いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

手毬 瀬戸内寂聴著

2007年08月31日 | 小説
 これは瀬戸内寂聴氏の良寛さまと貞心尼の物語です。初めてこの本を読んだのは私のメモを見ると1995年の夏でした。

 今の私は寂聴さんの精力的な作家活動と偉大な功績に敬服するばかりですが、私が若かった頃は好きな作家とは言えませんでした。作家瀬戸内晴美さんが出家された1973年11月、私はまだ10代の学生でした。当時私が好んで読んでいた川端康成や太宰治より表現がどぎつくて、女性の作家がこんなことを書くなんて・・・と少し抵抗がありました。突然の出家の報道には驚きました。
 
 瀬戸内文学に興味を持つようになったのは、30代になって古典を読むようになってからです。もっともエッセイや古典的なものを題材にしたもの以外は今でもあまり多くは読んでいませんが・・・。
 西行を描いた「白道」とともにこの「手毬」は瀬戸内文学の中で私の好きな作品のひとつです。最近、久しぶりに読み返してみました。

 実在の貞心尼はどのような人であったかは知りませんが、良寛さまとのこんな淡いロマンスなら微笑ましく感じます。寂聴さんは出家する前の良寛さまは放蕩者、貞心尼は辛い過去を持った人として描いています。だからこそ月の兎の歌に涙する場面があまりに自然に感じて読み進められるのかもしれません。

 良寛さまについては私が小学生のころからたぶんその名前だけは聞いて知っていたように思います。「子ども好きなりっぱなお坊さん」というのが私の中のイメージでした。趣味として書道を始めたころ、有名な書家の先生方が異口同音に「良寛さまの書はすばらしい」と言われていることを知りました。でも、最初のうちはそれを理解することはできませんでした。どこがいいのかさっぱりわからなかったからです。
 それでも細々ながらも歳月を重ねて漢字や仮名を臨書し、少しずつ多くの書の作品に接していくうちに「ああなるほど!」とわずかに感じるようになってきました。2005年4月東京美術倶楽部(御成門)で開催された木村家所蔵の「良寛展」を見た時は少しわかったような気持ちになれました。何かもっと素直な気持ちになるようにささやきかけられているような気分でした。そしてもっと書や古典文学も勉強しようと強く感じたものでした。

 良寛さまの歌は書に興味を持つ以前からそのあたたかい雰囲気が好きでした。

  鉢の子に菫たんぽぽこきまぜて三世の仏にたてまつりてん

 良寛さまの歌の中で私の一番好きな歌です。江戸時代ですからたんぽぽはもちろん西洋タンポポではなく今ではなかなか見られなくなった日本タンポポでしょう。私が京都在住のころ家族や友人と歩いた洛西小塩山の山道で時折見かけました。最初にこの本を読み始めたとき、この歌が仏門に入られた寂聴さまの手によってどう折り込まれているか楽しみでした。
 とてもさりげなく自然に率直なあたたかなお歌と貞心尼の語りの中に溶け込んでいます。
 
  この里に手毬つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし

 これはとても有名な歌です。仮名の書道展などに行くとよくこの歌を書かれた作品を目にします。


  さすたけのきみがおくりし新毬(にいまり)をつきて数へてこの日暮しつ

貞心尼のと良寛さまの交流は30歳の貞心尼が70歳の良寛さまに手毬を贈るところから始まります。良寛さまがお礼に貞心尼へこの歌を贈られました。この物語には貞心尼を慕い続ける佐吉という男と遊女のきくが登場します。生計を立てる為に貞心尼が縫った着物をきくは着ていました。二人とも良寛さま同様、貞心尼がかがった手毬を贈られた人々です。
貞心尼は良寛さまの最後を看取ります。

 物語の随所に散りばめられた良寛さまと貞心尼の和歌を何度も読み返し確かめながら、貞心尼の語りを読んでいきました。煩悩が次第に和らいでいくような心安らかな読後感でした。

城山三郎の昭和 佐高信著

2007年08月29日 | その他
 前回の記事で城山氏の落日燃ゆについて書いたのですが途中で話が本の内容や城山氏のことから少しそれてしまったので人間城山三郎氏について書かれたこの本についての印象を書いてみたいと思います。

 はっきり言ってしまえば城山氏が作品のモデルにした人々以上に作家城山三郎氏の半生もまたすごいなあという印象です。戦争文学と経済小説の第一人者である城山三郎(本名杉浦英一)氏の自宅は茅ヶ崎市の私の実家からもそう遠くない距離にありました。私自身は直接城山氏にお目にかかったことはありませんでしたが、近所の人々や私自身の家族と杉浦家の人々とは交流があったようで、偉大な作家であったにもかかわらず、少しだけ身近に感じるわが故郷在住の作家というイメージでした。

 そんなことから城山氏の作品は少しずつですが読むようになりました。若い頃は会社人間の話は少し苦手でしたが、年齢を重ねるとともに読めるようになってきました。

 城山氏は終戦の直前、17歳で海軍に志願し入隊しました。その時の経験が作家城山三郎の原点になったことをこの本でも確認することができます。私の父は城山氏より2つ年上ですがほぼ同世代です。18歳の時出征して中国大陸に渡り、19歳で終戦を迎えました。温厚な性格ですが戦後はまさに世間でいう企業戦士つまり会社人間として生きてきました。城山氏とは逆に父は私の質問には少し答えるだけで、ほとんど戦争について語りません。城山氏の経済小説を読むたびにかつては父のことを、今は夫や弟や息子のことを考え合せてしまうことがあります。城山氏の小説の主人公は男ばかりです。これも佐高氏の本や他の身近な人々の話を聞くと「城山さんらしいなあ」と思ってしまいます。

 落日燃ゆを読むと広田弘毅についての他の歴史的な文献と比べて、確かに城山氏は広田弘毅を高く評価し過ぎではないかという印象を受けないでもありません。でも佐高氏の本を読むとその取材に費やした歳月と気迫のすごさを知ることができ、何だか人間城山三郎の人柄に尊敬の念を抱きます。


 城山氏が言論の自由が奪われるとして個人情報保護法案の成立に強く反対されていたことはまだ記憶に新しいことです。庶民にとっては商品の販売業者などに勝手に住所録など売られなくなるので一見ありがたそうな法律でしたが、権力者の疑惑隠しにもつながり作家の取材や発表が制限されることもあるということを改めて認識したことでもありました。

 佐高氏の最後の「城山氏は逃れようもなく昭和の子供である。城山氏の作品はすべて昭和という時代との格闘の中から生まれた」という言葉に大きな余韻を感じました。

落日燃ゆ 城山三郎著

2007年08月29日 | 小説
 これは今年3月に亡くなった作家城山三郎氏の代表作の一つで、昭和49年の作品です。東京裁判で処刑されたA級戦犯のうちただ一人の文官であった元首相、外相の広田弘毅について書かれています。平和外交を貫こうと最初の外相時代「私の在任中に戦争は断じてない。」こう断言した広田外相でしたが、2.26事件の後、軍服ではなく「背広を着た男」として首相となり軍の圧力に立ち向かい続けた人だと言われています。

「その人が何故処刑されなければならなかったのでしょう?」
 
 その生い立ちから苦学して外交官となりやがて政治家へそして戦犯として東京裁判にかけれられ処刑されるまでの広田弘毅元首相の城山氏によって描かれた人間像はその疑問をますます大きくします。

 「物来順応」「自ら計らわぬ」として東京裁判では沈黙を守り続けた人でした。指導者たる者の義務として「戦争について自分には責任がある。無罪とは言えぬ。」と言って弁護人すら断ろうとしたそうです。その人が、「殺害の共同謀議」「防止の怠慢」としてかつて対立した軍人たちとともに処刑されました。作者自身の感情がほとんど折り込まれていないのですが、非常に強い印象を感じさせる本でした。また戦争や歴史についてもっと深く学び続けなければならないことを強く感じました。

 東京裁判そのものに疑問を投げかけ日本無罪を主張したインドのパール判事のことは、田中正明氏の本や報道番組で以前から知っていましたが、広田被告の弁護を担当しながらその人柄にも感銘し、裁判や罪状そのものにも疑問を感じ、法廷に法の正義を貫徹させようとしてウェッブ裁判長と対立したスミス弁護人についての記述や広田家の人々についての記述もとても印象に残りました。

 少し横道にそれますが、私は学校教育の過程で「太平洋戦争は日本が犯した大きな間違いであった。私たちは二度と戦争をしてはならない。」と繰り返し繰り返しまるで念仏を唱えるようにして聞かされてきました。今は亡き私の母は空襲など庶民の目で見た戦争や戦後の混乱期の様子を子供のころからよく話してくれました。ですから子供の私は「戦争はとても怖いもの。絶対あって欲しくないもの。」ということが先行していて「何故このような戦争になったのか。それがどう処理されて今の日本になっているのか」ということは中学や高校で歴史を学んだあとも漠然としていました。
 20代半ばから30代前半にかけての海外生活の時にあまりに日本の歴史を知らない自分に愕然とした私は帰国してしばらくしてから高校の日本史の教科書を開いて見ました。でもその時は出来事の羅列ばかりで「こんな文章を読んでわかる高校生がいたらたいしたものだ」と腹ただしく思ったものでした。
 やがて私自身が我が子から戦争について質問され答える立場になって、学び続けなければいけないことを強く感じました。純真無垢で無知な人間は良くも悪くも本当に簡単に洗脳されてしまいます。若い人々のストレートな行動力は世の中の発展にも大きく貢献することもあります。でも反対にとても危険なこともあります。経験と知識は時としてそれにブレーキをかける力があることも年齢を重ねると次第に感じるようになります。

「戦争イコール悪」と唱えるだけでは世界から戦争はなくならないと思います。「私たちは多くの情報の中から何を選択して何を吸収すべきか。」それは人間として生きる毎日の大きな課題のひとつだと言えるでしょう。

そんなバカな! 遺伝子と神について 竹内久美子著

2007年08月21日 | その他
 
 私が高校で生物を学んだ頃はリチャード・ドーキンスの遺伝子の考え方は教科書にはもちろんまだ登場していませんでした。ドーキンスの存在を知ったのも最近です。ドーキンスの「利己的な遺伝子」は見方によっては随分衝撃的ですがちょっと興味を持ちました。最初はこちらの方を読もうとしたのですが根気がなくて途中で挫折してしまいました。

 ところが最近、竹内氏の本についての紹介文を読み、「ドーキンスの理論を分かりやすく解説している」とありましたので早速、竹内氏著作の他の数冊も一緒に読んでみました。その中ではもし誰かに薦めるとしたらこれかなと思います。なるほどと納得しやすい文章で書かれています。でも分かりやすいだけに衝撃はもっと大きくそして明確かもしれません。

 ここではドーキンスだけでなく、その理論を裏付ける多くの学者の言葉がわかりやすく解説されています。
<我々のこの体は、遺伝子が自らを乗せるために作りあげた乗り物である。遺伝子は悠久の時間を旅するという自分自身の目的のために我々の体を利用している。>

 ああ、だから二人のキョウダイと8人のイトコなんだ!自分とキョウダイは1/2、イトコとは1/8の確率で遺伝子を共有し合っている。血縁者が助け合おうとするのは遺伝子存続のため??

 でも現実はこの理論だけではうまくいきません。文化を伝えるミームがもう一つの大きな要素です。

 タカ派とハト派のゲーム理論も興味深いです。

 「鬼の嫁姑戦争はやはりこれか。ああ、わかっていても現実は理性的でありたいものよ!」

 男性分類学も驚きとともに妙に納得でした。竹内氏と私は同い年ではありませんがほぼ同世代です。この本ばかりでなく竹内氏の著作の多くには、はっきり言ってしまえば、「いくらなんでもそこまでどぎつく言わなくても・・・」と言いたくなることが次々に登場します。「世の中の花嫁予備軍の女性たちよ。どうぞケチ男とバクチ男にはくれぐれも気をつけて!!」

 でも竹内氏がドーキンス博士の論理をいくら崩そうとしてもなかなかできないのと同様、私は彼女の論理を崩すには知らないかまたは知りたくても知ろうとしなかったことが多すぎて打ちのめされるばかりです。

 人間だけが中心になって作り出す社会学と違って、地球と地球上の生物全てを巻き込んだ生物学は、立ち向かいたくないさらに多くの醜い事実を露呈させ私を戸惑わせます。

 反面、日常の他人から見たらつまらないかもしれない無数の小さな悩み事からは、次元を変えた生物学を含めた自然科学の本を読み、その世界にのめり込むことによってしばしば解放されます。そして冷めた気持ちになったり、もっと大きな未知な分野に熱い思いを寄せたりすることもあります。それは小説や歴史、時事問題について書かれた書物を読んだ時とはずいぶん違う読後感のような気がします。

診療室にきた赤ずきん 物語療法の世界 大平健著

2007年08月01日 | その他
 これはとても不思議な感じのする本でした。「豊かさの精神病理」「やさしさの精神病理」「食の精神病理」など大平先生の本は今までに何冊か読みましたが、わかりやすい文章でエッセイ風に書かれているので、地下鉄など電車の中で読むことがほとんどでした。

 最初は大平先生の本だということと変わった題名に魅かれて購入したのですが、今回は偶然、次に電車の中で読む本として表紙にカバーをかけようとした時、ふと表紙の絵の中の赤ずきんちゃんに「ちょっと読んでごらんなさいよ!」と誘われたよう様な気がして、「今はちょっとだけよ」と思って開いて読み始めました。静かな部屋の中でヨーヨー・マのチェロの演奏を聴きながら読み進めていくうちに気がついたらあとがきでした。何だか小説の中とも違ういつもは忘れている別の世界へ導かれるような雰囲気を感じました。

 たくさんの物語が細切れにいろんな人々の人生と重ね合わせて登場するのに何故か奇妙に裏打ちされたような説得力があります。
 子供のころから本当にたくさんの物語に接してきましたが、それはまるで「人生とは何か」という問いに対する簡単には納得できないものも含まれた無数の答えが散りばめられているような気がしていました。

 それがこんなに明確に(否本当は無理にかもしれないけれど)人生に重ね合わせることができるなんて・・・!
先生は「はなのすきなうし」(岩波書店)の「ふぇるじなんど」??
それでは私は何でしょう??
 一般的に昔話としてまず浮かぶのは桃太郎や一寸法師ですが、子供のころから好きだったのはかぐや姫でした。この本にかぐや姫は出てきませんが、もし大平先生のように私の人生を考えると姫ではなく姫に無理難題を押し付けられた求婚者たちや一生懸命育てても最後は月へ返してやらなけばならないおじいさんおばあさんだったりするような気がします。かつて子供たちに読み聞かせた絵本の中にもっとしっくりするものはあるでしょうか。そのうち孫でもできたら、きっと孫の為に本屋で一生懸命絵本を探しながら私の人生にぴったりな絵本に出会うのかもしれません。