retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

山手線池袋駅(南池袋二丁目 新しい道路)

2011-07-31 08:45:09 | Weblog
東へ東へと、歩いていくと、突然、開けた場所。
広場があるわけではなく、南北に伸びる、幅広の通りの、工事現場。
そのまま、南側、先のほうには、東西に伸びる、目白通りと、南北に伸びる、明治通りとの、立体交差点がある。
そこで、明治通りに、合流するようだ。
北側だと、池袋六ッ又交差点で、明治通りから、分岐した、大通りが、工事中の道路の、延長上にある。
ということは、明治通りの、バイパスになるわけだ。
たしかに、明治通りは、池袋駅東口の駅前広場に接していて、とても、混雑する。
だから、この幅広の道路が、開通すれば、交通の便は、かなり、改善されるだろうな。
もっとも、昔、来たときは、このあたり、都心とは、思えないような、田舎びた、光景だったけど。
ひょっとしたら、根津山の森の名残りかもしれない。
そういった、光景が、代わりに、消滅してしまうわけか。
(2010年12月記)

山手線池袋駅(南池袋三丁目 東通り)

2011-07-30 05:49:42 | Weblog
さらに、南側に、歩いていくと、東西に、伸びる、東通り。
池袋駅南側の、びっくりガードから、東に伸びている。
といっても、直通しているような、感じはしない。
びっくりガードは、池袋駅東側を、南北に伸びる、明治通りに、行き着いていて、その交差点から、たまたま、ひっそりと、路地が、東に、伸びている、そういう感じなのだ。
いちおう、東通り、商店街にはなっているけど、賑やかではなく、どちらかというと、とても静か。
さっき、訪れた、寺町の他に、この通りの、南側も、寺町に、なっていて、それで、静かなのかもしれない。
初めて、通ったときは、池袋とは、とても、思えなかったな。
もっとも、一帯は、池袋駅の南側も含めて、もともとは、池袋、ではなくて、雑司ヶ谷、といってもいい。
むしろ、下町的な、池袋よりも、閑静な、目白に近いように思う。
そういうことも、東通りの静かさの、理由なのかも。
その、東通りを、東へと、歩いていく。
(2010年12月記)

山手線池袋駅(南池袋二丁目 妙典寺)

2011-07-29 05:05:04 | Weblog
グリーン大通りから南へ。
街中に入っていく。
すぐに、寺町。緑が多くて、静かだ。
幾つかの寺院の中、一番、西側には、妙典寺。
根津山の森、このように、寺院が、並んでいたのかと、思ってしまうが、この場所に、寺町が、できたのは、実は、戦後のこと。
おそらく、森林地帯が、消滅した直後のことだろうと思う。
妙典寺に関してだが、それ以前、グリーン大通りの北側、ちょっと、入ったところに、あったらしい。
ということは、根津山の森の北側ということか。
ただ、そこに、もとからあったわけではなく、明治時代の終わり頃、別の場所から、移転してきている。
その場所とは、新宿市ヶ谷の北西側、月桂寺の東隣。
ちなみに、江戸時代の地図を、見てみると、はたして、たしかにある。
さらに、それ以前は、江戸時代初期、市ヶ谷あたり。
江戸時代の初期に創建されたのだが、江戸城が、外濠まで、拡張したことにより、移転している。とすると、創建して、すぐに、移ったわけだ。
そして、今は、池袋駅の東口、静かな寺町に、落ち着いている。
(2010年12月記)

山手線池袋駅(東池袋一丁目共同ビル計画工事現場)

2011-07-28 05:09:54 | Weblog
しばらく、グリーン大通りを、南東に、歩いていくと、通りの、北側に、東池袋一丁目共同ビル計画の工事現場。
グリーン大通りの北側は、猥雑で、チープな繁華街、という感じだったのだが。
そんな場所も、いよいよ、再開発されるわけか。
そういえば、グリーン大通りの北側には、サンシャイン60ストリート、という、東池袋を代表する、通りがある。
渋谷のセンター街に、似ているのかな。
通りの行き着く先は、サンシャインシティ。
サンシャインシティは、高度成長を成し遂げ、安定期に入った時期、広大な、巣鴨拘置所の跡地に、完成している。
当時は、こんな、池袋と大塚の間の、辺鄙な場所に、巨大高層ビルなど、建てても、不便なだけだろう、と揶揄されていたそうだが。
完成すると、予想に反して、大盛況。
サンシャイン60ストリートも、今に至るまで、賑やかだ。
だからだろうか、なんとなく、当時の安穏とした、時代を思い出して懐かしくなる。
だが、それも、将来は、再開発されて、なくなっていくのかもしれないな。
(2010年12月記)

山手線池袋駅(東池袋一丁目 グリーン大通り)

2011-07-27 03:24:36 | Weblog
池袋駅の東側、南東方向に伸びている大通り、グリーン大通り。
駅前や、サンシャインシティの繁華さと、比べて、ずいぶんと、静かな感じだ。
ひょっとしたら、この静けさ、一帯が、かつて、森だったことと、関係があるのかもしれない。
その森の名前は、根津山。
根津山の「根津」は、東武鉄道の、創始者、根津嘉一郎から、とられたらしい。
なんでも、東武東上線の、池袋以南延伸ルートとして、根津嘉一郎が、土地を、買収したのだが、結局、延伸はかなわず、そのまま、森が、手付かずで、残された、ということだ。
本当かどうか、わからないけど。
それ以前は、六郷社の森。さらに昔、江戸時代は、中西の森、とよばれていたらしい。
時代を経て、なお、森は、残っていたのだ。
昭和の初め頃になって、そんな森を、貫く、幅広の通りが、開通する。
改正通り、という名前。今の、グリーン大通り。
それでも、森は、まだまだ、残る。
だが、戦後になって、区画整理。
幾世代も残っていた森は、あえなく、消滅する。
かつて、森を、貫いていた、大通り、グリーン大通りの、「グリーン」は、消えた森のことなのだろうか。
あれだけ、長くあり続けた森のことを思うと、そうあって欲しいような気もする。
(2010年12月記)

山手線池袋駅(東池袋一丁目 通り沿いの古い店)

2011-07-26 06:08:42 | Weblog
高田馬場から山手線。池袋駅で下車。
駅東側に出る。
いちおう、季節は、冬になったのだが、天気は、穏やか。
まだ、晩秋、といったところ。
小春日和、なのかな。
駅前広場を渡ると、大通りが、南東方向へ、伸びている。
池袋のメインストリート、と言いたいのだが、なぜか、街外れの雰囲気だ。
池袋駅東口は、北側の方が、賑やかな気がする。
しばらくすると、通りの北側に、とても、古そうな店。
ビルの間に、埋もれるようにして、建っている。
いったい、いつから、この地にあるのだろう。
おそらく、高度成長期あたりか。
とすると、サンシャインシティは、まだ、建っていず、その場所には、巣鴨拘置所があったはず。
さっそく、当時の地図を、見てみると、実は、今と、あまり、変わっていない。
ただ、繁華街は、やはり、駅前広場の南側、西武デパートの前あたり。
そこを、外れると、普通の商店が、並んでいたのだろう。
その商店の中、残ったのが、この、古い店なのかな。
(2010年12月記)

有楽町線新富町駅(新富町駅周辺)

2011-07-25 04:02:54 | Weblog
三吉橋で、思い出すのが、三島由紀夫の「橋づくし」。
無言で、七つの橋を、渡りきると、願い事がかなう、という俗信じみたことを、実行する話。
その出発点が、三吉橋なのだ。
ただ、「橋づくし」、そのまま、南へと、築地川を下っていくわけではなく、上流へと、上っていく。
すなわち、まず、東へ向かい、南北に伸びる、新大橋通りとの交差点、入船橋交差点を過ぎたあたりで、南へ。
築地川の流路跡が、緑地帯として、今に、残っている。
しばらく、南へ向かい、東へ、向きを変える。聖路加病院の南側を、そのまま、東へ。
こちらは、あかつき公園として、流路跡が、残っている。
隅田川に行き当たると、そこが、築地川の、出発点だ。
こうみると、築地川、川というよりも、隅田川の川水を、引き込んだ、水路なんだろうな。
だが、「橋づくし」は、隅田川に向かうわけではない。
築地川は、さらに、南へも、伸びていて、そちらに、向かうのだ。
南へと、進むと、今度は、築地本願寺あたり、別の水路が、北西へ。
これで、七つの橋を、いちおう、クリアするらしい。
コースを見ると、ぐるりと、回っているようなので、そういうことも、条件に入っているようだ。
ふと、もしかしたら、と思い、今日の、道行を、振り返ってみる。
三吉橋、亀井橋、祝橋、万年橋、采女橋、そして、千代橋。
「橋づくし」では、三吉橋は、三叉の橋、ということで、二つ分の橋、にしてある。
ということは、七つの橋、ではないか。
特に、願をかけたわけではないけど、これで、願い事が、かなうのかな。
たんなる、作り話でのこと、真に受けるつもりもないが。
でも、ちょっと、嬉しくなる。
帰るため、そのまま、新富町駅へ。
(2010年11月記)

有楽町線新富町駅(築地一丁目 三吉橋)

2011-07-24 08:09:50 | Weblog
さらに、北に向かうと、三吉橋がある。
今となっては、橋の下に、川があるわけではないが、築地川が、流れていた頃、ここで、北からと東からの流れが、合流していたらしい。
そして、ちょうど、合流している、真ん中から、橋が、三方向に伸びていて、つまり、三叉の橋になっていたのだ。
こういうタイプの橋、珍しいのかどうか、わからないが、知る限り、ここでしか見たことはないので、珍しいのだろう。
三吉橋、という名前も、おそらく、三叉の橋、からだろうけど、どうして、三叉が、三吉なのか、わからない。
そんな築地川なのだが、じつは、このような、流路、昭和になってから。
したがって、明治時代の地図を見ても、三叉の三吉橋はなく、普通の橋、合引橋、が架かっているだけ。
どのようにして、このような流路になったのか、というと、北側に、楓川、という川が、あって、東側に流れる、桜川に、合流していたのだが、その、楓川を、少し、南に伸ばし、築地川に、繋いだのだ。
三吉橋も、それから、しばらくして、完成したのだろう。
でも、高度成長期になると、その、すべては、埋められてしまった。
ちょっと、儚い気もする。
(2010年11月記)

有楽町線新富町駅(築地一丁目 亀井橋)

2011-07-23 08:16:42 | Weblog
かつての、築地川、今の、掘割になった、首都高都心環状線の縁に沿って、北東へ。
次に、架かる橋が、万年橋。
その、万年橋の北側には、公園があるが、なぜか、采女橋公園、という名前。
万年橋公園、でも、よさそうだが。
おそらく、江戸時代の、采女が原、万年橋のすぐ東側に、あったわけで、本来は、万年橋を、采女橋、にすべきだったのだろう。
ただ、万年橋は、万年橋なので、南側の、二の橋、という、変哲もない、名前の方が、変えやすかったに違いない。
ということで、万年橋の北側の公園、采女橋公園、になったのかな。
さらに、北東へ。
次の橋が、祝橋。
ここからは、明治時代に入ってからの、架橋だ。
その次が、亀井橋。
名前の謂れは、元津和野藩主、亀井茲濫が、私財を投じて、作ったから、ということらしい。
明治維新、という変革の時代の、息吹を感じさせる、逸話だ。
(2010年11月記)

都営大江戸線築地市場駅(築地五丁目 采女橋)

2011-07-22 05:26:59 | Weblog
料亭の、通りを挟んで、北側には、新橋演舞場。
料亭街といえば、芸妓は、付きものだ。
そういうわけで、その芸の、披露の場として、こうした、演舞場も、あったのだろう。
そう考えると、新橋演舞場も、この地が、料亭街だったことの、名残りなのかもしれない。
新橋演舞場の北側には、南東へ伸びる、みゆき通り。
みゆき通りが、築地川を越えていく橋が、采女橋だ。
名前の由来は、東側に、かつて、伊予今治藩屋敷があり、藩主、松平定基、通称、 采女、から、とられたらしい。
ちなみに、近くの広場は、采女が原、と呼ばれていた。
もっとも、江戸時代は、二の橋、という名前。
とすると、采女橋は、伊予今治藩藩主の名前から、というよりも、采女が原から、ということかも。
ちょっとわからないが、いずれにしろ、一帯は、江戸時代、武家屋敷が、並んでいたには違いない。
かつての、料亭街、それ以前は、また、違った、別の、側面を、持っていたわけだ。
(2010年11月記)