you are my sunshine

40代で始めて今や60代。
光陰矢の如し。年明けたらあっという間に年の暮れ。

帰省2017夏 そして両親のこと

2017-08-07 | 老いた親のこと
福岡に住む年老いた夫とわたしの両親。
4人とも健在ですが、母以外80歳超えてます。

夫実家に娘は2泊しましたが、わたしは義父と義母のそれぞれの本家の仏様参りをした後、
寄って少し話をして、姉のところに泊まりました。

義両親は元気そうではありましたが、義母は痩せたな~と思いました。
ちょうど夜勤明けで義弟がいたので、
「ちょっといいですか」と外でふたりで話しました。
「お父さんたちは実際のところ身体の具合とかどうなんですか?」と。

義母は今のところ心配ないけど、どうも義父が認知症の傾向が出てきているようにも思うと。

離れていてなにもできていないことを詫びたのですが、
義弟は、義父にもし認知症とかでてきたら、義母はみることはできないから、
施設に預けるしかないと思うし、自分もそのつもりで考えて準備もしている。
自分のまわりには、独身で親を見送った友人が何人かいるので、そのひとたちがいろいろ教えてくれる。
だからそっち(わたし達)はあんまり心配しなくていいよって。

夫ともそういう話はするのか聞いたけど、
夫が帰省して帰る時に、最寄駅まで送っていく車の中で少し話すくらいかなと言ってました。

遠方に住んでいるわたしたちが全くアテにならないからだろうけど、
ほんとにできた義弟で感謝しかないです。
叔母からたくさんもらった野菜でいくつかお惣菜を作り、あとは煮た魚を差し入れたくらい、
そんなことしか夫実家にはできませんでした。


一方わたしの両親。
こっちは弟夫婦が同居してくれていますし、姉が近くに住んでいるので、
弟のお嫁さんや姉がやりくりして病院なども連れて行ってくれてます。
ここでもわたしは全くアテにされてないし、何もできてません。

これまで帰省しても、
もちろん実家にも顔を出しますが、家族みんなでご飯を食べても、
わたしも友人と会ったり、親戚をまわったり、
弟のお嫁さんが専業主婦でずっと家にいたせいもあり、
ゆっくり両親と話すことはありませんでした。
お嫁さんも2年くらい前から仕事に出たのですが、これまたなんとなく、
お嫁さんがいないのに、あがりこむのも悪いかなとできずにいました。

でももういいやと思い、お嫁さんが仕事の日に、
姉が作ってくれていたおかずを持って、実家に。
たまたま叔母が電話してきたので、叔母にも遊びにおいでと誘って、
3人でお茶飲んだり、お昼ご飯を食べたりしながら、お喋りしました。
父はその日デイサービスの日でいませんでした。

母はお嫁さんの愚痴を時々言います。
これまでは叱ってましたが、誰も愚痴る人がいないのも可哀想だし、
年に1~2回しか会わない娘にくらい愚痴ってもいいじゃないかと、
聞いてあげました。
でも結局母に注意しちゃうんですけどね。

脳梗塞を2回やった父はいっとき入院していましたが、今は退院して自宅に戻ってます。
入院中はトイレも行けなかったのに、今はオムツはしてますが、自分で行けるようになりました。
中学生の甥っ子がほんとによく父を相手をしてくれます。優しい甥っ子です。

弟が、母の負担が大きいから、そう遠くない先に父には施設に入ってもらうかもとも言ってました。

父は、わたしと娘がこの夏に顔を出したら、
覚えてませんでした。
あんまりショックではなかった。その前も時々忘れたようなことを言うことがあったから。
でもまだらボケのような感じで、まったくボケてないようなところもあるんですよね。
ひと付き合いもあまり好きではなく、
家で本を読んだりテレビを見たり、一番好きなのは寝ていることだった父なので、
デイサービスなんて絶対に行きたがらないとみんな思っていたのに、
意外に嫌がらずに行ってるようです。時々は行きたくないという日もあるようですが。

「お父さん、えらいね、ちゃんと行ってるんだ」とわたしが言うと
「仕事やもんな」(仕事だからな)と。

実家に遊びに行った日の午後からは、
友人のお母さんと、元上司の奥さんが亡くなられたので、そのお参りに行って、
また夕方顔を出したら、父親がデイサービスから戻ってました。

買ってきたどら焼きを食べながら、母と3人でお喋り。

デイサービスに行く朝、父が起きれなくて母が叱ったり、
父もイライラして母を怒鳴ったりと、
お互い口を開けばケンカしているようなふたり。

父と母に「ケンカばっかりせんで仲ようせんといかんよ」というと、
父が「助けあっとる」と真面目な顔で言った後、ニッと笑いました。

認知症で、離れている娘や孫娘の顔も時々忘れ、普段からあんまり喋らず、
一日をソファに座ってぼおっっとテレビをみてるか寝てるかの父が、
そんな労わりあった言葉を言うとは・・・。

グッときてしまい、思わず涙が込み上げました。

気丈な母も、目が潤んでました。


姉が言ってました。

「傍から見ると大変にしかみえないかもしれないけど、そのなかにもちゃんと幸せはあるんだよ」と。








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帰省2017夏 大宰府天満宮とラスコー展

2017-08-07 | 日々のこと

娘は生まれてから14年、ずっと年に1~2回福岡に帰省しているわけですが、
いつも両実家で過ごし、その近辺にちょこっと出かけるくらいでした。

今回初めて、
横浜に戻る1日前に、急にですが博多駅前にホテルを取りました。
1日くらい旅行気分を味あわせたいと。
もちろんわたしもそうしたかったので。

学問の神様で有名な菅原道真公を祀った太宰府天満宮に行ってみました。
たぶん結婚してから一度も行っていない気がしますから20年ぶりくらいでしょうか。

ビックリしました。
なにがって、アジア系の旅行者が多いことに。
ここはどこ!?ってくらいです。

わたしは横浜のど真ん中のわりとアジア系外国人が多い場所で働いてます。
いつも寄るコンビニはホテルの中に入っていて、
そこでは毎朝たくさんのアジア系の旅行者をみかけます。
そういうわけで横浜も外国人観光客は多いけど、それよりももっと密度が濃い感じでした。
九州は韓国や中国とも近いので、大量のアジア人旅行者がやってくるみたいです。


天満宮の参道ももうここは鎌倉か京都かってくらいあちらと似たようなお店が並んでいて、
なんというか以前の太宰府天満宮の風情が一変してました。
ちょっとした衝撃でしたね。



滞在わずかなのに、日本人との違いがわかるようになりました。
日本人は猫背ですね。あちらのひとは堂々と歩いてる。
それとあちらの女子は化粧が濃いわー。








九州国立博物館にも初めて足を運びました。
太宰府天満宮の隣りなんで。



右の建物ですが、ガラス張りの建物に、山々の風景が映ってなかなかいいです。




ちょうど「ラスコー展」が開催されていました。





ラスコー・・・・・・!?
一瞬忘れてました。
壁画でしたね。
懐かしいわ~、むかーしむかーし世界史にでてきたな。


入場料、中学生は600円必要でした。

わたし、国や県や市が運営する美術館と博物館は、小中学生は無料だと認識していました。
子どもは本物をタダでみてよろしいという国の方針なんだ、素晴らしいなと。

東京や横浜、京都や神戸など無料だったので、全国だとばかり思っていました。違ったのね。




隈研吾氏が手掛け一躍注目された太宰府天満宮のスタバは、
日本人のみならず外国人にも外せない撮影ポイントみたいです。

あと、天満宮内のなでれば頭がよくなるかも!?な黒牛も、
撮影ポイントみたいで行列ができてました。


この後、博多駅前にあるビジネスホテルに移動しました。

夜ご飯は、以前わたしが食べたKITTEの中に入ってる「博多とりかわ大臣」に娘を連れて行ったのですが、
あの時は並ばずに食べれたのに、
今回は行列ができていて、あっさりと断念。

その隣のテムジン餃子へ。(ほんとは「餃子のテムジン」っていうんだけどね)
昔天神の旅行会社で働いていた時に、近くにあったお店だったので、
一度くらい行った記憶があるようなないような。

焼き餃子も注文しましたが、他にから揚げと焼き飯も。
ここのから揚げも外がパリパリでわたしたち好みでした!
から揚げ好きとしては、また食べに行きたいくらいです。
大きかったけどわたし5個くらい食べられるわ。

あと焼き飯もおいしかったー!。
チャーハンではなく焼き飯派です!

お腹を満たし、まだまだ博多の夜を満喫すべく最後は映画。
レイトショーにしたかったのですが、中学生まではダメなんだそう。
午後7時50分の回に。

娘がみたいと言っていた「メアリと魔法の花」

全然知識がなかったのですが、感想はというと、
これってこれまでの宮崎駿作品へのオマージュ!?悪く言えば宮崎作品のパクリ!?

でもまぁそれも含めて楽しめたからいいんですけどね。


ホテルの部屋のカーテンを開けると、真ん前が博多駅でした。(一番奥の部屋だった)
テンション高く博多駅に向いて、バイオリンの練習をする娘。
髪広がりすぎてるし・・・(怖っ!)




翌日は、博多ラーメンを食べて、わたしは駅の中でマッサージなどしてもらって、
娘はといえばどこに行ってもだけど、書店で過ごし、午後の飛行機で横浜に戻りました。
今回もスターフライヤーにしました。
前回絶賛したわたしでしたが、
空港内での移動にかなり時間がかかることや、
出発時間の遅れなどもあり、次からはやっぱりANAにしようと思いました。
ほんとコロコロ言ってることが変わるわたしだわ。


観光は正味1日だったけど、娘もわたしも旅行気分を味わうことができました。
急だったけど、我ながらいいアイデアだったわ!

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帰省2017夏 被災した友達のところへ

2017-08-07 | 日々のこと

お盆ではなく、7月21日から福岡に娘と帰省しました。
まず、九州北部豪雨で被災した東峰村の友人のところへ。

わたしの弟と娘も一緒です。

弟は仕事関係で、被災した地域にはお客さんもいて、
どんなに大変なことになっているのかわかっているので、俺も行くからと言ってくれたようです。

みどりちゃんが、あるなら高圧洗浄を持ってきてもらえると助かるというので、
幸い実家にあったので弟が用意してくれました。

朝6時に出発したのですが、高速を使って杷木インターで降りて、途中コンビに寄ったりトイレ休憩しても、
1時間半くらいで着きました。

弟からビックリするぞとは聞いてましたが、
途中、一面土砂に覆われてしまっている場所を目にして、どれだけの土石流が流れ込んだのかがわかり、言葉を失いました。

ただ同じ地域でも道をはさんで片方は家が浸水、片方は全く被害なしと、
報道では東峰村とか朝倉とかでると、その町全部が被害にあってるように思うけど、
実際は一部の場所なんですよね。

横を小さな谷川が流れている友人の家はどうなっているのだろうと不安に思いながら、到着。
道路から少し坂を登ったところにあるのですが、友達の家に行くための小さな橋が落ちてしまっています。
友達の家の後ろにも家があり、そこも橋を渡るのですが、それも落ちてました。

丸太3本並べて、その上に板を張り付けた臨時の橋を造ってました。

久し振りに会う友人は、日焼け止めを顔いっぱいに塗った真っ白な顔で、ギャハハと笑いながら出てきました。
よかったー!

ありがとねーと言いながら、ざっと被害の状況を説明してくれて、
皆でさっそく作業にとりかかります。

やったのは住宅設備の仕事をしているご主人の作業場となっている車庫の泥流し。
おおまかな泥は、ご主人が重機を使ったり、
すでに手伝いに行ってる友人たちが頑張ってほぼすべて出してくれているので、
わたしたちは置いてあるものを動かしながら、泥で赤茶色になっている床のコンクリートや、
泥をかぶっているものを高圧洗浄で洗い流していく作業です。

楽でした。
先に手伝いに行った友人たちはスコップで泥出しをほぼ1日やったようで、
ほんとに大変だったと思います。

地下も広い倉庫兼車庫になっていて、そこも同じ作業をしました。
ご主人は真っ赤なポルシェを持っているのですが、そこに置いてあったので泥まみれだったそうですが、
幸い無事でした。

友人がもう今日はこれで終わるよと言ってくれ、
わたしたちは結局午前12時で終了。

ほんの少ししか手伝うことができなかったけど、友達やご主人が喜んでくれ、ちょっとはお役にたててよかったです。
元気そうな顔もみることができたし。
反面、頑張り過ぎてるなとも思いました。
今は気を張ってるけど、後からどっと疲れがくるんじゃないかと心配もしています。



被害からもう1ヶ月が過ぎましたが、いまだに徒歩のみ、重機も入ってない孤立した地域もあると新聞にありました。
8月6日そして9日は72年前に広島と長崎に原爆が投下された日。

ある日突然、風景からすべてが一変してしまう・・・。

実際に世界のどこかでそういうことは毎日のように起きているのだけど、
わが身に降りかからなければ、気にもしない。
今ある生活がずっと続いていくものだと、疑いもしないし考えもしない。

でも東峰村の友達のことや、ラジオから流れた原爆の日というのを聞いたりして、
なにもない普通の生活は、奇跡の積み重ねなのかもしれないなと思ったりしました。

それも「その時」だけなのですけどね。






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