さて、年表は「玉葉」などを中心にして作成しました。
すると、面白いことに「吾妻鏡」の日程と異なる部分が出てきました。
例えば近江源氏の一人、山下義経の行動については次のようになります。
吾妻鏡との比較では決戦の日がずれている他
「玉葉」によると近江で抵抗を続けているはずの山下義経が
「吾妻鏡」では同時期に鎌倉に行っています。
官軍である平家に抵抗を続けている山下義経が鎌倉に行っているというのは
日程的には可能であっても、状況的にあまりにも不自然です。
「玉葉」と「吾妻鏡」との記載の間には相違がありすぎます。
どちらを信用するべきでしょうか?
これはいうまでもなく「玉葉」を信用すべきだと思います。
「玉葉」はリアルタイムの情報ですし
都に程近い近江で起こり、畿内の反乱に関しては著者九条兼実も相当の関心を寄せていたはずだと思えるからです。
一方「吾妻鏡」は「後世の編纂物」ですし
鎌倉から近江までの距離もあります。
それに、「山下義経が鎌倉に来た」という記載が
既に頼朝の指揮下に山下義経が入っていたと思わせるような作為を感じさせます。
(小説もどきのネタバレになるのでここには書けませんが、後々の山下義経の行動をみるとこの時期に頼朝の指揮下に入っていたとは思えないのです。書けたら山下義経の後の行動は後日書かせて頂きます)
また、吾妻鏡には次のような記載の不自然さがあることも併記しておきます。
治承五年二月二十九日条
鎮西にありて兵革あり。(吾妻鏡)
↑玉葉によると鎮西の謀叛は前年九月から
閏二月十二日
河野通清伊予で挙兵(吾妻鏡)
↑既に前年には挙兵していることが「延慶本平家物語」には記されている。
私が作成する年表は「吾妻鏡」と「玉葉」の日程に錯誤が生じた場合は
「玉葉」の日程を優先して記載させていただきます。
参考資料
金澤正大「治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と「甲斐殿」源信義」
―『吾妻鏡』養和元年三月七日条の検討―
(『政治経済史学』165(1980.2),227(1985.6))
すると、面白いことに「吾妻鏡」の日程と異なる部分が出てきました。
例えば近江源氏の一人、山下義経の行動については次のようになります。
日付 | 吾妻鏡 | 玉葉 |
---|---|---|
11月21日 | 近江反乱軍挙兵 | |
12月1日 | 山下義経ら平知盛に打ち破られる | |
12月2日 | 追討使平知盛ら近江へ出撃 | |
12月3日 | 暁近江反乱軍逐電、美濃へ、美濃源氏近江へ出撃 | |
12月6日 | 近江反乱軍、追討軍に打ち破れらたの報。 | |
12月10日 | 山下義経鎌倉に下向し頼朝に面会 | |
12月12日 | 官兵三井寺と合戦、寺近辺を焼き払う | |
12月15日 | 近江 追討軍、甲賀入道、山下義経を打ち破る | |
12月16日 | 官軍山下義経を引き続き攻撃 |
吾妻鏡との比較では決戦の日がずれている他
「玉葉」によると近江で抵抗を続けているはずの山下義経が
「吾妻鏡」では同時期に鎌倉に行っています。
官軍である平家に抵抗を続けている山下義経が鎌倉に行っているというのは
日程的には可能であっても、状況的にあまりにも不自然です。
「玉葉」と「吾妻鏡」との記載の間には相違がありすぎます。
どちらを信用するべきでしょうか?
これはいうまでもなく「玉葉」を信用すべきだと思います。
「玉葉」はリアルタイムの情報ですし
都に程近い近江で起こり、畿内の反乱に関しては著者九条兼実も相当の関心を寄せていたはずだと思えるからです。
一方「吾妻鏡」は「後世の編纂物」ですし
鎌倉から近江までの距離もあります。
それに、「山下義経が鎌倉に来た」という記載が
既に頼朝の指揮下に山下義経が入っていたと思わせるような作為を感じさせます。
(小説もどきのネタバレになるのでここには書けませんが、後々の山下義経の行動をみるとこの時期に頼朝の指揮下に入っていたとは思えないのです。書けたら山下義経の後の行動は後日書かせて頂きます)
また、吾妻鏡には次のような記載の不自然さがあることも併記しておきます。
治承五年二月二十九日条
鎮西にありて兵革あり。(吾妻鏡)
↑玉葉によると鎮西の謀叛は前年九月から
閏二月十二日
河野通清伊予で挙兵(吾妻鏡)
↑既に前年には挙兵していることが「延慶本平家物語」には記されている。
私が作成する年表は「吾妻鏡」と「玉葉」の日程に錯誤が生じた場合は
「玉葉」の日程を優先して記載させていただきます。
参考資料
金澤正大「治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と「甲斐殿」源信義」
―『吾妻鏡』養和元年三月七日条の検討―
(『政治経済史学』165(1980.2),227(1985.6))