retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

山手線品川駅(御楯橋付近高浜運河)

2009-09-27 03:24:36 | Weblog
御楯橋を渡り、高浜運河の東岸へ。
橋の半ばから、高浜運河を、見やると、雨が降り続いていたせいか、海水は、土色に濁っている。それに、なんだか、運河全体が、膨れ上がっているようにも見えるな。
川ではないので、洪水になることは、ないのだろうけど。
ところで、今、渡っている橋、御楯橋、というのだが、橋の名前が、ちょっと、変わっている、と思うのは自分だけだろうか。
橋ができたのは、戦争の頃。御楯橋という名前は、戦意高揚のために、付けられた、ということらしい。
どういうことか、というと、万葉集に、以下の歌がある。
「今日よりは返り見なくて大君の醜の御楯と出で立つ我れは」
今日からは、国のため、楯になりに行くのだ、という、勇ましい歌だ。
この歌に出てくる、「御楯」、を、戦意高揚のため、橋の名前にしたのだろう。
でも、どうも、「醜の」、という言葉が引っ掛かるのだ。
謙譲語だとしても、そんな言葉を、使うものだろうか。
ということで、同じような、言葉を捜して、考えてみる。
例えば、相撲で出てくる、「四股を踏む」、の「四股」は、昔は、「醜」、といっていたようだ。
つまり、力士が、踏んでいるのが、「醜」、ということになる。
では、何を、踏んでいるのだろうか。当然、地面、に違いない。
そして、その「地面」の下には、古来、根の国、黄泉の国、いわゆる、「あの世」、があると、考えられてきたわけだ。
もう一つ、例を挙げる。
「しこ」、と読む言葉に、「鬼」、がある。鬼は、黄泉の国、にいるのだが。
その、鬼(しこ)、を踏む、というと、邪鬼を踏み付けて立つ、四天王像を思い出す。このことは、相撲の力士が、「しこ」を踏む、ということと、共通しているように思えてしまうな。
以上から、「醜の」、という言葉は、「この世ならぬもの」、という意味なんじゃないだろうか、と思うのだ。
もし、そうなら、この歌の意味は、
今日からは、自分は、いないものと思ってください。なぜなら、あの世に旅立ってしまうのですから。今生のお別れです。
という、ことになる。
この歌は、防人の歌、ということだが、実際、防人が、どの程度の生還率だったのだろうか。ちょっと、わからないけど。
ただ、防人へ徴兵されれば、生きて戻って来る、なんて、とても、考えられなかったに違いないはずだ。
そんなことを考えながら、土色に濁った、海水を見下ろすと、うねうねと、地面が、波打つ様に見えてしまう。
御楯橋の下は、「この世ならぬもの」、なのかな。
(2009年5月記)

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