新潟カウンセリング研修センター

研修・講座のお知らせを掲載

「声」のはたらき

2017-05-31 09:32:57 | 私の声
 「声」の用(はたら)きに、改めて感謝と共に畏敬の念をいただいている。この世に生を受けた瞬間から、声は具わっていたから、あまりにも当たり前になっていた。学校に勤務し、いわゆる不登校と名付けられていた生徒との関わりから、カウンセリングに出会い、学び続けて今日に至っている。学ぶほどに、その奥深さ・分からなさが私に音連れてきてくれている。人間とは何かを問い続けられているのは、「声」のお陰である。「声」にするたびに、間違えなくこの身のためになってくれるのである。カウンセリングに出会い、尊敬できる師に出会えて、その体験させていただき、生涯学ぶに値すると言えることができた。そうでなかったら、「声」にしているだけの虚しい人生を送ることだっただろう。容易に推測できる。周りの人々を見渡せば・・・。「声」に自身が育まれ・育まれ合えるカウンセリング研修会のご案内→7/14~17 詳細は☎025-230-5320(新潟カウンセリング研修センタへ)カウンセラー資格取得にも通じている。

漢字は生活が形になった!

2017-05-24 10:31:35 | 私の声
高速道路の両側は、今アカシアの乳白色の花がたわわだ。あぁ、この季節になったんだなぁ~。あま~い香りが車内にいて、感じられる。そして、移り行く景色のなかから朴の花に、桐の花、谷空木に眼が奪われていた。どの花にもこれまでのお世話になってきた、人との思い出が蘇ってくるのだった。到着した先は、「漢字三千年」展の開催されている県立近代美術館。生まれてこれまで、これからもお世話になり続けている漢字(ことば)だ。カウンセリングに出会って、ことばへの関心はただならぬ。よろこびも悲しみも苦しみも、ことばあってこそだ。ことばに生かされている私ゆえに。ことばの奥深さは底知れぬ。一生かかっても、その深さに触れられたかどうかのところ、何生あれば・・・今は時間が大事にならせていただいている。漢字の誕生・成り立ち・語源など、人間の日常の生活に密接になっていることを、改めて目と耳とで確認させてもらった。ことばにするたびに、会場での映像などが思い出されるであろう。いにしえの人達と通じ合えるような気がしている。                                 米 新潟カウンセリング研修会のお知らせ→7/14~17(3泊4日)参加希望者受付中。申し込み希望者 ☎025-230-5320(新潟カウンセリング研修センター)問題を抱えている・ストレスがある・職場や家庭の悩み・元気が出ない・どうしていいか分からない・カウンセラーの道を希望している・生きがいを感じたい などなど(動機・職業・年齢など一切問わない)

この身になる

2017-05-19 08:50:54 | 私の声
 「もし・・・ならば」とか「・・しておけば・・・になったはず」だとか、頭の中でいろいろ思いを巡らし、あたかも実際そうであるかのように思い込んでいく傾向がある。空回りになるだけ。虚しいではないか。疑えないから大変だ。人と人との関係は、生身の者同士である。その都度その都度変化し続けていくようになっているから、関わりが当然はなはだしく食い違う。その人のことばと己のことばを混ぜこぜにして、混ぜこぜのまま良い関係を望んでも、無理と言うもの。混ぜこぜにならないための手はあるのだが・・・。かけがえのない私とかけがえのないその人である。全く別である。どこまで粗末にし合えば、気が済むというのだろう。身(全身の細胞に届く)になる学び合いのお知らせ→7月14日~17日 希望によりカウンセラーの資格取得のための単位可能。参加受付中 025-230-5320(新潟カウンセリング研修センター)へ

ことばでは通じない

2017-05-15 08:28:37 | 私の声
 最近「ことばでは通じない」と言うことばを、よく耳にするようになった。北朝鮮の核実験が報じられるたびに、マスコミのマイクを向けられて答えている。政治を司っている人もだ。また「断じて許されるものではない」などと、その都度広く聴衆に向けて伝えられている。これまで、気になっている相手の所に出かけて行って双方で握手をし、顔を見て肉声でことばで思いや感じを交わしている場面を見てはいない。マスコミや映像で一方的に放ちあっているだけだ。通じ合うわけもなし、相手への非難や解釈・思惑を勝手に言い合っているだけで、平和になれるわけがない。ことばで分かち合いが平和がもたらされていけると言う学びを、全く知らない・体験の欠落者同士の政治では世界は破壊されていくほかはない。ことばに育まれ合う学びを、カウンセリングであると一人でも二人でも私は伝えていきたい。いのちのある限り・・・。

言えなかったことば

2017-05-13 08:35:19 | 私の声
 言いたかったけれど言えなかった、と言う体験をした。つい先日、ある場のある関係のなかで。そのことばが胸中にありつつも、言えていかず仕舞いになった。その体験にいただけた(学び)になったのは、その言いたかったことばを言ったら、その相手にどのように・・・、と慮(おもんばか)った私がいたのだと。大きな気づきである。一般的には、慮るのは望ましいように想われがちだが、いやいやそうではないと言うことを、この身は知ってしまっている。「相手を慮る」と言うところと「相手を慮っていた私になっていた」では、全くこの心身の居どころ(世界)が異なってくる。前者はことばの向きが相手に向いている。言えていかないで当然。そのことばにこの身が乗っかり切れるかどうか、なのだ。乗っかりきれたところ熟慮断行と言える。100%私のところとして言えるは「自在」の在りようだと。そう(自在)なりたがって歩み続けている私。