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【小倉百人一首】55:大納言公任

2014年07月12日 03時45分42秒 | 小倉百人一首
大納言公任

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ

本名は藤原公任。父は関白・藤原頼忠。母は醍醐天皇の孫で妻は村上天皇の孫という血筋でもある。
頼忠は関白であったものの、時の天皇である円融とは外戚関係になかったために歴代の関白と比べると権力はそれほど強くなく、源雅信、藤原兼家にも押され気味であった。後に花山天皇が兼家のはかりごとで出家してしまい、兼家の孫にあたる一条が即位すると関白を辞職せざるを得なくなった。


     ┏斉敏━実資
  ┏実頼┻頼忠━公任━定頼
忠平╋師輔┳伊尹義孝
  ┗師尹┣兼通   ┏伊周
     ┣兼家┳道隆┻隆家
     ┗為光┗道長━頼通


ただ、公任は時の権力者である藤原道長の意を迎えるスタンスを貫いたため順調に出世して権大納言に登っている。また、和歌、漢詩、管弦、有識故実にも優れ、当時の一流文化人として評価は高かった。
また、『三十六人撰』で三十六歌仙の選定を行ったことでも有名で、この一事を持っても彼の歌壇における影響力の高さがうかがえる。
中古三十六歌仙の一人・藤原長能(右大将道綱母の弟)は、自分の歌を公任に批判されたことを気に病んだ死んでしまい、同じく中古三十六歌仙の一人・藤原高遠(公任のいとこ)は公任が病で重態と聞くと、彼のところに行って「自分の歌と紀貫之の歌はどっちが上か」と聞いたというエピソードもある。
ちなみに『三十六人撰』を書いたきっかけは、柿本人麻呂と紀貫之のどちらが歌人として優れているかという論争を具平親王(村上天皇の皇子)とし、それに論破されてしまった(具平親王の推す人麻呂の方が優れているという結論になった)ことといわれている。

有識故実といえば、彼の曽祖父・忠平は数多くの宮廷儀礼の作法を書き残し、それを実頼、師尹の二人の息子に伝えた。そして実頼の家が伝える作法を小野宮流、師尹の家の作法を九条流としてそれぞれ有識故実の大家として流れていき、公任自身も『北山抄』という儀式について書いた著作が残している。
ちなみに当時の貴族は日記を書くのが流行したが、これは現在の日記のように日々のプライベートな出来事を書くことが目的ではなく、宮廷の儀式についての覚書というのが本質で、それを自分の子孫に伝える目的も兼ねていたため最初から公の目にふれることが前提となって書かれている。

1019年、在任中に刀伊の入寇という事件が起きている。
これは女真族を中心とした海賊が対馬や北九州沿岸に寇略に現れた事件で、当時大宰権帥として大宰府に赴任していた藤原隆家を中心とした九州武士団が撃退して事なきを得た。朝廷へも隆家から報せが飛び、撃退すれば恩賞を出すという勅符が発せられた。が、実際にその勅符がでた時点で退治していたため恩賞はなし、という信じられない決断が下された。この決断に深く関わったのが公任である。公任一人が非常識というわけではなく、この時代の貴族たちの政治感覚とはこういうものだろうといえなくはないが、藤原実資(高遠の兄)や、道長などは恩賞をだすよう主張していたため、やはりこの事件は公任の汚名といえる。

ちなみに隆家は摂関家の貴族でありながら気骨のある人物として知られており、この事件でさらに武名をあげることになる。隆家の子孫には前回書いたとおり池禅尼がいるが、そのほかにも奥州藤原氏の藤原秀衡の舅である基成や、基成の弟で、源義朝を抱き込んで平治の乱を起こした挙句敗れて斬首された信頼、源義経の母・常盤御前の再婚相手である一条長成がいる。


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