つれづれ日記

心と目の記録

海ゆかば

2013-09-27 14:37:46 | Weblog

海ゆかばの歌を歌ったのは何十年ぶりだったでしょうか。
グランドピアノの音は重く胸に沁み込みます。
戦争中、勤労動員で中学、女学生はお国のために勉強はしないで働きました。
女学校3年の時に昭和飛行機工場に動員され
空襲警報が鳴ると防空壕に入りました。
爆撃機の音が近づくと、工場が襲撃されたら私たちの命は終わりと思い
覚悟をして皆で「海ゆかば」を歌いました。
その時の防空壕の中での光景がはっきりと目に浮かびます。

   上は終戦後発行された雑誌

    海ゆかばの歌詞 一番
     
     海行かば 水漬屍 山行かば 草生す屍
         大君の 辺にこそ死なれ かえりみはせじ

  歌詞は万葉集から採られたもので、下が歌詞の意味です。

     海で戦って死ねば、死体は海水につかって浮かぶだろう
         山で戦って死ねば、打ち捨てられた死体は草に覆われるだろう
         天皇のおそばで死ぬのだから、決して後悔はしないぞ
  
   この歌を意味も考えず何十回と歌っていた女学生でした。
  出征兵士を送る歌として歌われましたが、
  国民の戦闘意欲を高揚させるために作られた信時潔氏の曲で
   大本営の発表を流す際に使われ、
  戦果を誇るときには「軍艦行進曲」 玉砕を伝えるときには「海ゆかば」が用いられ
  私たちの耳に今でも深く残っているのです。


音楽と記憶

2013-09-24 18:55:11 | Weblog

先日つくばの二女の家に1泊してきました。
娘が夕食の準備をしている間にピアノを弾いてみたいと思って
グランドピアノの前に座りましたが
頭がおかしくなったかと思うほど好きな歌が浮かんできません。
自然と指が鍵盤で動き出したのは、真白き富士の根、でした。「七里ヶ浜の哀歌」です。

長い間、鍵盤に触っていないのと、年をとって指が動きません。
それでもピアノの音が心地よくて、自己流ですが
左手は右の音に合わせた和音で弾いて、1時間経ったら何とか弾けたのです。
何で私の頭にこの歌が浮かんだのか全く分かりません。
次に浮かんだのが、「海ゆかば」右手で弾いて歌って聞かせました。
娘は知らないと云う古いマイナーな歌ばかりで、
娘に「昔ママはもっと綺麗な歌ばかりい歌っていたのに」と云われ、我ながら驚きました。
防音装置の整った音楽室だからこそ、下手でも大きな音で荘厳に弾くことが出来ます。
私の頭のねじが巻きもどされて、昔の記憶がよみがえり当時のことを娘に語りました。

私の描いたピレニーズが後ろでそっと聴いていたかも。


富士山が台風の後に

2013-09-17 11:22:51 | Weblog

台風18号がようやく去った夕方,眼の前の風景が赤く染まり
ベランダに出てみると、西の方にくっきりと富士山が見えたのです。
11月から2月の寒い季節でないと見られない富士山の姿に感動
子供のころから富士山を見るのが大好きな私です。
台風のお陰で空気が澄んでお目にかかれたのでしょう。
絵具で描いたような美しい空の色に見とれました。


あっという間に夕陽に変わりました。

 


ピレネーのカード

2013-09-09 14:02:08 | Weblog

ピレニーズの故郷ピレネー山脈
お土産用のピレニーズのカードがいろいろ売られていて
30年前には古い物で貴重な資料になる物がありました。
外国のピレ友から頂いたりお土産に頂いたりして100枚以上持っています。
今では観光用の綺麗な物が主流のようです。

1996年にピレニーズの第一回世界大会がイギリスで開かれ出席
2000年にはオーストラリアで、二回目も出席できました。
2005年にフランスのピレネーで開かれ、フランスノ会長ペクー氏から
お手紙まで頂いたのに、夫の骨折入院で行かれませんでした。
17カ国から160人余参加で盛会だったとのに。ビデオを見て我慢。
ピレネーは憧れの地、このカードを見て溜息が出ます。


貴重な絵巻き物

2013-09-05 17:02:53 | Weblog

戦争中の2度の疎開と結婚したことで、無くなっていても仕方がない絵巻物、
70年余たった今でも手元にあるのは有り難い事です。
吉祥寺の家から川越に疎開した時、戦争は勝って又戻れる家だからと置いて行ったのかもしれません。
終戦の年の7月に広島県に再度の疎開した頃は汽車に乗ることさえ大変な状況でした。
名古屋は焼け野原、京都は空襲で汽車をおろされ1泊、3日位掛かり広島県の世羅郡につきました。
8月6日、ぐらっと揺れピカドンの光を見て終戦。9月に吉祥寺の家に帰りました。
この絵巻物は、私の大事な物の一つとして結婚の時に持参しました。
神社仏閣の絵はやたら大きく描いてあるので13Mもの長い絵巻になったわけです。

京都の町に出てお土産を買った嬉しい思い出です。
舞妓さんの絵のついたお扇子や綺麗な箱など買いました。右が私で左がMちゃん。
帰りに鳥羽港から橘丸に乗り、翌朝船のデッキから見た日の出の素晴らしさは今も忘れません。

翌年の4月には初めてアメリカ機が来襲し、学校で机の下の潜ったのです。