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【小倉百人一首】15:光孝天皇

2014年06月08日 00時42分15秒 | 小倉百人一首
光孝天皇

君がため 春の野にいでて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ


58代天皇。父は承和の変の時の仁明天皇(54代)で、仁明->文徳->清和->陽成と直系が続いたが、陽成天皇が若くして譲位させられたため、天皇位がまわってきた。ちなみに当初は承和の変で廃嫡させられた貞恒親王に話がいったが出家していたため断られ、位がまわってきたというから人の運命はわからない。
即位したときは55歳だった。
しかし自分の次の皇位は陽成上皇の子に継がせようと思っていたため、自身の子は全員源氏として臣籍降下させた。が、結局後継者が定まらないまま危篤になったため、臣籍降下していた源定省を親王に戻して皇太子とした。ちなみに源定省は即位して宇多天皇と呼ばれる。
政務は引き続き関白の藤原基経に任せ、自身は歌道や鷹狩りなど伝統文化的な面に力を注いだ。

さて、この光孝天皇までのほとんどの歴代天皇の諡号は漢風諡号とよばれる命名規則にのっとっている。これは生前の業績から、ふさわしい字を諡号とするもので、その名称のとおり中国から伝わった習慣。
だが、次代の宇多天皇以降はごく一部を除き、生前に縁のあった地名(隠居場所など)が諡号になっており、その流れはなんと江戸時代後期に光格天皇が漢風諡号を復活させるまで続く。
ちなみにこの光格天皇は、天皇位についた後、実父・典仁親王に上皇の称号を送ろうと幕府に諮ったが、時の老中・松平定信は前例がないことを理由に拒否したため、しこりが残り幕末に興隆する尊皇攘夷思想へ発展する。この事件は尊号一件と呼ばれ、幕府から処罰を受けた高山彦九郎は幕末の志士たちから勤王志士の先駆けとして尊崇され、今も京都に銅像が建っている。

また、天皇という諡号自体も冷泉天皇以後はなくなり、かわりに院号が使われる(安徳天皇と後醍醐天皇は例外)。これも光格天皇が復活させるまで続いている。
百人一首の歌人を見ても、歴代天皇のうち、光孝天皇以降の時代の天皇は三条院崇徳院後鳥羽院、順徳院となっている。
ただし明治期になって歴代天皇の諡号はすべて院ではなく天皇で統一されたため、当時院号を送られたの天皇を天皇号で呼ぶのは誤りではない。

ちなみに○○ミコトという呼び方をする和風諡号というものもあり、これは持統天皇の時に始まったといわれ、仁明天皇で最後になる。
(仁明天皇の場合、和風諡号は日本根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)という)
ここで整理するために系図を載せておく。



          ┏在原行平

桓武┳平城━阿保親王┻在原業平
  
  ┣嵯峨┳仁明━━┳文徳━清和━陽成

  ┃  ┗源融  ┗光孝━宇多━醍醐  

  ┗淳和━恒貞親王


  即位の順番は桓武->平城->嵯峨->淳和->仁明->文徳->清和->陽成->光孝->宇多->醍醐



もうひとつ脱線した話をすると、歴代天皇の諡号の中に「後○○天皇」というものが結構ある。これは過去の天皇の諡号に”後”をつけた諡号になるが(加後号という)、漢風諡号には後をつけないという不文律がある。なので光孝以前の諡号に後をつけた諡号はない(後天智とか後光孝という諡号はありえない)。そのため、室町時代中期の後花園天皇という非常に気骨のあった天皇は、当初諡号が後文徳に決まりかけたが上記の理由により却下された。

諡号はひとつではないパターンもあり、例えば江戸時代初期の後水尾天皇の由来は清和天皇が水尾帝と呼ばれたことに由来している。



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