用(はたら)きに異常があると、細胞にことばが溜り病気(不適応)になるのだ。それでは、異常になるとは、解って終うと言うことであろう。生後私たちは、解ることを促され、解ることを評価される環境で生活し続けてきた。それゆえ解ると言うことの意義を、疑うことを知らないできた。解らないことは恥ずかしいと無意識的に想い、堂々と声にできてこなかった。そのことがどんなにか、人間としての成長の妨げになっていたことか。ときには、滅入って重苦しく、生きていることが慶べずに・・・。分からない自身のところを、恐る恐る声にしながら、声にすることの大切さを学べたのは、学校教育を終えた後だった。分からない自身のところを、聞いてくださる人間(ひと)に出会えたことこそ、有難かった。カウンセリング研修会の場だった。意図しても適うものではないだけに。分からない自身をありのまま聞いていただけると、そこにはオートファジーと言うできごとが、おのずから発生するのである。細胞つまり精神が活性化し、成長へのプロセスを歩んで行けると言いたい。吾体験で学べたところである。解りましたは、今の私にはない。
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