殉死の世代、散華の世代となるか、団塊世代 (2)
(月刊「地方財務」(ぎょうせい)7月号・【シリーズ】もう一つの団塊世代論①より転載)
(前号ブログ続き)
殉死の世代、散華の世代になるのか
私は久しく「団塊の世代は殉死の世代、散華の世代になるのではないか」と口にしてきた。すなわち大量の老人の社会になった時、自発的に命を絶つことが期待されるようになる。それが家族や社会の負担を軽減するための、あるべき姿だと言われ始めるのではないか。お婆さんが死ねば、お爺さんも後追いして逝ってもらう。そのことによって一挙に社会的コストを2倍減にできるばかりか、長いこと連れ添ったお婆さんへの美しい夫婦愛の証しだと言われ出すのではないか。そんな価値観が醸成される危険性を、自嘲的に指摘したものである。そして今、その懸念を笑い飛ばすにはいささかリアリティが出始めているように感ぜられるのだ。
思い出してもみよう。私たち日本人は、ちょっとした社会ムードやマスコミの煽り立てで一挙に見境なく走り出す国民性をもつ。そのことを過去に幾度も思い知らされてきた。戦後の平等主義を極端に礼賛する余り運動会での徒競走の順位づけさえ否定する学校を生んだ。沖縄戦での悲劇の特攻作戦を過剰に賞賛したのもホンの半世紀前のことである。高齢化社会でのコストの逼迫の下で、「自死」や「夫婦殉死」を美風とする風潮が、いつ台頭しても不思議ではないのである。
現役を退き老化も始まり、かつての数を恃んでの強者から明らかに弱者に移行した団塊。社会環境はすっかり様変わりした。本シリーズでは、こうした団塊世代の動態を当事者の一人として見据えつつ、これまで思い入れやデフォルメされた団塊論とは異なる、もう一つの視線を提示してみようと思う。