小江戸川越観光協会の英文のHPに掲載させていただいているLong-long-ago in Kawagoeの29号がアップとなりました。(ピンクの部分をクリックください。)
今回は、繭から生糸を製造する製糸業を行った石川組製糸所について書きました。幕末から開国となり、生糸は、茶とともに主たる輸出品となりましたが、大幅な輸入超過となりました。
そんな中、石川幾太郎という人物が現れ、明治27年(1894)埼玉の豊岡に第一号の製糸工場を開き、明治35年(1902)に同じ場所に第二工場が、そして、明治41(1908)に、川越町北久保町に、第三工場が建設されました。
(斉田美昭氏所蔵、川越市立博物館提供)
幾太郎は、敬虔なクリスチャンであり、女工をとても大切にし、給料も破格でした。「共に働き共に楽しむ」が、石川製糸のモットーでした。楽しみながら仕事に励んだ女工が製造した生糸は、品質、出荷量ともに、常に県下第一位であったといいます。
レーヨンやナイロンの登場と共に、川越工場も閉鎖への道を辿りますが、私の家の裏庭には、石川工場の煙突を支えていたワイヤーを引っかけていたコンクリートの杭がひとつ、まだ、残っています。
ユラーナ
今回は、繭から生糸を製造する製糸業を行った石川組製糸所について書きました。幕末から開国となり、生糸は、茶とともに主たる輸出品となりましたが、大幅な輸入超過となりました。
そんな中、石川幾太郎という人物が現れ、明治27年(1894)埼玉の豊岡に第一号の製糸工場を開き、明治35年(1902)に同じ場所に第二工場が、そして、明治41(1908)に、川越町北久保町に、第三工場が建設されました。
(斉田美昭氏所蔵、川越市立博物館提供)
幾太郎は、敬虔なクリスチャンであり、女工をとても大切にし、給料も破格でした。「共に働き共に楽しむ」が、石川製糸のモットーでした。楽しみながら仕事に励んだ女工が製造した生糸は、品質、出荷量ともに、常に県下第一位であったといいます。
レーヨンやナイロンの登場と共に、川越工場も閉鎖への道を辿りますが、私の家の裏庭には、石川工場の煙突を支えていたワイヤーを引っかけていたコンクリートの杭がひとつ、まだ、残っています。
ユラーナ