出来事的衝撃と物語的衝撃の兼ね合いで、映画は成り立っている。
最も分かりやすい例が『悪魔のいけにえ』であり、あの映画は出来事的衝撃を極限にまで高めたという意味で紛れもなく最強だ。
スピルバーグは前作『宇宙戦争』で、まさに『悪魔のいけにえ』のごとき出来事的衝撃の究極を目指し、ある程度それを達成した。
出来事を体験している最中にはまったく感じられないストーリーが、後で振り返れば確かにできている。
出来事がのっしのっしと荒野を踏みつけていった後に道はできる。
『宇宙戦争』は、そんな禍々しい出来事映画の傑作だった。
もうひとつの映画の衝撃=物語的衝撃。
私見だが、近年のスピルバーグはこれをほとんど放棄している。
ないとは言わないが、最初からやる気がない。
『マイノリティ・リポート』ではそこそこやっている。
『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』や『ターミナル』もその方向ではあるが、ちっとも衝撃的ではない。
別に衝撃的でなくてもいいが、ただスピルバーグという人は衝撃を描いたときこそ最もその力を発揮する作家ではなかったか。
それがこの人の個性だとするなら、わざわざ封印することもないのに、と思う。
しかし、スピルバーグは別に逃げの姿勢で『キャッチ~』や『ターミナル』を撮っていたわけではない、多分。
新たなる衝撃のためには、充電が必要だったのだ。
(ちなみに『A.I.』は、衝撃を限りなくゼロに近づけようとした、逆説的な衝撃映画だった。)
前作で出来事的衝撃をたっぷりやったスピルバーグは、残された物語的衝撃に『ミュンヘン』で挑む。
『ミュンヘン』でスピルバーグが行ったこと、それはある単純化の作業だ。
しかもかなりエグイ。
なんとスピルバーグは、人間の単純化を企む。
短絡的決め付けではない。
相当に深い思索を経ての、ものすごく高度な単純化だ。
シンプル・イズ・ベスト指向である。
で、どう単純化したかというと、「人間とは、食欲と性欲と睡眠欲の生き物である」という単純化。
いや、そりゃそうだ。
そうなんだけど、おれが知る限り、そんなこと映画でやった人はいない。
どんだけ無謀なんだ、このオッサンは。
しかも、見事にやってのけやがった。
『ミュンヘン』でフィーチャーされるもの、それは、食事とセックスである。
長いことスピに付き合ってきた人なら分かるだろう。
スピルバーグの映画でセックスが描かれるというのは歴史的事件だ。
ていうか、性の対象として女を表現したことなんてあったっけ?
スピ映画では、だいたい女は母親や娘でしかなく、女が女として描かれたことは多分一度もない。
しかしついに、ヤツは『ミュンヘン』でそれをやった、それも露骨に。
最初に描かれるセックスで、スピルバーグはエリック・バナがイッちゃうまで女の顔しか映さない。
鬼ですかアンタは、とそう思った。
しかも、正直エロかった。
スピルバーグの映画で「エロい」と感じるなんてことがあろうとは・・・世の中何が起こるか分からない、まったく分からない。
で、エリック・バナは料理が上手い。
ホント、見てて腹が鳴るほど美味そうだった。
『スターウォーズ』のわざと不味そうにしてるとしか思えない萎え宇宙食とはワケが違う。
さらに、スピルバーグはここでも鬼の演出を怠らない。
美味そうな料理の絵だけではまだ足りない、というこのオッサンは、フォークやスプーンのカチャカチャという音を実に効果的に挿入する。
もうおれは食いたくて食いたくてしょうがなかった。
相変わらず残虐大王ぶりを発揮する虐殺シーンさえなければ、の話だが。
虐殺マニア・スピルバーグのテクニックは、この映画でも圧倒的に冴えている。
ほっぺを貫通する銃弾、立ったままゆっくりと死を迎える人間、天井から垂れ下がる爆死した人間の腕、胸に開いた穴からゴボゴボと流れ出る血、もう枚挙にいとわない。
『シンドラー』以降に自らが発明した虐殺描写のすべてを容赦なくつぎ込む。
「死ぬことは怖くない」、なんていう優しさは一切ない。
「死ぬことはこんなに怖い」、死それ自体の悪を表現するときのスピルバーグには、誰も勝てない。
ただし、ここには『宇宙戦争』のような「全体のバランスを崩すほどの突出した出来事的衝撃」はない。
ない、というのは語弊があるかもしれないが、少なくとも『ミュンヘン』は出来事映画ではない。
ここまでおれが書いてきたことはすべて、物語的衝撃として『ミュンヘン』のパーツとなる。
これほどバランスのとれたドラマツルギーをスピルバーグが構築したことなど、いつ以来だろう。
もう思い出すこともできないが、ともあれ『ミュンヘン』は物語的衝撃を尋常でないレベルで達成した映画だ。
先に書いたように、『ミュンヘン』のドラマツルギーは「人間の単純化」へと向かう。
食事とセックスの大フィーチャーが示すもの、それは睡眠の欠落しかない。
『ミュンヘン』は、不眠の物語である。
「お前たちが最も恐れているのは、停まることだ」という直接的なセリフもある。
終盤のやつれたエリック・バナは、まるで『マシニスト』のクリスチャン・ベールみたいだ。
剥き出しのドクロのごときその顔。
なぜなら、彼は寝ていない。寝ることができない。寝る場所がない。
彼は、家に帰ることができない。
彼が望んでいたのは、家に帰って愛する女の隣でぐっすり眠る、ただそれだけだ。
しかし、この映画のシチュエーションは「眠る=停まることの許されない状況」なのである。
世界中に存在する「家=祖国なき人の物語」なのである。
スピルバーグは「眠れ。停まれ。」と、ただそれだけをピンポイントで主張する。
「立ち止まって解決の方法を探すことができるならどんなにいいだろう」、『ミュンヘン』が示すのは、そういうビジョンだ。
でもできない。
今の社会システムは、そうなっていないからだ。
動き続けることを最大の美徳とする社会だからだ。
そして、『ミュンヘン』はクライマックスを迎える。
銃撃戦でも、大怪獣総進撃でもない。
『ミュンヘン』のクライマックスは2度目のセックス・シーンである。
眠りたい男と、それを待っていた女のセックスを、スピルバーグはありのままに視覚化してしまう。
もううまく言葉で表現できないが、おれはかつて、これほど泣けるセックス・シーンを映画で観たことがない。
泣けて泣けてしょうがなかった。
女はポツリと、「愛してるわ」とつぶやく。
意図は分からないが、とにかくそう言う。
そう言うしかないから、そう言う。
なんという壮絶なクライマックスだろうか。
映画史上の偉大な達成である。
おれは、心の底から感動した。
ボロボロ泣いた。
頭が真っ白になった。
この後、「今のまま続けても結局どうにもならない」というエピローグをもって『ミュンヘン』は幕を閉じる。
衝撃の物語として。
人間を単純化する物語として。
だから、今のまま続けたい人にとってはものすごく鬱な話だ。
でも実際、「今のまま」はもう長続きしない、というかできない。
スピルバーグはそれを人間の単純化によって、究極の人間ドラマとして破綻なく描き切った。
またいつものように、いたるところで中二レベルのスピ批判が巻き起こっているのだろうが、どうでもいい。勝手にしてくれ。
『ジョーズ』や『E.T.』が懐かしいだの、『シンドラー』や『ライアン』は良かっただの、目と脳ミソが腐ってるとしか思えない。
スカウターに頼ってばかりいるからそうなる@べジータ。
『ミュンヘン』の戦闘力を測ろうとしたなら、スカウターが爆発する。
これは、そういう映画だ。気を感じ取り、圧倒されるしかない映画だ。
おれにとって、『ミュンヘン』はウェス・アンダーソン『天才マックスの世界』以来となる映画史上の大傑作である。
5年に1本というレベルのとんでもない映画である。
すべてを語りつくすことは今はまだできない。
しかし、もうスピルバーグが好きとかそういう次元をぴょーんと飛び越えてしまった、抗うことのできない出来事なのだ、これは。
ここから始めるしか、ない。
業務報告
●最近手抜き著しいジョン・ウィリアムズの音楽もなかなか良かった。何箇所かグッときた。
●普段あまりスピを誉めない中原昌也まで絶賛か(「SPA!」参照)・・・まあそりゃ、こんなもの見せられたらそうだよな。
●映画ファンは「ゴダール派」か「スピルバーグ派」に分けてもいい気がしてきた。おれはもちろんスピ派だけど。
●そして、読者の反応に戦々恐々として「スピルバーグにしてはいい」とか無難なことしか言えない各誌レビュアーのみなさん?
もう帰っていいよ、ホント。へタレのエセ評論家どもめ。
●本年度ワースト1が決まった次の週で本年度ベスト1が決定してしまった。
残り11ヶ月は熾烈な2位争いが繰り広げられるわけです。
おれ映画レースもプレーオフ導入しなきゃダメかも。
●おれが知る限り最も優れた『ミュンヘン』レビュー->伊藤さん「さすらいびととして死ぬこと」
ちなみに『宇宙戦争』のレビューも素晴らしかったです。参照->「ははは、人がゴミのようだ!」
最強のスピ映画レビュアー。
●いろんな人と語り合いたくなる映画です。それがいい映画ってもんでしょ?
●当ブログ内の関連記事->「White February, Black September」
最も分かりやすい例が『悪魔のいけにえ』であり、あの映画は出来事的衝撃を極限にまで高めたという意味で紛れもなく最強だ。
スピルバーグは前作『宇宙戦争』で、まさに『悪魔のいけにえ』のごとき出来事的衝撃の究極を目指し、ある程度それを達成した。
出来事を体験している最中にはまったく感じられないストーリーが、後で振り返れば確かにできている。
出来事がのっしのっしと荒野を踏みつけていった後に道はできる。
『宇宙戦争』は、そんな禍々しい出来事映画の傑作だった。
もうひとつの映画の衝撃=物語的衝撃。
私見だが、近年のスピルバーグはこれをほとんど放棄している。
ないとは言わないが、最初からやる気がない。
『マイノリティ・リポート』ではそこそこやっている。
『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』や『ターミナル』もその方向ではあるが、ちっとも衝撃的ではない。
別に衝撃的でなくてもいいが、ただスピルバーグという人は衝撃を描いたときこそ最もその力を発揮する作家ではなかったか。
それがこの人の個性だとするなら、わざわざ封印することもないのに、と思う。
しかし、スピルバーグは別に逃げの姿勢で『キャッチ~』や『ターミナル』を撮っていたわけではない、多分。
新たなる衝撃のためには、充電が必要だったのだ。
(ちなみに『A.I.』は、衝撃を限りなくゼロに近づけようとした、逆説的な衝撃映画だった。)
前作で出来事的衝撃をたっぷりやったスピルバーグは、残された物語的衝撃に『ミュンヘン』で挑む。
『ミュンヘン』でスピルバーグが行ったこと、それはある単純化の作業だ。
しかもかなりエグイ。
なんとスピルバーグは、人間の単純化を企む。
短絡的決め付けではない。
相当に深い思索を経ての、ものすごく高度な単純化だ。
シンプル・イズ・ベスト指向である。
で、どう単純化したかというと、「人間とは、食欲と性欲と睡眠欲の生き物である」という単純化。
いや、そりゃそうだ。
そうなんだけど、おれが知る限り、そんなこと映画でやった人はいない。
どんだけ無謀なんだ、このオッサンは。
しかも、見事にやってのけやがった。
『ミュンヘン』でフィーチャーされるもの、それは、食事とセックスである。
長いことスピに付き合ってきた人なら分かるだろう。
スピルバーグの映画でセックスが描かれるというのは歴史的事件だ。
ていうか、性の対象として女を表現したことなんてあったっけ?
スピ映画では、だいたい女は母親や娘でしかなく、女が女として描かれたことは多分一度もない。
しかしついに、ヤツは『ミュンヘン』でそれをやった、それも露骨に。
最初に描かれるセックスで、スピルバーグはエリック・バナがイッちゃうまで女の顔しか映さない。
鬼ですかアンタは、とそう思った。
しかも、正直エロかった。
スピルバーグの映画で「エロい」と感じるなんてことがあろうとは・・・世の中何が起こるか分からない、まったく分からない。
で、エリック・バナは料理が上手い。
ホント、見てて腹が鳴るほど美味そうだった。
『スターウォーズ』のわざと不味そうにしてるとしか思えない萎え宇宙食とはワケが違う。
さらに、スピルバーグはここでも鬼の演出を怠らない。
美味そうな料理の絵だけではまだ足りない、というこのオッサンは、フォークやスプーンのカチャカチャという音を実に効果的に挿入する。
もうおれは食いたくて食いたくてしょうがなかった。
相変わらず残虐大王ぶりを発揮する虐殺シーンさえなければ、の話だが。
虐殺マニア・スピルバーグのテクニックは、この映画でも圧倒的に冴えている。
ほっぺを貫通する銃弾、立ったままゆっくりと死を迎える人間、天井から垂れ下がる爆死した人間の腕、胸に開いた穴からゴボゴボと流れ出る血、もう枚挙にいとわない。
『シンドラー』以降に自らが発明した虐殺描写のすべてを容赦なくつぎ込む。
「死ぬことは怖くない」、なんていう優しさは一切ない。
「死ぬことはこんなに怖い」、死それ自体の悪を表現するときのスピルバーグには、誰も勝てない。
ただし、ここには『宇宙戦争』のような「全体のバランスを崩すほどの突出した出来事的衝撃」はない。
ない、というのは語弊があるかもしれないが、少なくとも『ミュンヘン』は出来事映画ではない。
ここまでおれが書いてきたことはすべて、物語的衝撃として『ミュンヘン』のパーツとなる。
これほどバランスのとれたドラマツルギーをスピルバーグが構築したことなど、いつ以来だろう。
もう思い出すこともできないが、ともあれ『ミュンヘン』は物語的衝撃を尋常でないレベルで達成した映画だ。
先に書いたように、『ミュンヘン』のドラマツルギーは「人間の単純化」へと向かう。
食事とセックスの大フィーチャーが示すもの、それは睡眠の欠落しかない。
『ミュンヘン』は、不眠の物語である。
「お前たちが最も恐れているのは、停まることだ」という直接的なセリフもある。
終盤のやつれたエリック・バナは、まるで『マシニスト』のクリスチャン・ベールみたいだ。
剥き出しのドクロのごときその顔。
なぜなら、彼は寝ていない。寝ることができない。寝る場所がない。
彼は、家に帰ることができない。
彼が望んでいたのは、家に帰って愛する女の隣でぐっすり眠る、ただそれだけだ。
しかし、この映画のシチュエーションは「眠る=停まることの許されない状況」なのである。
世界中に存在する「家=祖国なき人の物語」なのである。
スピルバーグは「眠れ。停まれ。」と、ただそれだけをピンポイントで主張する。
「立ち止まって解決の方法を探すことができるならどんなにいいだろう」、『ミュンヘン』が示すのは、そういうビジョンだ。
でもできない。
今の社会システムは、そうなっていないからだ。
動き続けることを最大の美徳とする社会だからだ。
そして、『ミュンヘン』はクライマックスを迎える。
銃撃戦でも、大怪獣総進撃でもない。
『ミュンヘン』のクライマックスは2度目のセックス・シーンである。
眠りたい男と、それを待っていた女のセックスを、スピルバーグはありのままに視覚化してしまう。
もううまく言葉で表現できないが、おれはかつて、これほど泣けるセックス・シーンを映画で観たことがない。
泣けて泣けてしょうがなかった。
女はポツリと、「愛してるわ」とつぶやく。
意図は分からないが、とにかくそう言う。
そう言うしかないから、そう言う。
なんという壮絶なクライマックスだろうか。
映画史上の偉大な達成である。
おれは、心の底から感動した。
ボロボロ泣いた。
頭が真っ白になった。
この後、「今のまま続けても結局どうにもならない」というエピローグをもって『ミュンヘン』は幕を閉じる。
衝撃の物語として。
人間を単純化する物語として。
だから、今のまま続けたい人にとってはものすごく鬱な話だ。
でも実際、「今のまま」はもう長続きしない、というかできない。
スピルバーグはそれを人間の単純化によって、究極の人間ドラマとして破綻なく描き切った。
またいつものように、いたるところで中二レベルのスピ批判が巻き起こっているのだろうが、どうでもいい。勝手にしてくれ。
『ジョーズ』や『E.T.』が懐かしいだの、『シンドラー』や『ライアン』は良かっただの、目と脳ミソが腐ってるとしか思えない。
スカウターに頼ってばかりいるからそうなる@べジータ。
『ミュンヘン』の戦闘力を測ろうとしたなら、スカウターが爆発する。
これは、そういう映画だ。気を感じ取り、圧倒されるしかない映画だ。
おれにとって、『ミュンヘン』はウェス・アンダーソン『天才マックスの世界』以来となる映画史上の大傑作である。
5年に1本というレベルのとんでもない映画である。
すべてを語りつくすことは今はまだできない。
しかし、もうスピルバーグが好きとかそういう次元をぴょーんと飛び越えてしまった、抗うことのできない出来事なのだ、これは。
ここから始めるしか、ない。
業務報告
●最近手抜き著しいジョン・ウィリアムズの音楽もなかなか良かった。何箇所かグッときた。
●普段あまりスピを誉めない中原昌也まで絶賛か(「SPA!」参照)・・・まあそりゃ、こんなもの見せられたらそうだよな。
●映画ファンは「ゴダール派」か「スピルバーグ派」に分けてもいい気がしてきた。おれはもちろんスピ派だけど。
●そして、読者の反応に戦々恐々として「スピルバーグにしてはいい」とか無難なことしか言えない各誌レビュアーのみなさん?
もう帰っていいよ、ホント。へタレのエセ評論家どもめ。
●本年度ワースト1が決まった次の週で本年度ベスト1が決定してしまった。
残り11ヶ月は熾烈な2位争いが繰り広げられるわけです。
おれ映画レースもプレーオフ導入しなきゃダメかも。
●おれが知る限り最も優れた『ミュンヘン』レビュー->伊藤さん「さすらいびととして死ぬこと」
ちなみに『宇宙戦争』のレビューも素晴らしかったです。参照->「ははは、人がゴミのようだ!」
最強のスピ映画レビュアー。
●いろんな人と語り合いたくなる映画です。それがいい映画ってもんでしょ?
●当ブログ内の関連記事->「White February, Black September」
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ワーストとベスト。
その両方に4点つけてる俺って・・・中3レベルくらいかなのかな(汗)
中学生でもわかるレベルで感想を書くことを心がけているのですが、中学生読者が増えないで悩んでいます。
「意見が同じじゃないと仲良くできない」というのは最悪ですから。
読み応えありました~!
スピルバーグほどになると語りたくてたまらない人が多いようで、本当にいろんな意見を目にしました。
どの意見を読んでも納得している私は優柔不断??
確かに。アブナーの作る料理はうまそうでした。
2度目のセックスシーンは凶暴でした。
アブナーの顔に見えなかった。
それを受け止める妻もすごかったですけどね。
参考にしてもらったり、ただ読んで楽しんでもらう分にはありがたいんですが、断っておくと去年のベストが『キングダム・オブ・ヘブン』でワーストが『バットマンビギンズ』という非常に奇特な人間なのでヨロシク。
あとスピ信者だし。
それで・・・TBを。
それから、素晴らしいレビューをよまさせていただきました。本当に勉強になりましたデス。
これからもよろしくお願いします。
こちらからもTBさせていただきました。
なんか褒められてしまいました。
素直に喜んでおきます。
jesterさんが書いておられる
>スピルバーグが意図しているのは、「無関心な大衆」に少しでも考えて欲しい、ということなのかしら。
というのは正しいと思いますよ。
ただし、それは全映画作家が全作品でそう思っているはずです。
「映画を考える」というのは、映画を観ている最中ではなく、観終わってから始まるものだと思います。
どんな映画でも観ている最中は何も考えず、思い込みを捨てて接し、観終わったらちょろちょろと考えてみる。
それが映画体験というものじゃないでしょうか。
マジレスしてしまいました。