サッカー日誌 / 2016年08月24日


リオ五輪、テレビ観戦記(5)


水泳、金藤理絵の金メダル

競泳女子200平泳ぎ決勝
(8月11日、オリンピック・プール)

★山間部からのスイマー
 リオデジャネイロ・オリンピックの水泳競技で興味深かったのは、女子200メートル平泳ぎ、金藤理絵の金メダルだった。
 金藤は27歳。広島県庄原市の出身である。
 地図で見ると、広島県庄原市は、瀬戸内海側の広島と日本海側の島根の間、中国山脈の山の中のようである。
 海のない山間部から、水泳の金メダリストが生まれたのは、なぜだろうか?
 原因は、いくつもあるだろうが、その一つは、おそらく、山間部の学校にも、水泳プールがあったことだろう。
 太平洋戦争が終わったあと、全国の学校に水泳プールが建設された。
 資金も物資も不足していた時代に、学校プールの建設が進められた。
 なぜだろうか?
 当時の占領軍、あるいは文部省の政策だったのだろうか?

★民間クラブの役割
 金藤選手が育った広島県庄原市には、水泳の専門指導者がいなかった。
 それで、金藤選手は、隣の三次市のスイミングクラブに通ったという。
 この報道にも注目した。
 学校にプールがあっても、専門の競泳コーチがいなければ、選手は育たない。
 学校の体育の先生は、一般生徒に「泳ぎ方」を教えることは出来るだろうが、オリンピックの競泳選手を育てるのは、また別の仕事である。
 たまたま、その学校に、その種目の専門家がいればいいが、
そういう偶然はめったにない。
 金藤選手の場合、「選手」として育てる仕事は、学校外のクラブが引き受けた。
 それが「金メダル」を生んだ。

★東京1964の遺産
 水泳や体操で、町のクラブが多くなったのは、1964年の東京オリンピック以後である。
 それまでは、学校の部活が「選手」の供給源だったが、1964年の東京オリンピックを機会に、水泳や体操では、スポーツクラブが選手を育てるようになった。
 金藤選手がクラブで育ったのは「東京1964の遺産」が、52年後に実ったといっていいのではないだろうか?
 さらに…。
 金藤選手が通った三次市のクラブには夜間照明がなかったので、自動車のライトをつけて明るくして練習したという。
 居住地の庄原市から三次市のスイミングクラブへ通ったのは、もとより、ご両親が自動車で送迎したのだろう。
 自家用車の普及も「金メダル」の要因の一つだったのではないかと考えた。


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