新潟カウンセリング研修センター

研修・講座のお知らせを掲載

”見返り草”

2014-10-28 09:28:03 | 私の声
 秋の穏やかな陽ざしに誘われるようにして、ぶらり園芸店の店先にでかけた。今頃はどんな草花が並べられているだろうかと。これからの暗い寒空の季節に、それらを吹っ飛ばしてくれるような鮮やかな草花の中から、目に止まった一輪の野草〝見返り草”。誰が名付けたか〝見返り草”。その名に魅かれて、吾手にとっていた。庭にやってきた草木のなかでは、最も新人であるが、私の懐にはどんと占められている感じになっている。これから姿を現すのだろう花に、関心がないわけではないが・・・
 これまで、現に今も、今どこにいるの・どうなっているの・今そこなんだね等と、声をかけていただき、育まれ合ってきた縁(えにし)に重なって想えてきているからだ。大悲に満ちたあたたかくも厳しさの眼差しに、〝見返り”と名づけられる私である。そして、見返りにならせていただけるプロセスこつこつと・・・・・・・。

人間(ひと)は生まれながらにして・・・

2014-10-23 08:27:17 | 私の声
 人間(ひと)は生まれながらにして、学ばずにはおれないようになっていたのだ。こう言えているのは、知識や観念ではない。事実としてである。最も信頼になるは、事実だと感得してしまった。事実に値遇(であ)わせていただけた、真の学びに恵まれてこそだ。もう一人の独りの人間(ひと)が絶対に必要だったし、これからも。ことばに聞く・聞こえる・聞かせていただく用(はたら)きに、育まれ合えてきた。その学びにならせていただいた場は、カウンセリング(仏法)研修と名付けられていた。ことばがことばの相(すがた)として、いよいよ・ますます顕かになってきてくれている私である。学びに教われたもの、分からなさ・・・・・・・たった今も、分からなさに彩られ、分からなさにお任せのまま、ことばの相にさせていただいている。私が考える限りなき果てしなしではない。私の考えの及べない世界に楽(ねが)われているようだ。学びの奥深さは・・・・・・・。

「そんなこと いわれても・・・」

2014-10-19 08:18:05 | 私の声
 ある場でのこと。Aさんの語りの後に、聞かせていただいた私の感想を私の感想として、と断って表明したのだったが、「そんなこと いわれても」とAさんに。このような類のことばを、関わりのときに聞くことがたびたびあったように思う。このたびはAさんの、そのことばに直面したのだった。なんとも歩みにくさがやってきた。「やりたいことできたの?」と、Bさんに届けてもらい、「Aさんに向けていった感じはなかった。欲をいえば、伝わればいいなあ」を、やっといえた。すると、「わからない! もっとわかるようにいってほしい」と、Cさんのことばが聞こえてきた。「わかるようになるかどうかわからないけれども」と、いえていけたのである。「『わからない』っていってもらえるって嬉しいものですねえ、伝えたいって気にならせてもらえました。」と。私として今を顕かにさせてもらうには、一人ではできなかった。少なくとも、Aさん・Bさん・Cさんが声にしてくださり、そしてその場に居てくださっていた方々のお陰様であった、と今想わせていただいている。
 ところで、「そんなこといわれても」であるが、大事(輝き)に今ならせてもらえてきた。くすぶっていたそのことばに、いよいよ聞かせていただいている。わかられてしまっていた悲劇に今・・・・・・・。

殺す という行動にならずにすむ・・・

2014-10-08 09:30:21 | 私の声
 「人生は、その最善の状態においては、流れゆき、変化していくプロセスである。そこは固定されたものは何一つない。」(ロジャーズ「自分を語る」)から。いかなる方向へも動いていける・いかなることば(思い)をいうことができる環境におかれたならば、仮に〝殺したい”という思い(ことば)があったとしても、いろいろなことばがやってきて、殺したいという思いは消えて、いや消えはしないであろうが、殺すという行動にはならずにすむ、と聞かせていただいている。思いを話せる場・いかなることばも聞いてもらえる人間(ひと)に恵まれないとしたら、殺したい・死にたいという思いが固定し、ますます殺したい・死にたい思いに関心が強化されていくのであると容易にうなずけている。  いかなることばにも聞かせていただける人間(ひと)に、私はなりたい。ことばにして聞けなさに、値遇(であ)わせていただける道一筋に、これまでも・これからも・・・・・・・