや、もうちょっと他者催眠と自己催眠の併用を続けよう」と思いがちですが、自分が考えている以上に早く「卒業の時」はやってきています。
 施術者は、「まだちょっと早いな」と思う段階で、自分の執着を断ち切らなければなりません。
 これは肝心なことであり、心に刻んでおかなければなりません。「依存心」はマイナス。「自律・自立」こそ主眼です。

 本日も、気の向くままの走り書きでした。

 教育催眠研究会
 事務局 渾沌
 http://www.konton.net/saimin






偏見の点検(2)

2017年06月17日 16時59分25秒 | Weblog
メンタルリハーサル法研究会「偏見の点検」(2)

実施日:2017年6月16日(金)
参加者:高校生3名、教員2名

 科学的・合理的な観察の基本事項について、実験により確認(体験的に学習)。「認知」とは?

1.感覚のコントロール
 ・時間の歪曲(楽しい時間を長く感じさせる・苦しい時間を短く感じさせる)
 ・触覚のコントロール(触れた感じ、痛覚など)
 ・味覚のコントロール(飲料や食べ物の味を変える)
 ・視覚のコントロール(消極的幻視・積極的幻視)
 ・人格変換(日頃何気なく観察している、他者の表情や声色・口調・癖などを忠実に再現する。いわゆる「憑依」の状態)
2.減感作療法的アプローチ
 ・上記の感覚のコントロールの実験と並行して、「集合体恐怖症(trypophobia)」の克服。(1回の施術で大幅に改善)

 それぞれの詳細については、後ほど。

(例)
 ※いわゆる「憑依現象」が「霊的な体験」ではないということ。つまり、日頃の観察眼が想像以上に鋭いことと、それを再現する能力が驚くほど高まることによって表出される現象であることを確認。
 ※われわれが「見ている」「感じている」のは事実そのものではなく、感覚器官が感受した後に、無意識が解釈しなおし新たに作り上げた「イメージ」をキャッチしていること。そしてそれを「客観的事実である」と思い込んでいること。
 ※迷信や宗教的な体験「奇跡」と呼ばれている事例について、科学的な見地から検証。


 ・・・などなど、具体的・体験的に学んでいくことができました。