この本は何故、日本の子供たちは勉強を、若者たちは仕事を、しなくなったのかについて分析されています。
日本は欧米諸国に比べて教育費にお金がかかり過ぎるし、最近の景気低迷を受けて、新政権も高校の授業料の無償化について検討しているようですが・・・。肝心の子供たちに学習意欲がなかったらいくら枠組みをよくしたってこの国を背負っていく次の世代に希望が持てません。まず環境を整えれば子供の意識も変わっていくだろうという意見もあるようですが、この本を読むとそれほど生易しい問題ではないように思われます。
戦争の苦労を体験した親たちに育てられた私たちの世代とその後に続く世代が育てた子供たちや若者たちの現実を改めて突きつけられたような感じです。
この本の著者の内田先生の論理を100%受け入れられるかどうかは微妙ですが、確かにそうだと頷ける部分が多く感じられました。
「何のために勉強するの?」
「何のために働くの?」
最近、インターネットでも、その他のマスコミでもこの問いかけによく出会います。
「等価交換」・・・この本でもっとも印象に残った言葉です。
私たちはその価値を知らない商品は普通は買いません。十分な商品情報を持って適切な商品を選択できるものが賢い消費主体とされます。
「ひらがなを習うことにどんな意味があるのですか?」こんな質問が出てきたら普通の大人ならびっくり!!私たちはそんなこと考えて文字を学んだことはなかったからです。でも・・・今はホントにその辺からぐらついてきたのでしょうか??
超少子化の結果、子供は家庭の中で家事労働を覚える以前に両親や祖父母からこづかいをもらい、消費することを覚えます。
まず消費主体として人生をスタートした子供たちは以後自分の前に差し出されたものを「商品」として捉えるのです。ということは嫌なものは買わないということにもなります。
それでも押し付けられる時、(つまり通常の貨幣が通用しない時)
子供たちは不快という貨幣で教師の提供する教育サービスと等価交換しようとすると言うものです。
起立 礼 着席
ずっと以前から続いている日本の授業の挨拶ですが、だらけた姿勢で立ち上がり、いやいや礼をし、のろのろ着席・・・授業中私語は延々続く・・・のだそうです。
でもこれは、私たちの時代にもあった光景でした。中学や高校時代、面白くない授業でみんなに嫌われている教師の授業はクラスで団結してこのような反抗を試みたことは何度もありました。唯、教師に一喝されれば仕方なくやり直し、以後私語は慎みました。当時は未熟な教師でも一応、生徒との関係はその程度に保たれていたように思います。
「年々、子供の授業態度が悪くなっていく」と教師をしている私の友人たちが異口同音に投げかける言葉です。
どうして今のような授業マナーが定着したのでしょうか??
ここには「捨て値で未来を売り払う子供たちを大量に生み出してしまった社会ができてしまった過程」に対するなるほどと納得したくなる理由が述べられています。
義務教育による勉強は私たちの頃からつまらないものがたくさんありましたから、
意欲がわかないときもたくさんあったと思います。
でも、学ぶと言うことはもともと人間の本能的な欲求であると思います。
ただ、泣くだけだった赤ん坊が2歳くらいまでにはいくつかの単語を話し、3、4歳では文章を話し、5、6歳くらいになると会話がしっかりできるようになります。両親や周りの人々の言葉を必死で学んで獲得した言語です。
私たちが子供のころ、これは何故学ぶのかいちいち考えたことがあったでしょうか?
子供の学びと言うのは理由なんて考えないで学べるものは何でも吸収する、どのように役立つかは後でわかるものであったような気がします。
この本の中に「大学教育の場にシラバスというジョブディスクリプション(学びの行程を最後まで一望できるように教師が講義の前に作成するもの)を持ち込んだことは教育の自殺行為である。」という部分があります。確かに私が学生の頃、そんなものはありませんでした。
ああそうか・・・これも等価交換かあ・・・
あとでちょっと調べてみましたが、現在はほとんどの大学で採用され、講義を担当する教師たちは毎年大学の事務にこれを提出し、学生はそれを見て受講する講義を決定するのだそうです。
さて、もうひとつのポイントは「自分のことは自分で決める」という「自己決定権」の固執です。インフォームドコンセントににより患者が治療法を選択するつまり自己決定する方法などは大人の世界は、これが当たり前になってきています。
それなら出世より、自由を大切にする??若者だって同じ論理です。
でも本当はどうなんでしょう??
自己決定はよいことであるという社会はすべての人が責任逃れをしている社会ともいえるのではないでしょうか。
最後まで読み進めると学ばない子供たち、働かない若者たちは必ずしも自分の意思ではなく、大きな社会の力に押しつぶされているということを感じます。(内田先生はイデオロギーに誘導されているという表現をされていますが・・・)
経済成長の副産物なのでしょうか。
これは先日立ち寄った京都市の〇〇書店の文庫売上げNO.1のコーナーに置かれているのを見て思わず、購入しました。その後首都圏に戻ってからはまだゆっくり書店へ行っていないのでわかりませんが、関東ではどうなんでしょう??
この本は社会への大きな警鐘であると思いました。
日本は欧米諸国に比べて教育費にお金がかかり過ぎるし、最近の景気低迷を受けて、新政権も高校の授業料の無償化について検討しているようですが・・・。肝心の子供たちに学習意欲がなかったらいくら枠組みをよくしたってこの国を背負っていく次の世代に希望が持てません。まず環境を整えれば子供の意識も変わっていくだろうという意見もあるようですが、この本を読むとそれほど生易しい問題ではないように思われます。
戦争の苦労を体験した親たちに育てられた私たちの世代とその後に続く世代が育てた子供たちや若者たちの現実を改めて突きつけられたような感じです。
この本の著者の内田先生の論理を100%受け入れられるかどうかは微妙ですが、確かにそうだと頷ける部分が多く感じられました。
「何のために勉強するの?」
「何のために働くの?」
最近、インターネットでも、その他のマスコミでもこの問いかけによく出会います。
「等価交換」・・・この本でもっとも印象に残った言葉です。
私たちはその価値を知らない商品は普通は買いません。十分な商品情報を持って適切な商品を選択できるものが賢い消費主体とされます。
「ひらがなを習うことにどんな意味があるのですか?」こんな質問が出てきたら普通の大人ならびっくり!!私たちはそんなこと考えて文字を学んだことはなかったからです。でも・・・今はホントにその辺からぐらついてきたのでしょうか??
超少子化の結果、子供は家庭の中で家事労働を覚える以前に両親や祖父母からこづかいをもらい、消費することを覚えます。
まず消費主体として人生をスタートした子供たちは以後自分の前に差し出されたものを「商品」として捉えるのです。ということは嫌なものは買わないということにもなります。
それでも押し付けられる時、(つまり通常の貨幣が通用しない時)
子供たちは不快という貨幣で教師の提供する教育サービスと等価交換しようとすると言うものです。
起立 礼 着席
ずっと以前から続いている日本の授業の挨拶ですが、だらけた姿勢で立ち上がり、いやいや礼をし、のろのろ着席・・・授業中私語は延々続く・・・のだそうです。
でもこれは、私たちの時代にもあった光景でした。中学や高校時代、面白くない授業でみんなに嫌われている教師の授業はクラスで団結してこのような反抗を試みたことは何度もありました。唯、教師に一喝されれば仕方なくやり直し、以後私語は慎みました。当時は未熟な教師でも一応、生徒との関係はその程度に保たれていたように思います。
「年々、子供の授業態度が悪くなっていく」と教師をしている私の友人たちが異口同音に投げかける言葉です。
どうして今のような授業マナーが定着したのでしょうか??
ここには「捨て値で未来を売り払う子供たちを大量に生み出してしまった社会ができてしまった過程」に対するなるほどと納得したくなる理由が述べられています。
義務教育による勉強は私たちの頃からつまらないものがたくさんありましたから、
意欲がわかないときもたくさんあったと思います。
でも、学ぶと言うことはもともと人間の本能的な欲求であると思います。
ただ、泣くだけだった赤ん坊が2歳くらいまでにはいくつかの単語を話し、3、4歳では文章を話し、5、6歳くらいになると会話がしっかりできるようになります。両親や周りの人々の言葉を必死で学んで獲得した言語です。
私たちが子供のころ、これは何故学ぶのかいちいち考えたことがあったでしょうか?
子供の学びと言うのは理由なんて考えないで学べるものは何でも吸収する、どのように役立つかは後でわかるものであったような気がします。
この本の中に「大学教育の場にシラバスというジョブディスクリプション(学びの行程を最後まで一望できるように教師が講義の前に作成するもの)を持ち込んだことは教育の自殺行為である。」という部分があります。確かに私が学生の頃、そんなものはありませんでした。
ああそうか・・・これも等価交換かあ・・・
あとでちょっと調べてみましたが、現在はほとんどの大学で採用され、講義を担当する教師たちは毎年大学の事務にこれを提出し、学生はそれを見て受講する講義を決定するのだそうです。
さて、もうひとつのポイントは「自分のことは自分で決める」という「自己決定権」の固執です。インフォームドコンセントににより患者が治療法を選択するつまり自己決定する方法などは大人の世界は、これが当たり前になってきています。
それなら出世より、自由を大切にする??若者だって同じ論理です。
でも本当はどうなんでしょう??
自己決定はよいことであるという社会はすべての人が責任逃れをしている社会ともいえるのではないでしょうか。
最後まで読み進めると学ばない子供たち、働かない若者たちは必ずしも自分の意思ではなく、大きな社会の力に押しつぶされているということを感じます。(内田先生はイデオロギーに誘導されているという表現をされていますが・・・)
経済成長の副産物なのでしょうか。
これは先日立ち寄った京都市の〇〇書店の文庫売上げNO.1のコーナーに置かれているのを見て思わず、購入しました。その後首都圏に戻ってからはまだゆっくり書店へ行っていないのでわかりませんが、関東ではどうなんでしょう??
この本は社会への大きな警鐘であると思いました。