新潟カウンセリング研修センター

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不安

2014-12-23 11:10:37 | 私の声
 「不安と言ったら、不安を取り除く薬を出しましょうか。」と言われた。「私は断りました。私から不安を取り除いたら、私が私でなくなってしまうから、」と。ある方に聞かせていただき、印象深く遺っている。そして、「たとえ、薬で不安を不安と感じられないようになったとしても、私は何も変わらないですもの。やりたいと思うこともなくなったり、やりたいことをやれない人間になってしまったり、ただ生きているだけになってしまうのか、この先が不安」と。現にいま、不安にことばさせていただき、ことばに不安が顕かにならせていただけていけていることこそ、不安の用(はたら)きと言いたい。薬で鈍感にしなければならない場合も、ときにあろうけれど、邪魔扱いをして意図的に不安を感じられなくしたならば、今・まさにやれている健康的なあゆみの妨げになるということを、教われた会話だった。

「もののあはれ」

2014-12-16 10:01:37 | 私の声
 「とにもかくにも人は、もののあはれを知る、これ肝要なり・・・・・・・」は、小林秀雄著 本居宣長 に記されていたことばである。初めてこのことばに触れるまでは、なにかどこか「あはれ」を、「憐れむ」と勝手に聞いてしまっていた私だったようだ。「あはれ」と「あはれむ」は、ことばの相(すがた)が異なっている。「む」の主語は私である。「む」には、おのずから「私が」いるのである。このときを機に、「もののあはれ」は私にとって、見逃せないことばになり味わわせてもらえるようになった。30年ほど前になるだろうか。松阪のお墓を訪ねたら、遺言のように山桜が寄り添っていた。「もののあはれ」を「この私が発する声」と、今の私に言えそうだ。想えば、この私が発する声(もののあはれ)にこれまで聞かせていただき、あゆませていただきつづけられてきた。数えきれない方々のご縁に育まれ合って、今の私になっている。わが庭に、山桜を植えたのも、「もののあはれ」の所以からだった。

聞ける人になるために

2014-12-09 12:22:29 | 私の声
 ある場で「聞ける人になるために、私を語ることが大事」ということばが遺った。思えばここまで歩んでこられたのは、私の声にして聞いてくださる方にご縁をいただいたからだったと言える。そして、いつしかことばが少しずつ少しずつ聞こえてきて、私なりに聞けてきている。面白いことにというか、不思議なことにというか、聞ける人になるために声にして私を語った覚えはなかった。ところが、声にしていくにつれて、聞こえて聞かせていただけるようになってきているというこの事実。私が考えたことに反して興ったことを不思議というならば、不思議ということばでは言いあてられない。私の手の及ばない次元の、私の意図(有限)を超えた世界、不可思議(無限)と言いたい。「ことばを空気にふれさせて!」と、厳しくも優しくも聞こえた師のことばが想いだされてきている。

残念さのいただきもの

2014-12-04 10:54:21 | 私の声
 庭のイロハモミジの美しさを愛でる間もなく、風速30メートルにもなる寒風に、もぎとられるようにして、地面がたちまち葉で賑わっている。「あ~あ・もっと楽しみたかったのに・・・」と声になっていた。「落葉・落花の宿命にあるのだから・・・」と、私の声を聞いたもう独りの人間の声が聞こえてきた。自然の変化は厳然としてあると承知のうえで、私のことばは声になってやってきてくれている。私の声になったそのことばは、私にとってかけがえのないことばなのだ。このことばに生かされ、このことばに救われている今だ。私に言えたことばで、残念にもならせていただけている。

私とことば

2014-12-01 08:52:00 | 私の声
 私が言葉を意識するようになったのは、今から30年位前になる。カウンセリング研修会の場でI先生の発表を聞いてからといえる。数人の発表のなかで、I先生の「ことば」という「ことば」だけが私に遺されたのだった。その前後の文章やその他の方のことばは、全く遺ってはいなかった。そのことが後の私のためになるに十分だったとしか、他にいいようがないことになったのだから。早速そのI先生に手紙を書き、間もなく研修会の場で会うことができた。以来ことばということばに、私にとってのあゆみが創められ、育まれつづけられて今に至っている。ことばに聞かせていただく学び一筋にあゆみつづけ、言葉を軽んじ、言葉を手段に使い、傲慢に生きることに終始していた己のすがただったと、今にしていえる。ますます、そのような己に値遇(であ)わせていただけるようになってきている。人との関係がおのずと変わり、かけがえのなさが身に沁み、見るもの聞くものが常に新鮮になり、自身に風がとおるのが感じられる。いまさら言うまでもないと想いつつ、言わずにはおれないことば、「私のためにならないことばはない。」である。そこでは、もはや言葉とは表せない。「ことば」という文字の相(すがた)になるのである。今はこのあたりで・・・・・・・